M.-16; 遭遇
† †
あたしがその病院に救急搬送されたのは3月の終わりのことだった。
119番通報で駆けつけた救急隊員があたしを連れて来たのだそうだ。
目を覚ますともうカレンダーは4月になっていて、あたしはことの経緯を全くと言っていいほど覚えていなかった。
「調子はどうですか?」
「どう、?……はい、大丈夫です」
「そうだよね、どうって言われても分からないよね。ひとまず声が聞けて良かった」
白衣を着た物腰の柔らかそうな壮年の医師は、病室のベッドに横たわるあたしにそう言うと、手に持ったボードに挟んだカルテか何かに胸ポケットから抜き取ったペンを走らせ、「うん」とひとつ頷くとあたしに再び微笑みかける。
「取り敢えず手術は成功しました。君が助かってくれてよかった」
カタン、とベッドの傍の椅子を引いて腰掛ける男性はにこやかな表情で自己紹介をした。
あたしの手術をしたというその医師の話を、未だ
それでもどうにか、あたしが心臓の手術を受けたことと、少しの間目を覚まさなかったことは耳に入れた。
そしてその医師が
5分ほど話すと医師は病室から去っていった。
あたし以外に人のいない病室で、徐々に鮮明になっていく脳裏はしかし、思い出してはくれなかった。
何故あたしは病院にいるのか。あたしの心臓に何があったのか。何故、この病室にはあたししかいないのか。
取り敢えず考えても分からないことはどうしようもないと思考を放り投げたあたしは、そう言えば病室から抜け出して散歩なり買い物に行くことは出来るだろうかと首を傾げた。
さっき医師からそのことについても話があった気がするけれど、やはりよく思い出せない。
人の話はちゃんと聞くべきだな、と思う。
まぁいい、怒られたら次からやらなければいいと、あたしは思議をそう取りまとめて上体を起こした。
ベッドから降りようと身体を捻ったところで強い目眩に襲われたけれど、たぶん長時間眠っていた体勢から上体を起こしたことによる一時的な貧血だろう。
貧血に慣れているあたしは、痛む心臓に奥歯を噛みながら、痛みと痺れが通り過ぎていくのを待った。
一分も経たないうちにそれはあっさりと過ぎ去ってくれて、あと三十秒も収まらなければナースコールだと考えていたあたしは安堵に胸を撫で下ろす。
無造作な空色の入院着が可愛くないのと、メイクしていない自分の顔に不機嫌なあたしは、廊下で見つけた案内板から
あたしの姿を見た看護師さんに「もう動けるの?」と
見舞いの来院客か、ほんわかとした顔のおばさんと一緒にエレベーターに乗り、病院はエレベーターも白いんだな、なんて考えながら胸元まで伸びた髪の毛先で枝毛を探す。
一階に到着するまでに三本もの枝毛を見つけてしまったあたしは、少し憂鬱な気分になりながら白いリノリウムの床を、まるで小学生の上履きのような簡素な靴――ベッドの傍に置いてあったものを借用した――をキュッキュと鳴らしながら歩いた。
一階の
病院の
そんなこんなで、そもそも何を買いたいのかも決めていなかったあたしは、そもそも存在していなかった目的を果たせずに――当たり前だ――、白い廊下を逆戻りしてエレベーターホールまで戻る。
その時だった。
「――
「え?」
がつんとした衝撃に、あたしの身体は少しだけ宙を舞った。たぶん2センチくらい浮き上がって、尻から床に叩きつけられて背中と後頭部を強打する。
「――なきゃ――逃げなきゃ!」
「はぁ?ちょ、待って!」
あたしと同じようにぶつかった際の衝撃で弾け飛んだ少女が、急いで立ち上がったかと思えば病院から駆け出していくその姿に、あたしは勢いよく立ち上がって後を追った。
その少女があたしと同じ入院着を着ていたことから、おそらくはこの病院に入院している女の子だろうと推察する。でもそれは、その時あたしが“何故かその少女を追いかけなければいけないという衝動に駆られた”理由じゃなくて。
その少女が、白かったから。
たぶん、白ウサギを追いかけるアリスのように、あたしは彼女を追いかけたのだ。
「待っ、て……」
マジかよ、と思うけど、マジだ。
病院を飛び出したかと思うと、駐車場に面する並木林から高台へと至る、そこそこ険しいウォーキングコースを颯爽と駆けていく白い少女。
体力に自信の無いわけではないあたしも、さすがに走り疲れてその背中を見失った。
それでも道は続いている。病院の裏手にこんな山があり、
日が傾き、夜の
ウォーキングコースは低い木の柵で囲われているけれど、そこから足を踏み外せば転落できるところも多々とある。
あの子はおそらく、少なくともあたしと同年代だ。
そんな少女がこんな暗い山道で迷ったりしたら。転落してしまったら。そう考えると、もう立ち止まって引き返す選択肢は無いように思えた。
我ながら善人だなと
そして二十分ほどかけて上りきっただろうか。
ウォーキングコースに面した、ちょっとした広場に彼女はいた。
柵に切れ目がないため、その広場はきっと立ち入って遊ぶための場所でも何でも無いのだろうけれど、でも彼女はその広場のちょうど真ん中にいた。
緑が足元に茂り、そして彼女を取り囲むように、まだ4月になったばかりだと言うのにテッポウユリが群れ成して咲いている。
視線を持ち上げると、山の木々がちょうど開けて、明かりの灯る街や夕暮れの――
「ぅゎ」
世界がもしも終わるなら、きっとこんな空色だ。
あたしは息を切らしていることすら忘れて、その傍観に口を噤めなかった。
あたしの声に振り返った少女は、逃げていたことも、あたしとぶつかったことも、それら全てを放り出したように笑って、叫ぶように言葉を放った。
「――すごいねぇ!」
そして糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだのだ。
驚いて駆け寄ろうとして、慌てすぎたあたしはコースを仕切る柵に足を取られて転んだ。
白い少女はただ眠っていた。でもいくら呼びかけようと、揺さぶろうと、起きる気配が無い。
たぶん、病院に着いたらしこたま怒られるだろう。でも、あたしは何故か嫌な気分ではなかった。
その空と、そしてその下で屈託なく笑った無垢な少女を。
あたしはきっと、忘れられないだろうから。
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