M.-14; 笑顔

    †  †



「はじめまして」


 一頻り泣いた朝ご飯の後で病室にやって来たのは、あたしの手術を担当したのとは別の医師だった。

 見た目が丸っきり20代後半くらいにしか見えない女性の医師。白衣の下に凶悪な武器をふたつぶら下げている。思わずガン見してしまった。


「君は思い出したそうだけど、一応説明しておくね」


 そうして解答を聞いたあたしは、今度ばかりは泣くことは無かった。

 というのも、朝ご飯の時に思い出して泣いたのは、別に死のうと思っていたことがショックだったからだとか、自殺に失敗して死に損なったことに絶望したからだとか、全くそういうことじゃなくて。

 自分でも不思議だけれど、本当に他人事感が強い記憶なのだ。

 だから、説明は難しいのだけれど、何というか――そういう映画を見て、感情移入して泣いてしまった、というのが一番近いと思う。


「本当は君の過去について、今このタイミングで話してしまうことは危ないんだけどね」


 女医さんはそう言って、また自殺したい衝動に駆られると困るから、と本来は過去についてを喋るのはもっと後なんだと付け加えた。


「でも君は、自分で緊急通報をした。死のうとした自分を捨てて、生きようとした。だから私は、君がもう二度と自殺なんかしないって信じてるから、話したよ」


 女医さんはこの病院で、メンタルケアだとかカウンセリングをしていて、そしてあたしのことも担当するのだそうだ。

 付きっ切りには出来ないけれど、何でも相談すること・相談じゃなくてもお話ししましょうと、まるで慈愛に満ちた女神みたいな笑みを見せてくれた。


 その笑みに「はぁ」と頷いて、あたしは途切れがちに「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 正直に言ってしまえば、今のところ生きたいとか死にたいって衝動があるわけじゃないのでその辺りはよくわからないし、記憶も全部を思い出したわけじゃないから、何とも言えなかった。


 あたしが思い出したのは、病院に運ばれる前に何があったか、だけだ。

 どうして自傷に至ったのか、あたしがどういう人間だったのかについては、まだ何も思い出せていない。

 頭の片隅で蜘蛛が巣を張っていて、大事な記憶を糸で隠してしまっているみたいだった。


 そしてそれが紐解かれた時、もしかしたらあたしはやっぱり絶望してしまって、死にたくなるかもしれないな、なんて、やっぱりどこか他人事のように思ってしまう。

 それでもあたしは知りたいと思ったし、思い出したいと思った。

 それが何故そう思ったのかは、いまいちよく分からないけれど。


解離性健忘かいりせいけんぼう、って知ってる?」


 あたしが思い出せないことを伝えると、女医さんはそう訊ねた。

 わかりやすい言葉で言うと、記憶喪失。その正式な症状名が解離性健忘らしい。掻い摘みすぎた説明だけれど。そうか、あたしは記憶喪失になってしまっているのか。


 女医さんが言うには、あたしがまた命を投げ捨てないよう、脳の防衛機制というのが働いて一時的に記憶に蓋をしているんだそうだ。

 ということはつまり、記憶が戻るとあたしはまた自殺しようなんて考えるかもしれない、ということだ。

 そしてそれが完全に払拭された時、自然と記憶も戻るかもしれないと、そういうケースはよくあることだと女医さんは言った。

 ちなみに、CTスキャンで脳に外傷や異常が認められない、という検査結果が出ていることも、女医さんは教えてくれた。


 そしてあたしは、手術についても訊くことにする。

 正直、手首を切って自殺、と、心臓の手術、が結びつかなかったからだ。

 あたしに施された心臓の手術というのは、心臓の弁のひとつに開いてしまった孔を塞ぐためのものだった。


「どうして孔が開いたんですか?」


 訊ねると、女医さんは「たまにあるんだけど」と前置きして話してくれた。

 リストカットなどで血液が少なくなると、その少ない血液を全身に循環させるために心臓がポンプの機能を強めるらしい。

 その上で、薬なんかを飲んだり、女性は特に生理なんかで血を失っていたりすると、さらに心臓が頑張りすぎて結果弁や筋膜などに孔が開いてしまうんだとか。

 言われて、そう言えばその時あたしは生理中だったような気もする。


「だから本当は、昨日みたいな心臓に負担をかける行為は絶対駄目なの。手術は成功したけど、それは完全に孔が塞がったわけじゃないから」


 あたしはこくこくと頷く。

 そうしてまた来るねと、女医さんは病室を出て行った。

 正直、ここに来ていない家族のことや、あたしはいつまで入院しなければならないのか、そしてあたしが入院している間の費用はどうなるのか、不思議なことは多々あるけれど、不安ではないことが一番不思議なことだ。


 そしてあたしは、お昼ご飯が来るまでの間の暇潰しに病室を抜け出て、院内の散策に出かける。

 たぶんあまり出歩かない方がいいのだろうけれど、あの病室には本当に何も無いのだ。時計の針を見て過ごそうにも壁の高い所にあって首が痛いし、そもそもそんな暇潰しはしたくない。


 廊下の案内板で図書室の存在を知ったあたしは、とりあえずそこに向かってみることにした。

 インターネットが使えれば儲けものだし、無くても本が借りられれば幸いだ。


 あたしのいる東館ではなく、図書室は北館の二階にあった。

 東館から北館へと移るためにはいちいち一階まで下りて、中庭に面した渡り廊下を突っ切らなければいけないのが面倒だったけれど、中庭は日が差し込んでいて和やかで、ここで読書にふけるのもいいなぁ、なんて思った。


 開かれたスライドドアを潜り、室内へと入る。

 図書室はまるで静謐せいひつな空気を漂わせていて、あたしのように入院着を来ている患者も利用していた。

 受付で訊くと、診察券があれば借りられるらしい。診察券どころか手持ちで身分を証明できるもの、強いて言えば財布やパスケースすら持っていないあたしは、取り合えずレンタルは今度にして、今日は図書室内で時間を潰すに留めることにする。


 インターネットが利用可能なパソコンは何台か置いてあったけれど、全部使われてしまっているので本棚に進む。

 児童書が多いのは、この棟に小児科もあるからだろう。

 それよりも多い、医学関係の本の中で気になったタイトルを見つけたため、あたしはその“解離性健忘”について書かれているであろう本を手に取った。

 お昼ご飯の時間まであと1時間も無いため、その一冊だけを手に、室内の奥の方のテーブルスペースまで足を運び、大きく高いガラス窓に映る中庭の様子を眺めながら、木目がきれいで滑らかな手触りの椅子を引いて腰掛けた。

 ずっ、と音がして、そこで初めて、図書室内の床が廊下や病室とは違うフローリングだと気付く。


 吹き抜けの中庭に天高く幹を伸ばすのは、あれはけやきだろうか。夏になれば蝉や甲虫カブトムシが見られたりするのかな、なんて考えていると。


「――こんにちは」


 不意に声を掛けられ、驚いて危うく声を出してしまうところだった。

 振り向いたあたしの顔は物凄い形相だったのだろう、声を掛けた彼女の顔まで吃驚びっくりしていた。


「こ、こんにちは」


 あの白い少女だ。あたしが挨拶を返すと、驚いた顔がくしゃりと笑む。

 本を持っていないというのにあたしの隣に座った彼女は、にへへ、と笑いながらあたしをじぃっと見詰めている。


「えっと……何?」

「えっ?」


 あたしが訊ねると、彼女はどうぞどうぞとジェスチャーで読書を促してくる。確かにあたしは本をテーブルに置いてその表紙を開いていたけれど、この状況で彼女を意識せずに読書にふける、なんてことは出来なかった。


「あのさ」


 本を閉じて彼女を向く。彼女はきょとんとした顔をして――表情のころころ変わる子だ。


「なぁに?」

「……何から逃げてたの?」


 何となく周りを見渡して、この会話が周囲に聞こえないように声のトーンを落とした。

 彼女もあたしに倣って、少しだけ身を寄せて囁くような声であたしに答える。


「忘れちゃった」

「は?」


 あたしの口に人差し指をつけて、彼女は自分でも「しぃーっ」をする。別に、あたしの声そこまで大きく無かったじゃん。


「だから、忘れちゃった。そんなことより、昨日はありがとうございました」

「ああ、……うん」


 拍子抜けして身体に力の入らないあたしは、無理矢理自分を頷かせて前を向いた。

 外見はあたしと同年代だけれど、この子の中身はたぶん子供だ。

 正直、訊きたいことはまだあった。

 何故入院しているのか。

 何故そんなに白いのか。

 でもそれを、気軽に訊いていい立場にあたしはいない。あたしが自殺未遂で運ばれて、今現在過去のことを思い出して死にたくならないよう注意が必要なように、この子にもこの子の事情があって、おいそれと触れて壊していいものではない。


 だから会話を打ち切るつもりで、前を向いて閉じた本の表紙に触れた。


「かいりせいけんぼう」


 その途端に、隣に座る白い彼女はあたしが読書用に用意した本の表紙に書かれてあるその難しい単語を口にした。


「……読めるんだ」


 ついうっかり、失礼にも思える感想を口にしてしまい、しまったと思う。

 でも彼女はけらけらと笑いながら、淡い唇を尖らせた。


「読めるよぉ。何歳いくつだと思ってるの?」

「え、何歳?」

「レディに年を訊ねるのは無粋だって先生言ってたよ」

「……何だよ」


 その遣り取りにあたしは、思わず前を向いて愚痴を零してしまった。先生って誰だよ。


「嘘。17歳」


 1個上かよ。

 彼女の答えにげんなりしたあたしは、やっぱり読書に耽ることなんか出来そうにないと諦めて、表紙を開くことをやめた。


「読まないの」

「読まない」

「何で?ごめん、邪魔しちゃった?」

「うん、すごく。だから、本はまた今度にする」


 唐突に泣きそうな表情を見せた彼女に、あたしは溜め息をついて身体を向けた。


「暇なの?」


 目を瞬かせて彼女は自分を指差して首を傾げた。あたしはこくりと頷いて、そうすると彼女はまた、にへっと笑った。


「暇だよ」

「そ。あたしお昼ご飯までには病室に戻るから、それまでだったら暇潰し相手になってもいいよ?」


 またも表情を輝かせ、そして彼女はうんうんと力強く首を縦に振った。

 その表情は、あの空の下で見た屈託の無い笑顔に似ていた。

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