第肆話 窮する狼

 幸い、入った瞬間刃物で刺されて即死、という展開にはならなかった。

 倉のなかは、がらんとしている。ただライトに照らされて、無数の血痕が奥の方まで続いていた。

 やがて、倉の柱に凭れている人の身体が見えた。先ほどまでは息遣いも聞こえていたが、今は微動だにしていない。

 わたしは悲鳴を噛み殺した。

 血液特有の、鉄錆のにおいが立ち込めている。

 おそらく身長百八十センチ以上はあるんじゃないかというその男は、全身傷と痣だらけだった。特に際立って目を覆いたくなるのは、肩口から胸にかけての辺り。さっきの刃物で切りつけられたのか、肉が深く裂けていた。そこからとめどなく溢れだしている赤い液体が、男の衣服をしとどに濡らしている。両手は手枷で戒められて、だらりと床に投げ出されていた。


「し、死体?」


 わたしのどこか間の抜けた言葉に、男の目が薄く開いた。


「ぎゃ!」


 思わず飛び退ってわたしは後頭部をなにか硬いものにぶつけた。

 うずくまって痛みをこらえる。

 烏はというと、ぶつかる直前にわたしの肩から飛び立って、今まさに優雅に床に着地していた。こいつ、腹立つなもう。

 ってそれどころじゃない。瀕死の人間がいるんだった。

 男はまるで手負いの獣みたいにわたしを睨みつけている。

 殺意というものに直面したことは、これまでの人生で一度もなかった。けれど、わたしの直感がビンビンに告げている。これはたぶん、そういう類のやつだ。正直、裸足で逃げだしたい気分。

 でもこの死にかけ男をここで放っておいたら、寝覚めが悪すぎる。


「ちょーっと待ってよね」


 わたしはわんこ相手にするみたいに両手でステイのポーズをつくってから、鞄のなかを漁った。

 さすがに部活で使ったタオルじゃ黴菌の元だろうし、なんとか綺麗めなハンカチを探り当てる。


「あの、手当しますから。ぜーんぜん、敵意とかないですからね」


 わたしの必死の猫撫で声にも、男は全然警戒を解いてくれない。逆毛を立てた猫みたいに、ふしゅーふしゅーって唸っている。

 それもそうだ。死にそうなのに、突然見たこともない女子高生がめちゃくちゃ強張った笑顔でにじり寄ってきているのだから。わたしが逆の立場だったらだいぶ怖い。

 とはいえ、こうしている間にもどばどばと血が溢れだしている。シミュレーションゲームみたいにイベントをこなして好感度を上げている暇はない。


「あの、あなたを傷つけるつもりないですから! てか、見るからにわたし、善良な女子高生でしょ! よく見てくださいってばっ。あ、そうだ、これ生徒証です。見て、生徒証! ほら、波花なみはな高校一年、青嶋ミチって書いてあるでしょ。今から犯罪行為をしようって人がこんな丁寧な自己紹介します?」


 わたしの半ば逆ギレ気味の自己紹介にも、雪原に佇む狼を思わせるこがね色のまなこは疑惑を深めただけだった。

 この男、いくら重傷を負っていて同情されてしかるべき立場とはいえ、分からず屋にも程があるのでは??

 もうどうにでもなれという気持ちで近寄ると、男の傷だらけの靴を履いていない足が動いて、わたしの脛にクリーンヒットした。

 わたしの身体は成すすべなく床に崩れ落ちる。

 え、もしかして今わたし蹴られた? めっちゃ痛いんだけど。なにこの踏んだり蹴ったり。わたしの善意という名のそれはそれは美しい花束が思いっきり踏みにじられて粉々なんですけど。

 わたしは思わず烏を見たが、あの薄情者ときたら、自分には危害の及ばない棚の上で高みの見物を決め込んでいる。あやつめ、もう烏鍋にして喰ってやろうかという気さえする。


「あの、治療、分かる? もしかしてあなたどこか別の国の人だったりする? すいませんわたし、中学英語しか喋れないから中学英語で行きますね。アイウィルテイクケアオブユアインジャリィ。ドゥーユーアンダースタン?」


 わたしの微妙すぎる発音の英語に、男はますます怪訝そうな顔つきになる。

 もうだめだ。この人、意志疎通をする気がない。どうしよう。

 とはいえ、ここまで来て諦めるのも癪に障るので、わたしは蹴っ飛ばされないよう床に座ってじりじりとお尻と踵の先で男に近づくことにした。もちろん、パンツは見えないように手でガードしながらである。乙女のパンツはそんなに安くないのだ。

 わたしの行動に、男は一瞬酢を飲んだような顔をした。

 うん、わたしも初対面の人間がこんなオモシロ行動に出たら絶句しちゃうよ。言っておくけど、わたしは普段からこんな常識のない行動を取りがちなわけじゃない――と思う。あくまでこれは戦略。戦略なのだ、たぶん。

 だけどわたしの捨て身の匍匐前進ならぬお尻前進が功を奏したのか、男は呆気に取られたまま動かない。

 今だ! とわたしは突撃した。要するに、男ににじり寄ることに成功したわけだ。

 わたしはそのままの勢いで男の傷口にハンカチを押し当てた。

 直接圧迫止血法。前に地域の救命講習で習ったやつだ。

 見る見るうちに血液を吸い取って、ハンカチが真っ赤に染まっていく。これだけではだめだ。わたしはUVカット機能つきの薄手のカーディガンを取り出して、ハンカチの上に重ねてぎゅっと押した。

 その頃にはこの朴念仁にもわたしの意図が伝わったのか、彼の手足の強張りは解けて、されるがままになった。

 やがて、カーディガンの色を塗り替えていた血が勢いを失くす。わたしは男の戒められた両手を取って、彼に自分で止血をしてもらった。


「救急車と警察……って、圏外なんじゃん。もう、どうしよ」


 わたしはぶつぶつ呟きながらスポーツタオルに鋏を入れて、包帯状に引き裂く。


「ねえ、すみませんけど、ここどこか知ってます?」


 そう尋ねど、相も変わらず返答はない。

 だけど、ここに来て男ははじめてわたしの目をまじまじと見つめた。こうして見ると、結構若い。二十三、四歳くらいだろうか。

 それになんていうか――いわゆるイケメンさんだ。身体がだいぶごついので、昨今の日本の若手イケメンアイドル&俳優事情とはちょっとトレンドがずれているかもしれないが、わたしはマッチョさんにきゅんとなる方なので、むしろありよりのありである。

 丸みのない、稀代の木彫り師がひと息に削り落としたような輪郭は荒っぽく、黄金色の狼っぽいまなこと相俟って、とても野性的なご尊顔だ。加えて、まるで海賊みたいな傷痕が縦に横に走っている。幸いこれは、どれも古傷だけど。

 ヤクザさんとかムショ帰りの人だったりして。海外マフィアとかもあり得る? 黒社会的な。

 とはいえ、彼からはもう殺気めいた恐ろしい空気は拭い去られている。

 わたしの勘、当たるか微妙だけど、たぶん怖い人じゃない。そう感じた。


「……キュウセン」


 うわ、いきなり喋った。

 曠野に吹き抜ける野分を思わせる、かさついた低い声音だった。

 それにしてもよかった。日本語が通じる人だったみたいだ。

 でも、キュウセンってどこだろう。聞いたことがない。


「それって神奈川? 都内?」

「カナ……? トナイ……? 都はすぐ隣だけど」

「……みやこ」


 なんとも古風な言い回しだ。

 とにかく関東圏にいるのは確かなようだった。


「どこ行ったら電波ありますか。それか公衆電話とかあります? 救急車呼ばなきゃ。それから、さっきあなたを刺したっぽい人たちをおまわりさんに捕まえてもらわないと」


 わたしの至極常識的な申し出に、男はいよいよなに言ってんだこいつ、というヤバイ奇人変人にでも遭遇してしまったみたいな目つきをした。


「あんたがなにを言ってるのかよく分からないが、俺はウトだ。助けなんか来ない。あんたは見たところ、ジョウシのお嬢さんだろう。早く家に帰ったほうがいい」

「ウト……? ジョウシ……?」


 ウトは全く意味不明だが、ジョウシも上司ではないだろう。

 なんだかさっきから話が噛み合っていない気がする。だがその違和感の正体が掴めず、わたしは曖昧に笑った。


「えっと、わたしだって帰れるものなら帰りたいけど、土地勘ないし、スマホ通じないんですもん。でもその前にあなたをどうにかしないと。ねえ、この手錠みたいなやつの鍵、ありますか?」

「……あったらこんな枷、つけてねえよ」


 ですよね。マゾ気質の人ならさておき。

 わたしは鞄の中を漁ってヘアピンを取り出した。

 イチかバチか、ヘアピンの折れているところをぐいっと伸ばして針金状にして、手枷の鍵穴に突っ込んでみる。あっちに押し込んだりこっちに押し込んだり引っ掛けたりぐるぐる回すこと数十秒。カチャ、と小気味いい開錠の音が響いた。

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