第弐話 みろくの娘
「俺が言ったニルヤってのは、八嶌にそういう言い伝えがあるんだ。ここではないどこか。遠き海のかなたに、ニルヤの地あり」
「ニルヤって?」
「意味は俺も知らない。うしなわれた言葉だ。でもそこには、俺たちとは別の存在がいるらしい」
なるほど。つまり異界人的存在がいるかも、っていう御伽噺か。でも、わたしの話をすんなり信じてくれるには、ちょっと根拠に乏しい。
「ニルヤから実際に人は来るの?」
「いや。少なくとも俺の知るかぎりではなかった。ミチに会うまでは俺も、伝説や黴の生えた御伽噺の類だと思っていたんだ。公式に来訪の記録があるのはもう、百年以上も前の話か」
「百年も……」
日本で百年前というと、大正時代だ。大正時代には異世界からどんぶらこと人が流れてきたのじゃ云々などと突然言われても、なかなか信じる気にはならない。
でも、篝の目を見ればわかる。眸のふちに一抹の疑いを引っ掛けながらも、このひとはわたしをニルヤからの来訪者だと信じている。
篝には、そう確信する根拠があるのだ。
それはなに?
「言い伝えにはこうある。ニルヤより来たるは娘」
「むすめ」
心臓がどくん、と大きくひずむ。
「そう、みろく。みろくの娘」
「みろく」
わたしはオウムみたいに篝の言葉を繰り返した。
「みろくってのは言わば、世直しをしてくれる存在のことだ」
世直し。水戸黄門様的な? この紋所が目に入らぬか的な?
もしかしなくても、篝ってばわたしのことをそういう水戸黄門様的存在だとか思っているんだろうか。異世界ものでよくある救世主的な役回りを期待されちゃってる?
「待って、誤解! 誤解だからっ。わたし魔法も怪力も使えないし。凡人のなかの凡人だよ。わたしほどの凡人は探してもなかなか見当たらないくらいの凡人だからね!」
わたしはそう胸を張って主張する。
わたしの謎の凡人アピールに篝は少したじろいだ様子で手を上げた。
「みろくの娘はなにも、不可思議な霊力を持っているってわけじゃない。シンショを携えて顕現する。ただそれだけ」
新書。親書。信書。
思い当たる漢字を当てはめてみるが、どれもしっくりこない。篝がわたしのシャーペンを手に取って、机に広げていたノートにさらさらと言葉を書き綴った。
うわ。なんか一気にファンタジーな雰囲気を醸し出してきた。
「ミチは、なにか特別な書をもっていない?」
そう言って、篝はわたしの日本史のノートを捲ったりひっくり返したりしてみる。
それが、まるでなにか特別な価値のある書物であるかのように。
「いや、いやいや、これただのノートだから。日本の学生みんながもってるものだから。なんなら居眠りして、ミミズがのたくってるし!」
そう主張しても、篝はなかなか納得してくれない。わたしがそんなファンタジーな『みろくの娘』とかいう存在のはずないじゃん。そういうのは、もっと主人公っぽい風格を持った人の役割であるはずだ。
「だけど、みろくの娘だとすれば辻褄が合う。なにか忘れてないか?」
真摯な眸に覗き込まれ、わたしは思わず、「あ、」と口走ってしまった。
「あ?」
「いやでも……まさか。だって……中身、白紙、だったし」
しどろもどろになるわたしに篝の探るような視線が絡む。
「いや、ないない。ないってば」
そう手を振って主張しつつも、わたしは鞄から端っこだけはみ出したそれを凝視してしまう。
あの巻物。光ったり熱を放ったりしていた、いわくつきの呪物。あれがその神書だとすれば辻褄が合ってしまう。
わたしの意味ありげな視線から事の次第を察したのか、篝が立ち上がって呪いの巻物に手を伸ばした。
「わー! だめ!」
わたしはすんでのところで、巻物をふんだくった。
篝が目をぱちくりさせる。
「……盗ったりしないよ」
「そうじゃなくて。これ、危ないんだってば。なんか人を殺せそうな巻物なんだって! 火傷するかもしれないから触っちゃダメ! ステイ! ステイだからねっ」
ただでさえ篝は怪我人なのに、これ以上身体を傷つけては大変だ。
篝にはその場で待てをしてもらって、わたしは怖々薄目で巻物の紐に手を掛けた。
それから、今までよくよく見ていなかった
「うっそでしょ」
そこには流麗な文字で確かに『神書』と記してあった。
遅れてそれに気づいた篝が物言いたげにわたしを見る。
「いやいやいやいや、引っかからないよ。わたしは! そうやって書いてあれば、みーんな騙されると思ったら大間違いなんだからねっ」
わたしは巻物に向かって大声で喧嘩を売ると、そっと押さえ竹を引いた。するすると上質な触り心地の本紙が伸びていく。真っ白。さらに伸ばしても真っ白。真っ白。もうこれ以上紙を引けないというところまで引いても、結果はただの白。白紙だ。
「白紙だな」
いつの間にかわたしのステイを破っていた篝が後ろでしみじみと言った。イカスミも、仲間外れにされたくないのかわたしの肩に乗って巻物を一緒に眺めている。
「神書っていうくらいだから、きっとなにか重要なことが書かれているんだよね! それが白紙なわけないよ。ね、だからこれはなんでもないフェイクなんだよ、きっと」
わたしがうんうんと頷きながらほっとしていると、巻物を矯めつ眇めつしていた篝が少し残念そうに息を吐いた。
あれ。なんだか思った以上にしゅんとしている。もしかして無駄に期待させちゃった?
「ごめんね、紛らわしいの、持ってきちゃって……」
「いいや、ミチは悪くない。べつに偽物でもよかったんだ。ここに、今のオオキミ連中以外の名が書いてさえいれば」
「オオキミ?」
篝はふたたび窮屈そうに向かいの椅子におさまると、わたしのノートに、
王様ってことかな。なんだか古代史で習った言葉にそっくりのような気もしなくもない。
「ていうか、偽物でもいいってどういうこと」
「俺は連中を殺せればそれでいい」
刹那、野生の狼に射すくめられたかと思った。獰猛な、こがねの炎がちりと爆ぜる。
「……殺すって、」
冗談だよね?
わたしが半笑いで応じても、篝から立ちのぼる異様な気配は消えない。夏の日、アスファルトに揺らめく陽炎みたい。
今までたしかに見えていたはずの篝のまどかな優しい輪郭があやふやになってほどける。
本気? まさかね、って妙な沈黙を取り繕うように湯呑みを指先でもてあそぶ。なんだか聞くに聞けなくて、わたしは早々にそれを考えることを放棄した。
「そもそも神書ってなんなの? 名前が書いてあるみたいなこと言ってたけど……」
わたしの疑問に、篝は目を瞬いた。毒気を抜かれたように微笑う。
「……ああ、ミチの国の王はどう決まるんだ?」
「王? 日本はね、王様って言われる人はいないの」
「いない?」
少し驚いた様子で篝が言った。
「強いて言うなら、総理大臣ってことかな。いや天皇陛下? あ、いやでも、ちがうか……」
「ソーリ? テンノウ? その人たちが、王?」
「んーん。ごめん。わたしが間違えてた。日本はね、イメージとしては国民一人ひとりが王様なの。国民一人ひとりに主権がある。選挙って言って、みんなで政治をこの人に任せたいって思った人に投票するんだよ。そうするとその選ばれた人たちが議会を開いて、国をより良くするための議論をする。選ばれた人たちが問題を起こしたりすれば、わたしたちはその人たちにノーを突きつけることもできるんだって」
「へえ……ミチの国は進んでいるんだな」
「……どうだろ。分かんないや」
正直、政治についてなんてあんまり考えたことがない。しょっちゅう似たような不祥事とか失言が流れてきては、またかと思うくらいだ。なんとなくのイメージで、専制君主制とか独裁よりはマシなんだろうなとは思う。
わたしは取り繕うように「八嶌は大王さんが一番偉いってことなのかな」と早口に続けた。
「ちょっとちがう。八嶌に君臨しているのは天帝だ」
「んん? 天帝ってさっきも言ってたね。大王とはちがうのかな」
「ちがう。この国の最高神が、天帝」
「神様!?」
すごい。この国は神様が国を治めているのか。ってことは、わたしたちの世界と違って、失政とか不祥事なんてものとは無縁なのかも。
「だけどそれは名目上のことで、実際にまつりごとを行うのは、大王なんだ」
「っていうと?」
「天帝によって択ばれた人間。それが大王」
なるほど。そこで話がつながるわけだ。
神様に択ばれたってことは相当な権力を持っているはずだ。王権神授説とか、現人神とかってやつ。たしか歴史の授業でやった。
「ってことは、神様と喋れるの? 神様がたとえば篝に汝を大王に任命する~とかって言うの?」
わたしの大真面目な疑問に、篝は噴き出した。相当オモシロイことを言ってしまったらしい。
「天帝とは喋れない。というか、姿を見た奴はいないはずだ。まあそう主張している奴はいくらでもいるけど」
「じゃあ、どうやって天帝が択んだ大王が誰か分かるの?」
わたしの問いに、篝は目線を落とした。わたしの手のなかにある、巻物をじっと見つめている。
――まさか。
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