二齣 死なばもろとも

第壱話 異郷

 ある日突然、異世界に迷い込むお話が好きだ。

 『不思議の国のアリス』、『ナルニア国物語』、『十二国記』、『これは王国のかぎ』、それから『はてしない物語』。

 小さなころから本を読むのが大好きだったので、慣れ親しんできたファンタジーは枚挙にいとまがない。

 主人公たちは理不尽に日常を奪われ、それまでいた世界の甘ったれな自分を引きずりながらも、新たな世界で沢山の人との出逢いと別れを繰り返し、時に劇的な活躍をして少しずつ成長していく。

 わたしのぱっとしない日常とはちがう、なにかわくわくする、色鮮やかな世界。そんな世界に行けたら、わたしみたいなつまらない人間でも変われるかもしれない。なにかわたしだけのとくべつを見つけられるかもしれない。

 現実のわたしにがっかりするたびに、そんなことを思った。

 仄かな灯りのほかに頼みのない入り組んだ暗い路地、幼い頃から通ってきた神社の苔むした鳥居、噎せ返るような緑のにおいに満ちた、深い深い森の奥にある巨樹。

 そんなところで立ち止まっては、ここが異界に通じていたらと妄想した。

 だけどまさか。

 自分が本当に異世界に落っこちるだなんて、想像だにしなかった。



 * * *



「じゃあミチは、ニルヤから来た?」

「ニルヤ? どこそれ。日本だよ。極東の島国。ジャパン、リーベン、イポーニィ! あとはジパング? えっと、国旗は日の丸で、お米が大好きで、ほら、寿司と天ぷらが有名! あとは侍! 芸者! 忍者! アニメと漫画! 相撲!」


 篝とわたしの異文化交流は、平行線の一途を辿っていた。

 おぎゃあとこの世に生まれたときから日本人として暮らしているはずなのに、自分の生まれた国のことをまともに説明できない。そんな自分にちょっとがっかりする。

 篝は少し考え込んだ様子で、視線を地面に向けた。


「……米はある。スシは知らないが、天ぷらもある。だけど他は分からないな。俺が今話しているのは八嶌語。方言は各地にあるけど……」


 わたしはスクールバッグをひっくり返して、中からノートを取り出した。そこに大きく、横書きで『青嶋ミチ』と書いてみせた。


「これ読める?」

「……ああ、向きが逆だけど、ミチの名前だろ?」

「逆って、この国だと右から左に書くのが普通ってことだよね」


 わたしはそう言って、ごくたまに町で見かけるレトロな看板を倣って、今度は右から左に名前を書いてみる。

 篝はしっくり来たように頷いてみせた。


「つまり、これは自動翻訳機能がついているとかじゃなくて、日本語と八嶌語はほとんど同じ言語だってことなんだ」


 魔法とかほんやくコンニャクとかで翻訳されているのかな、なんてファンタジーなことを考えたけどちがったらしい。

 異世界トリップならぬタイムスリップだろうか。

 だけどそれにしてはおかしいところが多すぎる。クラシックカーは過去のものっぽいけど妙なテクノロジーを元にしているようだし、少なくとも日本史上ウカイなんて怪物が現れた記録はないはずだ。

 なんともちぐはぐな世界。日本のパラレルワールドとかだろうか。

 この神社の外の景色はまるで日本らしくなかったが、文化は日本に重なるところが多い。神社もあるし、篝を襲った連中は和装に身を包んでいた。

 わけが分からない。はっきりしているのは、ここが日本でもなければ、地球上の別の国でもないということだけ。

 わたしを形づくる輪郭がゆらゆらほどけて消えてしまいそうだ。わたしの存在って、こんなに頼りないものだった?


「ええと、わたしどうやってここに来た? 来れたんだから帰る道があるんじゃない?」


 冷静を装って、ブツブツと呟き続けるわたしを、篝がとどめた。


「ミチ、立って」


 そう言って、篝はわたしに手を差し出す。

 篝なら、わたしの手を無理やり取って立ち上がらせることくらい造作ないはずなのに、そうはしない。

 わたしですらわたしのことが信じられなくなりそうなのに、この人はわたしのことを狂人扱いなんかしない。こんなときでもわたしの意志を尊重してくれる。

 そう思うと、なんだか涙がこぼれ落ちそうだった。


「お茶を淹れよう。話はそれから。緑茶は知ってる?」


 少し不器用に、篝の口の端が持ち上がる。

 差し出されたのは、紛れもないやさしさだ。この国には、誰かにお茶を淹れてもてなし、労わる文化があるのだ。わたしの故郷とおんなじに。


「……しってる」


 濡れた睫毛を震わせて、わたしは篝の手を取った。

 厚い、肉刺だらけの掌がいとも簡単にわたしを持ち上げて引き寄せる。


 *


 篝は勝手知ったる様子で、社務所のなかへとわたしを誘う。これって不法侵入罪とかにならないのかな。この国にそんな罪があるのか知らないけど。

 まあ、廃神社ということだし、神様にも大目に見てもらえるものとしたい。

 篝がお茶を淹れてくれる間、執務机っぽいデスクに肘をついて、ぶらぶらと足を前後に揺らして待つ。

 手持ち無沙汰なのが伝わったのか、イカスミがわたしの太腿にぴょんと跳ねてよじ登る。それからイカスミは、わたしの人差し指のあたりを甘噛みした。

 もしかして、イカスミもわたしのことを慰めてくれているんだろうか。お前ってばいいやつじゃん。そんなことを思っていたら、案の定、調子に乗るなとばかりにきつく指のお肉をつままれた。

 噛み千切られるかと思って正直焦った。

 イカスミとのコミュニケーションは、前途多難だ。


「お前は日本の烏ってことでいいんだよね? 突然変異三本脚バージョンの」


 わたしの問いに、イカスミは「カァァ」と曖昧な返事をする。


「帰りかた、知らない? 知らないか。……お前もわたしと同じ、異土いど乞食かたいになっちゃったねえ」


 わたしは、行儀悪く椅子の上に体育座りをする。イカスミが太腿とお腹の間で、窮屈そうに身じろぎした。

 そっとイカスミの青ぐろく艶やかに濡れた背中に頬をくっつける。『またミチがぶつくさ文句垂れてんな』というそっけない態度をとられたので、わたしはぶすくれた。


「知らないの? 室生むろう犀星さいせいの『小景異情しょうけいいじょう』だよ」


 わたしのマウントに、イカスミは人間界の文学なんて知るか、とばかりにそっぽを向いた。

 まあたしかに、鳥類のイカスミにとってはどうでもいいことだろう。それよりも生ごみ回収の日のゴミ置き場とか、きらきらきらめく光り物とか、巣づくりのためのハンガーが干しっぱなしになっている物干し竿はどこかとか、全日本烏界にはもっと大事なことがあるはずだ。

 だけどそうはいってもわたしの感傷はおさまらない。わたしは勝手にたそがれることにした。


「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食になるとても 帰るところにあるまじや」

「なんだ? それ」


 頭の上から声が降ってきて、わたしは飛び上がりそうになるくらい驚いた。


「日本の――わたしの国のね、昔の詩だよ」

「へえ……俺に学はないけど、うつくしい歌だってことは分かるよ。それに、淋しい」


 そっか。篝も、この歌に淋しさを聴くのだ。

 そう思うと、ぽっかりと心に開いた穴に水が染みわたっていくような、そんな気がした。


 馴染みのある、ふくよかな香りが鼻腔をくすぐる。

 そっと机の上に湯呑みを置かれ、わたしは緊張しつつもそれを手に取った。

 柔らかな色をした青磁の器のなかで、黄味を帯びた、爽やかなリーフグリーンが揺れている。こわごわ口に含むと、わたしのよく知る、まろやかで素朴な懐かしい味がした。


「おんなじだ」


 思わず弾んだ声に、篝の目じりが下がる。

 これってたぶん、奇跡みたいなことなんだと思う。

 この緑茶ひとつとっても、そう。この緑色の液体を同じ名前で同じものとして認識できるなんて、たとえば古代エジプト風異世界じゃ叶わなかっただろう。

 ましてや室生犀星の詩を誰かと味わって感情のまじわりを見つけたりできるだなんて。

 過去に一度、海外旅行に行ったことがある。ロンドンの瀟洒な街の雑踏。洗練された石畳の街並み。押し寄せる異国語の洪水を浴びながら、お母さんとはぐれて半ベソをかいていたわたしに、カタコトの日本語でカフェのお姉さんが話しかけてくれた。

 会話の内容はたわいもないものだった。だけど、それだけであなたはここに存在していい。そう言ってもらえた気がした。

 もっとも、それがお姉さんの商売上手なところだと言われたらなにも言い返せないのだけど。でも、あれはわたしにとって特別な、モノクロの世界に色が灯ったみたいな出来事だった。

 篝が今わたしに差し出してくれているのも、そういう類のものなんだと思う。


 わたしが緑茶の最後の一滴を飲み干すまで根気強く待って、篝は向かいの椅子に腰を下ろすと、口火を切った。

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