第参話 はざまに惑う
鳥居をくぐると細い小径が続いていた。辺りはしんと静まり返っていて、人気はない。
日は中天に昇っていて、白い砂と砂利の入り混じった小径に短い影が伸びていた。だいたいお昼くらいだろう。
スマホの時刻はなぜか表示されていないので、こうして原始的方法に頼るしかない。
通学路で気を失ったのが夕方だったから、かなり長い間夢の世界に旅立っていたことになる。
これは、いくらなんでもお父さんもお母さんも心配しているはずだ。
最近のわたしの家は色々あって、一人っ子なのにちょっとやそっとのことではわたしはろくに心配もしてもらえなかった。
わたしのことなんかそっちのけでお母さんは自分の話ばかりだし、お父さんはほとんど家にいないか、まともに話なんかしてくれなかった。
だから、家に帰ってもわたしの帰る場所はここじゃないようなそんな気がして、学校から帰るのが億劫だった。
でも今は、ちょっぴり家が恋しい。
気持ちのいい風が吹き抜けて、木漏れ日を投げかけていた梢がさやさやと揺れる。
地元では見たことのない樹だった。
枝の途中からおひげみたいな根が地面に垂れ下がっている。沖縄や奄美大島なんかに生えているガジュマルに似ているような気もした。
手水舎を横目にしながら小径を辿る。目にする建物すべてが朽ちかけていた。依然として人影は見当たらない。
廃神社ってやつだろうか。
そのとき、ガッシャーン、となにかが割れる音が風に乗って微かに聞こえた。
向こうの倉から聞こえてきた気がする。
わたしは念には念を入れてバドミントンラケットを力いっぱい握りしめつつ、抜き足差し足、倉の方に向かった。
男の人の話し声のようなものが聞こえる。なにを言っているのかまでは分からないけれど、声の感じは和やかなものとは言いがたい。怒声や罵声の類だ。
「ちょっと、お前、見てきてよ」
ひそひそ声でそう命じてみれば、烏からギャア、と嫌そうな声が上がる。『おれが見てきたってお前、そもそもおれの言葉分かんないじゃん』みたいなジト目で見られた。
「それもそうなんだけど、もし誘拐犯だったら怖いじゃん。相手も一人じゃないから全員ぶん殴るの無理だし。でも、誰かに事情聞かないと、ここがどこかも分かんないしさあ」
わたしのそんな嘆きにも烏はどこ吹く風だ。これはわたし一人だけの問題じゃなくて烏だって当事者なのに、他人事はどうかと思う。
いや、もちろん烏の思考は全部わたしの妄想なんだけど。
わたしはちょっといじけながら、スマホを見た。
相変わらず、電波はない。
この文明の利器が使えないことがこんなに不便だとは思わなかった。
デジタルネイティブ世代にこの仕打ちはないよ。なにをするにもスマホにまず尋ねるんだから。“巻物 光った 気絶”とか、“烏 三本足 突然変異”とか。
「はーあ、もうイチかバチか、特攻してみるべき?」
そんなことを思った矢先、肩の烏がぴくりと震えた。
つられて倉の入り口に目をやると、ちょうど誰かが出てくるところだった。わたしは声を上げかけて、すぐに踏みとどまって頭を引っ込めた。
男は三人いた。
一瞬しか見えなかったけど、だいたい三十代から四十代くらい。日本人――少なくともアジア系っぽい顔立ちをしていた。ちょっと意外だったのは、着物を着ていたことだ。単なる和装好き? それとも神社関係者だから?
でもわたしの顔を強張らせたのは、彼らのファッションのせいなんかじゃない。
彼ら三人の笑い声だ。
粘ついた、なにかとてつもない悪意に満ちた声。触れた場所から腐り落ちて、どろどろの瘴気にでも変わっていきそうな異様な響きをしている。
極めつけは、彼らのうちの一人が持っていた代物。
太陽の光を照り返して鈍い輝きを放っていたそれは、たぶん刃物だった。それほど大きくはない、小刀。
そこからぽたりぽたりと滴り落ちていた赤い液体は――たぶん、血だ。
これは誘拐の線も鼻で笑えなくなってきた。
あの人たちがわたしのことも攫ってきたのだろうか。絶対ヤバイ凶悪犯にちがいない。
お願い気づかないで、と半ば祈るように念じながら、わたしは烏を胸に抱きこんで、その頭を撫でてやった。
一人だったら震えてなにもできなかったかもしれない。けれど、一見自分よりか弱そうな存在がいると、人は案外強くなれるものらしい。
幸い男たちはわたしに気づくことなく、本殿のほうへと立ち去った。
あの男たちの誰も怪我など負っていなかった。
ということは、十中八九、この倉の中にあの血の持ち主がいる。
「……助けなきゃ、だよね」
わたしが怖々言った言葉に、烏はカァともギャアとも言わなかった。『ふぅん?』とでもいうかのようなすまし顔でわたしを見上げる。
正直、生まれてこの方人助けらしい人助けなんてしたことがない。あえて言うなら、電車で座席に座っているときにおばあちゃんやおじいちゃんがきたら、立ち上がって譲ってみるくらい。それも心の底からおじいちゃんおばあちゃんを気遣っているわけじゃない。なんとなく、若いわたしが立ち上がらないのは周りの目が気になるから。
わたしはそういう、ちっぽけで自分本位な人間だ。
目の前でひったくりを見たからって追いかけられるような勇気や、困っている人すべてに手を差し伸べられるような優しさの持ち主じゃない。
だけど、この倉の中でもしかしたら人が苦しんでいるかもしれないのに、それを知っていて見過ごすのは、ほどけた靴紐を引きずって歩くみたいで気持ちが悪い。きっと見過ごしたことを、わたしはこれから一生なにかの折に思いだすのだと思う。
そんなのは嫌だった。
だからこれはエゴだ。他人様のためじゃない。
そういう自分を自分と受け入れるのはちょっとしんどい。だけど、この一年ちょっとで、わたしはわたしが所詮この程度の人間なんだなって分かるようになってきていた。
今じゃどうして少し前まで、あんなにきらきらした未来を信じていられたのか、もう分からない。
深呼吸をして、ラケットをきつく握る。もしかしたら、まだ中に連中の仲間がいる可能性だってあった。
「ねえ烏。もしわたしじゃ手に負えなかったら助けてくれる?」
わたしのおねだりに、烏はちょっと目を逸らした。
「薄情者ッ」
わたしはそんな罵り言葉を吐きつつも、元々こいつにそこまで期待していないので、ひとりで頑張ることにした。
おそるおそる、開いた戸から倉の中を覗く。真っ暗で、内部の様子はよく見えなかった。どうやら窓がないようだ。やっぱりやめようかな、なんて考えが頭をもたげたとき、誰かが咳き込むような音が聞こえた。
荒い息遣い。それからなにか重たいものがずるりと床を這う音。
間違いない。やっぱり人がいる。
問題は、悪人も一緒にいるのか、だ。わたしはちょっと考えて、スマホのタイマーを一分後にセットして入り口近くに置いた。それからさっきまで隠れていた物陰に身を潜める。
果たして、一分後盛大なジリリリリリ、という耳障りな音が響きわたった。だけど、倉のなかから誰かが飛び出してくる様子はない。
「七割くらいの確立で、悪い人はもういないはずだよね! 知らんけど!」
わたしはそう言い聞かせて、スマホのライトを翳しながら倉の内部へと足を踏み入れた。
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