第伍話 隔絶

 わたしは頷いて襖を開けた。肩にいたイカスミが羽ばたいて、わたしのスクールバッグの上にちょこんと着地する。


「たしかこの辺に……あった」


 そう言って、篝は箪笥からなにやら布を取り出した。

 月光じみた銀の色をした千鳥があしらわれた白地の小袖だ。その上に縹色の袴が重ねられる。


「えっ、かわいい」

「ミチには少し大きいかもしれないけど」


 そう言って、篝はわたしに小袖をあてがう。


「ひとりで着れる?」

「ええっ、むり。浴衣で精いっぱいだよ。ていうか、着替えってこれ?」

「うん。ミチの服は目立つから。八嶌じゃ、女の洋装はあまり浸透してないんだ。まあ浄紫の女は着ているけど、ミチの服とはちょっとちがう」

「ふぅん? でもわたし、着物なんて着れないよ。なにか制服の上から羽織るんじゃダメ?」


 わたしはそう言って、一段折ったスカートの折り返しを伸ばして、できるだけ下に下げる。

 着物は自分ひとりで着たことがないうえに、長襦袢とかいうインナーを着なきゃいけなかったり、帯結びをしなきゃいけなかったり難しいイメージがあって、自分じゃできる気がしない。

 なので衣装箪笥から羽織り物を探すことにした。

 流水文に蝶が舞う羽織りを見つけて、ワイシャツの上から重ねてみる。


「ヘンかな?」

「……俺に年頃の娘の装いについて聞かないでほしい」


 そう困惑気味に言いつつも、篝は熟考の末、ダメ押しとばかりに袴をわたしに差し出した。さながら、ちょっと控えめなアパレルブランドのショップ店員さんのようだ。

 スカートは八嶌では浮くということだろうか。わたしもいらぬ面倒は引き起こしたくないので、素直にそれを受けとった。

 羽織りは白地に青で文様が描かれているので、袴の縹色とも喧嘩しない。


「履いて、テキトーに結ぶだけで大丈夫?」

「うん。外で待ってる」


 でも、こんなに綺麗なものを着たりして汚さないだろうか。七五三以外で和装をしたことがないので、なんだかとっても緊張してしまう。


「ここに置いていっても灰になるだけだから。ミチが嫌じゃないなら着て。小袖も今は着れなくても持って行っていいから」


 わたしの心の声を読んでくれたのか、篝のやわらかい声が降ってくる。

 そりゃあ、嫌じゃない。綺麗なおべべを着るのは嫌いじゃないほうだ。似合うかは別として。

 というか灰になるってどういうことだろう。

 灰になるのくだりについて質問できないまま、篝は外に出て行ってしまう。なんでか知らないけど、イカスミも篝の頭に乗っかって出て行った。

 もしかしてイカスミってば男の子なのかな。わたしもさすがに烏に着替えを見られて騒いだりしないんだけど。あれだけ傍若無人なのに意外なところで律儀な烏だ。

 わたしは袴に足を通すと、紐を前と後ろに交差させて胸の下あたりでぎゅうぎゅうに蝶結びをした。見栄えは二の次。兎にも角にもずり落ちないことが重要だ。

 それから長羽織をカーディガン代わりに羽織る。前に美術館の企画展で見た、藍型えーがたに似ている。たしか沖縄の染め物だ。まあ、この八嶌に沖縄はないのだろうから、あくまでも似ているだけにすぎないんだろうけど。姿見の前でくるっと回転してみると、意外となかなか悪くない。

 篝を呼ぶと、彼はわたしをひと目見て微笑んだ。


「似合ってる」


 あんまり飾り気のない言葉に、わたしは一瞬固まってしまう。頬に熱が集まるのを感じて、わたしは自分の顔を両手で包んで後ろを向いた。

 篝ってば、もしかすると無自覚系たらしさんなのかもしれない。これを計算でやっててもおそろしいけど、無自覚ってますますタチが悪いと思う。ましてや一般的な日本人女子って褒められ慣れていないからなおさらだ。


「い、異星人っぽくない?」

「異星人って」


 篝は苦笑してから、わたしのスクールバッグからはみ出した小袖に目を留めた。


「あの、お言葉に甘えて本当にもらっちゃったんだけど」


 今になって遠慮すればよかったという気になってきて、慌ててそう取り繕う。


「いや、嬉しいよ。それに八嶌人に化けられてる。……ちゃんとジョウシらしいよ」

「……あ、その言葉も分かんなかったんだ。ジョウシってなに?」

「ああ、ジョウシっていうのは」


 篝は面倒くさがらずに、わたしからノートを受けとって『浄紫』と書いてみせた。漢字を見てもさっぱり意味が分からない。


「簡単に言うと、貴族階級のことだ。この八嶌の民でもっとも身分が高い」

「……みぶん」

「身分という言葉もミチの国にはなかった?」


 わたしは小さく頭を振った。


「ううん。でも一応、わたしたちの国はみんな平等ってことになってたの」


 それが建前でしかないことは、十五年ぽっちしか生きていない女子高生のわたしにも分かってはいたけれど、少なくとも貴族は日本にはいなかった。

 でもこの八嶌には、まだ厳然とした身分制度があるらしい。浄紫が一番上の階級だというなら、下の階級もあるということだ。


「なら、篝の言ってたウトっていうのは……」


 篝がまたシャーペンを手に取る。

 文字をノートに書きつける音がやけにはっきりと聞こえた。

 ――汙徒。


「どういう意味?」

「穢れたともがら。大抵が流浪の民で、街への立ち入りを禁じられてる。例外的に街にいる奴もいるけど、そいつらは皆、誰かの所有物だ」


 つまり、奴隷的な存在ってこと?

 奴隷とかそういうのってもっと遠い世界のことだと思ってた。飛鳥時代とか、大航海時代とか。

 もっとも、ある意味今のわたしは過去の地球よりも遠いかもしれない世界にいるんだけど。


「篝は家なき子だけど、手錠プレイさせられて所有者がいるってことは、どっちタイプなの?」


 篝は「手錠プレイって……」と苦笑した。

「俺は混合型。手錠はただ所有者をこの間怒らせたから、その腹いせに嵌められただけ。普段は街から離れて暮らしているけど、トトウの日には、街に出る」

「トトウ?」

「汙徒が生きるための手段のひとつ。簡単に言うと、浄紫による賭博みたいなものだよ」


 なるほどわからん。

 あ、だけどもしかしてさっき言ってた手っ取り早く稼げる方法ってこれのこと?

 わたしが難しい顔をしていると、篝はノートに賭闘と書いてみせた。

 賭闘。なんか不穏な感じ。

 篝がシャーペンを置いたところで、ぴくりと震える。野生の獣みたいに濡れ縁の外を鋭く見つめて、それに呼応するように日向ぼっこしていたイカスミが戻ってくる。

 空気がひりつく。

 昨日初めて会ったときの、手負いの獣じみた気配。血のにおいが煙るような、刹那。

 わたしにはなにも聞こえなかったけど、たぶん戎さんが到着したことを聞きつけたのだろう。

 だけど篝は、わたしに向きなおると薄く射し込んだ朝陽に融けおちそうな声で続ける。


「今から俺が言うことをよく聞いて。かならず俺が守るから、俺を信じてついてきてくれる?」


 まるで物語に出てくる王子様みたいな台詞だ。実際問題、ちょっときゅんとした。

 なのにわたしは今、差し伸べられた手を取ることを躊躇っている。

 なにか喉に刺さった小骨のように、違和感があった。

 篝が信じられないわけじゃない。勿論篝に全幅の信頼を置いているってわけでもなくて、やっぱり怖い人だなとも思うけど、この人のことをわたしはもう人間的な意味で好きになりかけている。

 でもなにか、なにかがちがう気がするのだ。わたし、これで、、、本当に後悔しない?


「……ミチ?」


 少し頼りなげに揺れた声に、わたしは思わず篝の手を掴んでしまう。

 はずみで、わたしの肌の奥を確かに刺していたはずの妙な感傷は、瞬く間に泡になって消えた。

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