第弐話 青と白のあわいにて
ざざーん、ざざーん。
遠くから、子守唄じみたやさしい音が聴こえる。
どこを見渡しても、あるのはほの明るい暗やみだけ。ぼんやりとして、自分の輪郭さえあやふやだ。
これは、たぶん夢。
さっきまで、透きとおるように青い海をあてどもなく揺蕩っていたから、そうだと思う。冷たくもぬるくもない、ただ空恐ろしいくらいに綺麗なあおをした、現実味のないうつろな空間。
それが今はなんでか、温泉にでも入ったみたいに、身体が芯からぽかぽかと温かい。
我ながらヘンな夢だ。
いつも夢をほとんど覚えていないタイプだから、きっとこれもすぐに忘れる。
今はただぬくぬく猫のようにぬくまって、惰眠をむさぼっていたい。
だけどそんなわたしの怠惰な願いは、すぐに断たれた。
「――いッッた!?」
わたしは叫び声とともにがばりと身を起こした。
勢いよく開いた目に、眩いばかりの日射しが突き刺さる。
反射的に右手で顔を覆って、それからこわごわ指の隙間から向こうを覗き見た。
「……ハァ?」
わたしは言うなり言葉を失った。
だってありえない。
目の前に広がっているのは、教科書や児童文学が乱雑に積まれたわたしの部屋の学習机じゃない。
ひたすらに青い海と白い砂浜だった。
それも、地元の相模湾のような海とはちがう。なんていうか、沖縄っぽさがある透明度の高い海だ。
でも飛行機に乗った覚えもお船に揺られた覚えもない。わたしが知らなかっただけで、実は近くにこんな穴場スポットがあったんだろうか。
ええと、よし、状況を整理しよう。
わたしはどうしていたんだっけ。どうしてこんなプライベートビーチみたいにひと気のない砂浜で、お昼寝なんかする羽目になったんだっけ。
まだぼんやりとした意識を無理やりフル稼働させて辺りを見渡すと、傍に荷物が散乱していた。
スクールバッグと、スマホ。ラケットケース。これは全部、わたしの私物だ。
それから極めつけに――ヘンな巻物。
「あっ!」
わたしはようやく、諸悪の根源である巻物の存在を思いだした。
光の速さでえいやとラケットケースでそれをつついて、向こうの方に転がす。
悪霊退散、と唱えることも忘れずに。
「ええと、たしかコレが光って、圧死させられそうになって……それで波の音がして……巻物に引っ張り込まれた?」
我ながらイカれてしまったとしか思えない発言だ。実際問題、ここにこの巻物がなかったら、たぶん夢かなにかでも見たのだと片づけていたところだろう。
慌ててスマホを掴んで見てみるが、電波がない。どうやら圏外のようだった。
「え、もしかしてここ、あの世? アフターライフはじまっちゃった?」
わたしの渾身のボケにツッコミを入れてくれる人は誰もいない。
まさかほんとに死んでたりして。でも本当に死んでいたら、こんな私物とか持ってこれないよね、たぶん。ていうか、そもそも死者に意識ってあるんだろうか。なんて、わたしってば、齢十五歳にして死生観について本気で悩んでしまったぞ。まあ一瞬にも満たない間のことだったけど。
いったん、現実的な考えに戻ろう。
わたしが生きて、この見知らぬ場所でお昼寝していたと仮定する。
考えられうるのは、犯罪に巻き込まれた線。誰かが通学路からわたしをこの場所まで運んできた。でも身代金目的や暴行、殺害目的の誘拐にしたって縛られたりしていないし、そもそも誘拐犯もいないし、わたしんちはお金持ちでもないからその可能性は低そうだ。
そんな考え事に勤しんでいたら、突然手の甲に衝撃がきた。
「いたッ」
なにか鋭いものでつつかれている。
リゾートっぽい光景にびっくりして忘れていたけど、そういえばさっき目を覚ましたのもこの痛みのせいだった。
怖々目をやれば、黒い物体と目が合った。
「えっ、烏――ってお前!」
よくよく見てみれば、その烏には脚が三本あった。おそらくこいつも諸悪の根源のひとつ、あの光に巻き込まれる前に見た烏……のような気がする。
断言できないのは、烏の見分けなんてつかないからだ。でも三本足の烏ってきっと珍しいはずだから、十中八九当たっていると思う。
「この羽根、お前の? ……って、烏に話通じるわけないじゃんね」
わたしは烏の目前に差し出した羽根を引っ込める。烏は、ひとつカァ、という鳴き声を漏らした。なんだか返事のようにも聞こえる。
「え、どっち? どっちのカァ? イエス? それともノー?」
烏はもうひとつカァ、と鳴いてから焦れたようにわたしのローファーをどついた。
なんだよ、凶暴な烏だな。
「もう、お前のせいなんだからね。わたしがこんなわけわかんないことになってるのは。あ、でももしかして、わたしがお前を巻き込んじゃったってこともある?」
急に罪悪感が芽生えてそう問えば、つぶらな瞳が不思議そうに瞬き、首がちょっと傾いた。そんな仕草を見ていると案外かわいくなくもない。
だけど烏はそんな複雑な乙女心を弄ぶかのように、わたしの指先を齧った。
「ぎゃあ! やだ、いった!! そこ爪割れてる!! 割れてるからっっ」
わたしの必死の叫びに烏は早々に指を離してくれたが、飛び上がって羽ばたきながらわたしの背中をつついた。なにこれ。いじめ??
「あ、やっぱわたしのせいでお前も巻き込まれちゃって文句言ってるの? ごめんてば。怒んないでよ。わけわかんない者同士、仲良くやろうよ」
わたしの説得に、ついには烏は呆れたように「カァ……」というか細い溜め息のような声を漏らした。
それから、わたしのスマホケースのストラップ部分を器用に嘴で掴むと、三本脚で頑張って踏ん張って、スマホを引きずる。意外と力持ちの烏だ。
「なに、もしかして早く荷物まとめて状況確認しろって言ってるの?」
烏はカァとひと鳴きした。
わたしもさすがに圏外の知らない場所でぼーっとしていられるほど肝は太くない。きょろきょろ辺りを見回すと、浜の背中側に石造りの鳥居が見えた。
鳥居の真ん中には、青榕宮と書いてある。たしか
でも神社なら、宮司さんがいるかもしれない。
一歩踏み出そうとしてから、わたしは烏に目をやった。ちょこん、と地面から上目遣いにこちらを見上げてくる。
この烏、かわいくないところもあるが、置いていくには忍びない。
「……お前もくる?」
わたしの問いに、カァという声が返る。うん、ちょっと分かってきた。これはたぶん、イエスの合図。
わたしはしゃがんで、烏の方に手を差し出した。烏は素直に、わたしの腕を伝って、肩の方までぴょんぴょん跳ねて歩いてきた。爪が食い込んでちょっと痛いけど、服の上からなら我慢できる程度だ。
「お前、頭がいいね。日本語分かるの?」
烏はわたしのセミロングの髪に分け入って、首筋に頭を擦りつけた。なんだこれ。もしかして、褒められて喜んでる? やっぱりかわいいとこあるじゃん。
なんてまた思ったのがあとの祭りで、わたしが鳥居の方へと歩を進めると、華麗に顎に頭突きを喰らわされた。油断していたので、めちゃくちゃ痛い。
「なに!? お前、なにがしたいの? 状況確認しに行こうって言いだしたの、お前じゃん」
べつに烏はそんなことは言っていなくて、あくまでわたしの解釈に過ぎないんだけど、わたしはそう言い張った。
烏はギャア、とちょっと嫌な声で鳴いて、わたしの肩から飛び立つと、元居た場所に舞い戻った。それから、忘却の彼方に消し去ろうとしていた巻物を嘴でつついた。
「え、それも持っていけっていうの? 嫌だよ。そんな呪いの巻物。今度は無事じゃ済まないかもしれないじゃん」
わたしの声に、烏はふたたびギャア、と言い返した。まあたしかに、言われてみれば、あのすべての元凶を手放すのはなんだか、唯一の拠り所を失うようで危険な気もする。ほらよく、物語にはキーアイテムってものがあるじゃない? あれはそういう類のもののような気がしなくもない。
「でもやだもん。わたし焼け死にたくないし。怖いもん、それ」
わたしがイヤイヤ期の子どもみたいに首を振っていると、烏はまた溜め息のような鳴き声を漏らした。巻物を三本の脚でがっちり掴んで、ふらふら右に左に進路を蛇行させながらも運んでくる。
烏ってば、やっぱり呪いの運び人だった? 死神じゃん、とか慄きつつも、わたしはそっと鞄のファスナーを開けた。
「分かったよ。持ってけばいーんでしょ。持ってけば。だけどまた光りだしたりしたら、この巻物燃やすか海にぶん投げるからね」
わたしの妥協案に烏は、ふんす、となんだか偉そうな吐息を吐き出すと、ふたたび肩に飛び乗った。
今度こそ出発だ。
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