第陸話 ハロー、ニューワールド
そのうち篝は「悪いが着替えてくる」といって、倉を出て行った。たしかにあの血まみれの格好で外を歩いたらちょっとした騒動になってしまうし、衛生的にもよろしくないだろう。わたしも着替えたほうがいいと勧められたが、丁重にお断りした。女子高生が制服を着ていて咎められることもないだろう。
それから五分もしないうちに、篝は飛んで戻ってきた。わたしはイカスミを肩に乗っけて倉の外に出る。
篝は、銀鼠の亀甲絣の着物の裾をたくし上げた尻っぱしょり姿で、下にはサルエルパンツっぽいボトムスを履いたラフな出で立ちだった。頭には、日本史資料集で見たような、海軍飛行帽に似た革の頭巾を被っている。ほら、耳まで覆われているタイプの帽子に、ごついゴーグルがくっついたやつ。
うーん、いい男はなにを着てもいい男だなあ。
さっきまで暗がりのなかでしか篝の姿を見ていなかったから、余計にその野性的な顔立ちが際立って見える。
肌の色は、かなり濃い。
よくよく見てみると、服から覗いている腕や足にまで傷や痣ができているのが見えた。さっきは暗かったからよく分からなかったけど、この人もしかすると全身傷だらけなのかもしれない。
闘士だからっていうけど、スポーツ選手でこんなに満身創痍なひともなかなかお目に掛かれない。戦い方やトレーニング方法を一から見直した方がいいんじゃないだろうか。
「ミチは本当に着替えないでいいのか?」
「え、わたし、そんなに変? そこまで着崩してないし、いたって普通のJKなんだけど」
わたしは篝の異様にぼろぼろな身体を凝視してしまっていたけれど、篝も篝で躊躇いがちにではあったけど、わたしの姿をちらちら眺めていたようだった。
なにかそんなにおかしなところがあっただろうか。
シャツに青いリボンは学校指定のものだし、さっき止血に使った水色のカーディガンはまあ学校指定外のものだけど、そんなのは皆がやっていることだ。スカートは膝丈ちょっと上。靴下は紺色で、ちょっと短めにくしゅっとさせて下ろして、足長効果を狙ったりもしている。
昔の女子高生はルーズソックスとかハイソックスがトレンドだったみたいだけど、わたしたちの時代はこれがごくごく一般的なスタイル。
べつにわたしはこれが最高だと思ってやっているんじゃなくて、皆がこうしているからやっているだけだ。たぶん、他の人の多くもそうなんじゃないだろうか。
わたしたちにとっては、周りから浮かないこと、みんなと同じであることがとっても重要だった。
まあでもそんな制約のなかで、自分だけの“ちょっとかわいい”を見つけるのが楽しかったりもする。中学の国語便覧に載っていた“水縹”に似ている色をしたカーディガンは、わたしの密かなお気に入りだった。
でもべつに、お気に入りのカーディガンがお亡くなりになったとて、もやもやしたりはしない。篝の命に比べれば安いものだ。
篝はわたしのむきだしになった膝小僧を一瞥すると「最近のジョウシの娘の流行りか?」とよく分からないことを言って、首を傾げた。
十五分ほど境内を歩くと、やがて総門に辿りついた。
ここがこのお宮の入り口らしい。朱塗りなどされておらず、木材の色がそのまま生かされた趣きのある桧皮葺の楼門だった。長年風雪に晒されたのか、朽ちかけた烏っぽい像が、それでも門の両端で周囲を睥睨している。狛犬の烏バージョンかな。
「この間、車を拾ったんだ。こっち」
え、車ってそのへんにポイって落ちているようなものだっただろうか。というか、拾えたっけ。
わたしの困惑をよそに、篝はいそいそと山門沿いの茂みの方まで向かうと、「ほら」とその青い車体を指差した。
なんだか、わたしのカーディガンに似ている色だ。
うちにもたまの休みにしかまともに走らない車庫に引きこもりがちの車があるけれど、これはなんていうか、ちょっと古めかしい。錆が激しすぎるっていうのもあるんだけど、車体そのものが。
クラシックカーっていうんだっけ。縦に長くて平べったい、ヘッドライトが丸い形をした、レトロかわいい子だ。
しかも一度は乗ってみたいなって常々思っていたオープンカータイプ。
変わっているのは、車のマフラーが一個だけじゃなくて後ろに何個もくっついていることだ。
ついでにボンネットの部分に筒状の謎の武器みたいなのが並んでいる。いや、トランク部分にもマシンガンを模したオブジェがくっついてるぞ? おまけにボンネットの脇からは銛みたいな棒が飛び出している。
改造車というやつだろうか。こういうミリタリっぽいのが車好きの間でトレンドだったりするのかな。でも、あんまり改造しまくると、違法改造ってことで取り締まられるんじゃなかったっけ。
鍵はスマートキーじゃなくて、鍵穴に差して開けるタイプ。今時珍しいけれど、やはりこの車自体が年代物なのだろう。
「ミチは機関銃操作したことある?」
「は? キカンジュウ?」
鸚鵡返しをしたわたしに、篝はトランクにくっついている、マシンガンのオブジェを指先でつ、と撫でた。
冗談だろうか。あんまり冗談を言うタイプには見えないけれど。
ていうか、それただのオブジェだよね? ディスイズ飾り物だよね?
ちょっと前から薄々勘づいていたけれど、なんだか雲行きが怪しくなってきた。なにかが絶妙に噛み合っていない感じ。
「まあ、いいや。乗って」
そう言って、篝は砂埃で汚れた助手席を雑にはたいて、心なしか綺麗にしてくれた。
促されるまま、違和感を置き去りにしてわたしはいそいそと助手席に乗り込む。わーい、ドライブデートじゃん、と喜ぶ余裕はさすがにない。
「はい、これちゃんとマスクしてね」
そう言って、ごついガスマスクみたいな物体を手渡される。
ますます意味が分からない。
だけど、篝もゴーグルを下ろして口元を布で覆っていたので、わたしも妙な空気に流されてそれに倣う。
黄砂が飛んでいたり、工場の排ガスがやばいとかそういう感じなんだろうか。いやでも、ガスマスクをつけて車を走らせなくちゃいけない場所って日本にあったっけ?
ガスマスクのレンズ越しの世界は、彩度に少し欠けていた。
イカスミはといえば、ちゃっかりわたしの太腿に乗っかっている。
烏は通常立ったまま寝るというが、こいつときたら、野生の烏(暫定)のプライドはどこへやら、ぺたっとお腹をくっつけてお休みモードに突入したらしい。
篝がキーを何度か回すと、やがて、ぶおぉぉぉん、という大きなエンジンの始動音がした。それからぱちぱちとなにかが燃えるような音。
「え、なんかやばい音してない? 燃えてない? もしかしてガソリンに引火した?」
篝はきょとんとした顔をした。
「燃えなきゃ走れない」
待って、それってどういうこと?
そりゃあガソリンを燃焼させて車を走行させる仕組みは知っているけれど、めらめらパチパチ燃えている車なんて見たことがない気がする。どう考えても危ないじゃん。
「シラビ。まあ一般的には、カグツチエンジンって呼ばれてるけど、この国で一番重用されているエネルギー源だ。ミチはその……今までちょっと勉強をサボってきたのか?」
そう言って、篝は少し可哀想な生き物を眺める生温かい目つきでわたしを射抜く。どう考えても、頭の弱い子だと思われている。
――じゃなくて。
「いや! シラビもカグツチエンジンも聞いたことないから! 車の燃料といえばガソリンか軽油でしょ! それかお高いところでハイオク!」
半狂乱気味に金切り声で叫んだわたしに、またもや篝の疑問符の洪水が容赦なく押し寄せてくる。
オーケー、分かった。認める。わたしも今まで『なんかおかしくない?』って何度も思ったのに、絶賛スルーしてきたのは間違いだった。
だって『ウト』も『ジョウシ』も『トトウ』も『キュウセン』も全く聞き覚えがない。それなのに篝はごくごく一般的な固有名詞であるかのような口ぶりで喋っている。
なにかが違う。日本語は通じているけれど、なにかが今までわたしが暮らしていた場所とは決定的に違ってしまっている。
その違和感を、わたしはようやく飲み下した。
「篝、ここどこ?」
情けないけど、そう問う声は微かに震えた。
「どこって……帝都の外れのキュウセンだけど」
はい。出ました、帝都。戦前じゃないんだから、帝都とかやたらめったらかっこつけた名称を使うのはやめてほしい。わたしが帰りたいのは帝都じゃなくて神奈川県――せめて東京都なんですけど。都違いです。キュウセンとか知らんし。
篝はわたしがパニックになっていることになんか全然気づきもしないで、華麗なハンドルさばきで車を発進させる。クラシックカーは、なにやらいきなりターボエンジン搭載車みたいに、猛スピードで走行を始めた。
総門をくぐると、それまで瑞々しい緑に覆われていた景色がすぐに荒れ果てた曠野へと変わった。道路らしい道路はない。
ただすぐに、ぼたりぼたりと液体が滴り落ちる音がした。涼やかな水音じゃなくて、なんだか呪わしい厭な音だ。
見上げれば、鳶くらいの大きさの鳥影が蛇行しながら飛んでいた。
羽ばたくたびにへどろのような液体が落下して、曠野を墨色に染めていく。
陽光さえ黒い鳥影を照らしだすには足りず、辺り一帯影に取り巻かれている。
鳥の形をした汚泥は、見る間にわたしたちの真上まで来た。
「ねえ、あれ、わたしたちを狙ってない?」
「そりゃそうだ。なにしろ、ウカイの主食は俺たち人間だからな」
「は?」
篝と出逢ってから、「は?」とか「え?」とかを繰り返すbotみたいになっているけれど、わたしにだって同情の余地があるはずだ。
だって、少なくとも今までわたしは食べられる側になったことはない。そりゃあ、北海道の奥地で羆に遭遇したり、人食い鮫がうようよしている海に放り込まれたりしたら、おいしく頂かれてしまうこともないではないかもしれない。だけど、誰かに喰われるかもしれないなんて心配は生まれてこの方したことがなかった。
それが。
「ぎゃああああああああ! 死ぬぅうううううう」
わたしは半ば泣きわめきながらイカスミをぎゅって抱きしめて、グローブボックスの下に頭を押し込めた。
「死なねぇって!」
命の危機だからか少し乱暴に篝が声を張る。ダッシュボードのレバーが引かれる。
銛が吹っ飛んでいって、ウカイの一翼が墜落する。でも次から次へとウカイの群れが出現して、歓声ひとつ挙げられるような状況ではない。
すぐ先の丘で、しらじらと存在を主張しているのはおそらく白骨だった。
それも、おそらく元は人であったはずのされこうべ。
がらんどうになった眼窩が、静寂を抱いてわたしを見下ろしている。
わたしもああなる? こんな馬鹿みたいな言葉に塗れた思考回路も千々になって、物言わぬまっさらな命の成れの果てに。
「戻って!」
わたしの金切り声に、篝は不可解そうな顔をした。
「これくらいの群れなら抜けられる! 家に帰りたいんだろ?」
「帰れない!」
ほとんど篝の言葉を遮るように、わたしは叫んだ。
「キュウセンも帝都も知らない! 篝がなにを言っているのか全然分からない! わたし、こんな世界なんて知らない! ……知らないよ、」
最後はほとんど消え入りそうになったわたしの言葉に、篝はなにか尋常ならざるものを感じたのか、車を急旋回させる。
そうして、脇目もふらずに、神社の総門の内側へと突っ込んだ。
不思議なことに、ウカイの群れは総門のなかにまでは入ってこない。
わたしはほとんど崩れ落ちるように、車の外へとまろび出た。
息を吸う。吐く。ただそれだけのことが、ああわたし今生きているんだなって実感させる。
心臓はまだ早鐘のようにうるさかった。
でもその一方で、胸のあたりからぽっかりと虚ろな闇が口を広げていく。わたしを跡形もなく飲み込んでしまいそうな、空恐ろしい恐怖。
篝は、地面にへたり込んだわたしを見下ろして、なにかを言おうとして口を開きかけた。でもその薄い唇はすぐに結ばれる。よほどわたしがひどい顔をしていたのだろう。
「篝、教えて。ここは……日本では、ない?」
篝は、嘲笑も半笑いもしなかった。
静かにわたしの目の前に腰を下ろして、目線を合わせてくれる。
こがねの、晩秋の上天に架かる月じみたまなこ。嘘偽りのない、澄みきった眼差しで、篝は告げる。
「ここは、
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