M.-15; 傷痕
† †
「すみません助けてください」
「っ、は?」
運よく通りがかった男の子に声をかける。
ジョガーなのかマラソンマンなのか、スポーツウェアに身を包んだその身体は細く、背はあたしよりも結構高い。
返ってきた声が思ったよりも高くて、自分が失礼な顔をしていないだろうかと心配になった。
「えっ、何で?」
「えっと、」
あたしですらよく分かっていない事情を早口気味に説明すると、男の子は「わかった」とだけ返す。
そしてあたしから女の子を取り上げて自ら背負い、病院までの帰り道を先導してくれる。
足元さえも見通せない夜の山道は、いくらウォーキングコースとして整備されていたとしても歩きたくなるような道じゃない。
今は危なげなく女の子を背負いながら前を歩く男の子がいるから安心だけど、もしも彼がいなかったらと考えると、背筋に冷たい汗が落ちてぞわりとした。
「……あのさ、」
十五分ほど歩いたところで、男の子は振り返らずに言葉を投げた。俯いて足元をしっかりと見ていたあたしは、顎を持ち上げて前を見る。
「え、何?」
「あ、……
何だろうと気になったけれど、あたしは追及しなかった。
そりゃまぁ、こんな時間に、こんな格好した二人があんな場所にいたことは不思議だと思う。あたしですら、この子がどうして・何から逃げていたのか不思議だし、訊きたい。
だから彼が質問を取り下げてくれたのは、言い方は悪いかもしれないけれど都合がよかった。
「ん……ん?」
そうして山道の麓、病院の駐車場辺りに辿り着いた頃、あの子が起きた。
男の子の背中から下りて、あたしたちは頭を下げて彼に謝意を伝えた。
被っていた帽子のつばをさらに目深に下げた彼は、またトレーニングに戻るらしく、元来た道を引き返して駆け上って行った。
それを見送って帰ろうかと振り向くと、女の子は不思議そうな眼であたしをじぃっと見詰めていた。
病院から届く薄明かりの下、白い少女はふんわりと微笑んで「行こ?」と呟く。
その少女の表情は、あの空の下で見せたそれと、まるっきり違って見えた。
あの空の下での表情を、純真無垢な天使と例えるなら。
今のこの子の表情は、何か悪いことに誘うような小悪魔だ。
そんな違いに戸惑うあたしを置いて、少女は駐車場を病院の正面入り口へと向かって駆け出す。
あたしの顔はきっと怪訝だっただろう。もう走るどころか歩きたくすら無かった。
それでもその背中をどうにか追い掛けて、正面入り口を抜けてエントランスホールまで辿り着いた時、唐突にあたしの身体は熱とともに力を失って、意識は身体を手放して遠ざかっていく。
段々と喧騒が近付いてくる音が遠くなっていく中、あたしはそう言えば心臓が痛いなぁ、なんてことを思い出した。それどころじゃなくて忘れていたけれど。
意識を完全に手放したあたしは、そのまま視界を閉ざす暗闇に身を
重い
† †
翌朝、物凄い空腹に目を覚ましたあたしは、自分が眠っているのが病室のベッドだと気付く。
薄いカーテンから透過した朝の光が照らす殺風景な病室は、あたしの記憶にある昨日の病室と何ら変わりないように思える。
そう言えばと、あたしは昨日のことを思い返す。
白い少女を追いかけて、追いついて、倒れられて、男の子が来て、お願いして、案内してもらって、――。
そこまで思い出して、あたしは自分が無理をして倒れてしまったんだと項垂れた。
うわぁ――きっと、沢山の人に迷惑や心配をかけたんじゃないか。怒られるだろうことはあたしがしでかしてしまったことなので別に怖いとかは無いけれど、どちらかと言うと合わせる顔が無い、って心持ちだ。
しかし、あれだけ汗を掻いた割には肌に張り付く気持ち悪さが無いな、そんなことよりお腹空いたな、なんて思いながら壁に掛けられた丸い時計を見ると、まだ朝の6時だった。
当たり前に病室には誰もいないので、あたしは廊下に出て看護師を探した。
別の病室から出てきた看護師さんに声をかけると驚かれ、そして自分の病室で待っていなさいと言われる。
頷き、素直に病室のベッドでぼんやりと待っていると、違う看護師さんがやってきた。
幸いなことに、手術した心臓に異常は見られなかったそうだ。あたしの心臓の手術を担当したお医者さんは昨日の
身体や入院着が汗や転んだ時の土なんかで汚れていたから、昨晩あたしが寝ている時にこの看護師さんが身体を拭いてくれたらしかった。
ただ、気持ち悪い箇所はひとつだけ残っていた。左腕だ。
左腕の肘から先、手首までの前腕が、汗に蒸れて痒いような、そんな気持ち悪さが残っている。
入院着の長袖を捲ると、そこには包帯が巻かれていた。
「これ、何ですか?」
あたしが訊ねても、その看護師さんは口ごもるだけで答えてはくれなかった。
そして、今日の朝にあたしを担当するお医者さんが来るから、それまで絶対に自分で包帯を解かないように念を押される。
何となく釈然としないまま、看護師さんは病室を出て行ってしまった。
その背中を見送った後で、改めて袖を捲って左腕の包帯に視線を落とす。
包帯の上から指でなぞってみると、左腕の腹の部分――あたしはこう呼んでいるけど、ほら、腕を前に伸ばして掌を上に向けた時に、掌と一緒に上を向く側――に、いくつかほんのりと隆起している部分があることに気付いた。
それは決して包帯の重なりではなく、腕を横断するようにいくつも存在している。
そして手首には何やらガーゼか湿布か分からないけれどそのようなものが貼られていることにも気付く。
上からそっと指で押すと、小さく鋭い痛みを感じた。
「おお」
そしてあたしは、納得を得る。
これは、
腕の腹――正式名称があれば教えて欲しい――に存在するいくつかの隆起した線はたぶん
右腕に無くて左腕にしか無いのは、きっとあたしが右利きだからだ。
それはそれで納得だとしても、でもあたしが何故それをしたのか、していたのかについては一切思い出せない。
それがひどく気持ち悪くて、だから朝ご飯を待つ間、そして朝ご飯を食べている間、あたしは出来るだけ過去のことを思い出そうとした。
もぐもぐと味気ないご飯を咀嚼する中で、徐々にフラッシュバックのように断片ばかりが記憶の片隅で浮かび上がってきて、そして
あたしはどうやら、自殺に失敗したらしかった。
朝ご飯の後で解答を聞いたけれど、あたしはインターネットで入手した睡眠導入剤を過剰に飲み、そして手首を切ったのだそうだ。
自宅のお風呂場ではバスタブに水が張っていたことから、そこに切った手首をつけて、血が止まらないようにしようとしたんだろうと。
でもあたしは失敗した。
あたしが救急搬送されたのは、119番通報があったからだ。
入念に準備し、薬を飲んで、手首を切り、切った左手を張った水に
徐々に
瞼が重くなっていくに連れ、段々と息をすることさえ億劫になっていく。
そうして、あたしは――
思い出して、昨日のあの医師がやたらと「助かってくれてよかった」や「生きていてくれてよかった」なんて繰り返していたのか、
119番通報をしたのは、あたし自身だった。
自分を殺そうとしたあたしは、死にたくなんかなかったんだ。
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