第肆話 儲け話

「カァ!」


 お腹の上にきた衝撃で、わたしは跳ね起きた。

 障子戸から射し込む朝日に目を細める。天井からは前に博物館を訪れたときに見たオイルランプにも似た形状の、吊り照明が提げられていた。

 目覚めたら自分の部屋かも、なんて淡い期待を胸に昨夜眠りに落ちたのだけど、現実ってそんなに甘くない。


「おはよ、イカスミ。いきなり朝からゲロっちゃうからお腹にダイブはやめてよね」


 わたしはイカスミの頭をわしゃわしゃ撫でる。うん、今日もいい毛並み。イカスミの羽毛ってば、わたしの髪の百倍艶があるんだけど、どういうヘアケアをしているんだろうか。ご教授願いたい。わたしが日本で毎日髪にトリートメントとかオイルとかミルクとか塗りたくっていたのが馬鹿みたいじゃん。

 篝とペテン師同盟を結んだわたしだったが、結局昨日はもう日も暮れるということで、青榕宮に泊まることになった。篝に聞いたら、しょうようぐうと読むらしい。

 今が何時かさっぱり分からないけど、もう篝も起きているだろうか。

 わたしは欠伸をしつつ、昨日の夜篝に教えてもらったたすき掛けにトライしてみる。着替えが部活で使ったジャージしかなかったので、神社にあった浴衣を寝間着として貸してもらったのだ。さすがに勝手に使うのは泥棒みたいだと固辞したのだけど、篝がなぜかまるで自分ちのものみたいに寄越してきた。

 篝ってば、鋼のメンタルの持ち主だ。まあでも正直助かったのでありがたく拝借している。

 わたしはへなちょこなたすき掛けで妥協しつつ、イカスミを肩に乗せてお借りした手巾を片手に台所に向かう。

 素足で土間に降りて、昨日のうちに汲んでおいた手桶の水を柄杓ですくう。流しの上で顔を洗うと、さっぱりした。顎の先を伝う滴まで拭き取ってから顔を上げて、目を見開く。


「うわ、びっくりした。おどかさないでよ」


 そこには篝が立っていた。

 寝起きなのか、短い髪が一か所だけ跳ねている。


「……うん、ごめんミチ」


 平坦なぼんやりとした声で篝が囁く。

 これはもしや、さては寝ぼけている? なんとなく動きものっそりとしていて目を擦っているし、朝が弱いのかもしれない。

 野生の獣めいた荒々しさも秘めた人だけど、こんな一面もあるのだと思うと、ちょっとかわいくも思えてくる。

 とはいえ、ちんたらしている暇はない。普段のわたしはいつまでも寝ていたい布団大好きっ子だけど、篝がこうならせめてわたしはしゃんとしなければ。


「篝起きて。ご飯、一緒につくる約束!」


 そう言ってわたしは篝の浴衣の袖をぐいぐい引っ張る。それから篝を手桶の前にしゃがませてやった。

 だけど篝がやっとのことで顔を洗おうとしたところで、彼の頭に黒い物体が直撃した。

 今までの亀さんモードが嘘のようににわかに篝が俊敏な動きで後ろに飛び退る。


「わわっ、イカスミなにやってんの。人の頭に頭突きドリルなんかしちゃ、メッだよ、メッ!」


 わたしは慌ててなぜか臨戦態勢に入ったイカスミを抱きすくめる。イカスミは不満そうに、カァアと一声鳴いた。

 篝はと見れば、さすがにわたしのペット的存在として落ち着きつつあるイカスミをぶちのめすつもりはないようで、ゆるゆると緊張を解く。


「ごめんね、篝」

「なんでミチが謝るの?」


 一応飼い主のようなものだから、とは言えずに口ごもる。そんなことを言おうものなら、イカスミの機嫌を損ねて頭突きドリルを喰らうことは目に見えていた。


「イカスミのおかげでかえって目が覚めたよ。昨日はすっかり忘れていたんだけど、えびすがくるんだ。飯を食ってる暇がない」

「エビスって? 人の名前?」

「うん、俺の今の所有者だ」


 わたしは首を傾げた。

 所有者ってどういう意味だろう。雇用主とかなら分かるけど。なんだか自分をモノみたいに表現していて、もやもやする。


「それでミチに頼みがあって」

「頼み?」

「昨日俺がつけてた手枷、あれをもう一度つけ直してほしい」

「…………ハ?」


 わたしはたっぷり五秒ほどフリーズした。


「え……篝ってばそういう趣味だった? ドMさん?」

「……どえむさん?」

「いや、いやべつに篝がどんな趣味でもわたしは引いたりしないよ。うん、分かった! 篝はその……ちょっといじめられるのが好きなタイプなんだね?」


 ポッと頬を赤く染めてそう伏目がちに言えば、篝は顔を引き攣らせた。


「ミチ……その、どえむさんがなにかは知らないけど、思い違いがある気がする」

「えっと、ドMさんっていうのはね、被虐趣味っていう――」

「誤解だ!」


 食い気味に篝が言った。

 ぽかんとしているわたしに、篝は咳払いをしてばつが悪そうに目を伏せる。


「大きな声を出してごめん。でも、俺はその……どえむさんとやらじゃないからな?」

「えぇ~」


 手枷をつけてだなんてハイレベルな要求をする人からそんな言い逃れを聞いたところで、疑いは晴れない。

 というか本当に縛られるのが好きなドMさんだったのなら、どうしよう。茶化しすぎてしまった気もする。

 わたしだって人に言えない趣味のひとつやふたつくらいあるのに。

 とくに、スクールバッグのなかに入っている、一冊のノート。あれの中身を誰かに見られてもし笑われたりしたら、ショックで寝込むこと請け合いだ。

 わたしってば、超イヤな奴じゃん。あとで一人反省会開催決定だ。


「ごめん。篝がどんな嗜好であれ、それは篝の自由だもんね。篝は篝の好きなようにして。わたしもちょっと篝のプライベートに立ち入りすぎちゃった。相棒失格だね」


 わたしが両手を顔の前で合わせてごめんなさいポーズをすると、篝は困りきったように頭に手をやった。


「気づかいはありがたいけど、俺の話を一言も聞いてないよな。……まあ、いいや。おいでミチ。ちょっと真面目な話がある」


 そう言って、篝はわたしを手招く。

 わたしが寝ていた元の部屋の方向だ。


「さっさとここを出ることも考えたんだが、路銀がないんだ」

「路銀ってお金ってことだよね?」

「うん。だから手っ取り早く稼げる方法がいいと思って」

「手っ取り早く、稼げる方法?」


 そんなものがあるのなら、そもそも篝はホームレス生活なんか送ってないんじゃないだろうか。ちょっと辛辣な言葉になってしまうので、それは口には出さなかったけど。


「うん。でもそれにはミチの協力がいるんだ。かなり危ないけど……確実に儲けられる。誓うよ」


 篝はわざわざ立ち止まって、わたしの目に視線を合わせてそう言った。

 あ、今さらだけど、篝って泣きぼくろがあるんだな。顔の傷に気を取られて、あんまりちゃんと見ていなかった。ほんの少しだけ襟元が乱れているのと相俟って、ちょっと色っぽい。

 なんて不埒なことを考えている場合じゃなかった。


「誓わなくても、協力するよ。だって、わたしたち、もう一蓮托生でしょ?」


 そう応じれば、篝の目尻がへにゃりと下がる。


「じゃあお互い、着替えがいるな。ミチ、少しだけ寝室に入ってもかまわない?」


 この人、こういうことにいちいち了解を取ってくれる人なんだな。

 わたしが子どもだからとか右も左も分からない異界人だからとかそんな理由で、わたしの気持ちを蔑ろにしたりしない。

 わたしも曲がりなりにも十五年間女子をやってきたので、よく知りもしない男の人と行動を共にすることにちょっと二の足を踏む心地もないではなかった。でも、篝の距離感や言葉はとても肌になじんで、めったやたらに警戒していなくても大丈夫という気にさせられる。

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