1017. Chao


 見つめ合っているようで、お互い違うところを見ていたとしても不思議ではなかった。事実、ここにあるのは母娘の美しい再会などではない。



「分からないの……いつからアンタを、こんな風に思うようになったのか……もう思い出せないくらい……!!」

「…………ママ……っ?」

「アンタ、本当に可愛かったんだよ……ッ! あの人とソックリな、笑った顔が大好きだった……大好きだったの……!!」


 母親は震える声で必死に言葉を繋ぐ。

 そう、やはり過去形だ。



「パパが……パパがきらいになったから、あたしもきらいになったの?」

「そうよ……っ!! あの人の影が、少しでも見えるだけで……私は苦しいの。辛くて悲しくなるの……! だって、だって……ッ!」

「でもあたし……パパじゃないよ?」

「分かってる!! そんなの分かってるッ……!!」


 目の前に映るのはきっと、今の瑞希ではない。まだ愛が残っていた幼少期の瑞希の姿なのだろう。拙い彼女の言葉選びも拍車を掛けている。


 本当に、弱い人なんだ。


 初めからこうも歪だったわけではない。どちらが起因かはともかく、元夫とのすれ違いが弱い心をいとも簡単に打ち砕いた。


 あの頃の瑞希と同じだ。当時の美しい思い出を、思い出として消化し切れずにいる。だから今を、現実を受け入れられない。


 もはや取り戻せない、決して戻って来ない過去だと分かっていても。他に頼る術が無い。だから例の男に、紛い物に手を伸ばしてしまった。


 そうか。この人に必要なのは……。



「ねえ、お願い……っ!! なにもしなくて良い、しなくて良いから……あの頃のアンタに……マリアに戻って……!!」

「……ムチャ言うなし」

「他になにも望まないっ!! お金だってなんとかする! 迷惑も掛けない! アンタの生きたいように生きて良い、だからっ……!!」



 ぐちゃぐちゃに腫れた顔で、瑞希の細い身体を抱き締める。うわ言のように何度も何度も『マリア』『私のマリア』と呟く。


 正直、見ていられない。地獄だ。


 この期に及んで、母親は過去へ縋ろうとしている。今を生き未来へ進もうとしている瑞希と、新しい人生を歩む勇気が無い。気力も持てない。


 だからマリア。

 瑞希が言い出したソレとは似て非なるモノ。


 美しい思い出だけを切り取り、それだけを希望に生き長らえようとしている。そこに未来は無い。救いさえ無い。



「…………バカだな、ホントに」


 ところが。

 それさえも救ってしまうのが、聖母たる所以。

 


「こっちは成長してんだよ。小っちゃい頃のままじゃない……そんなにあの頃のあたしが好きなら、その時に殺して型でも取っときゃ良かったんだ」

「……どうして、どうしてマリア……ッ!!」

「お人形遊びがしたいなら、他を当たってな。悪いけどあたし、おっぱいもデカくなったし、てゆーかもう処女じゃないし。ガキじゃーねんだよ!」


 力づくで母を引き剝がし、肩の埃を落とす。追い縋るような瞳をシッシと払い除け、続けて俺の手を掴んだ。



「ちゃんと紹介するね。廣瀬陽翔。ハルって言うんだ。あたしのパートナー」

「……パー、トナー?」

「そっ。で、こっちは長瀬。やっぱりパートナー。長瀬って呼んでね」

「他に情報無くない……?」


 呆気に取られる愛莉を差し置いて、瑞希は鼻を啜りながらもニコニコと笑ってみせる。多少の無理は否めないが。



「ん-と……じゃー、こーしよっか。あたしさ、ハルの赤ちゃん産むから。あー、それはもうずっと決まってんだけどね? そしたらさ、面倒見てよ」

「はっ?」

「……え、瑞希!?」


 唐突な宣言に俺も愛莉も慌てふためく。

 悪戯に微笑み、瑞希は更に続けた。



「ママはあたしじゃなくて、あの頃のあたしが……マリアだった頃のあたしが、好きなんだよね。だからすれ違っちゃったんだ。はぁー、そーゆーことか……!」

「…………マリア?」

「でもあたし、成長しちゃったからさ。もっかいチャンスあげるよ。任せっぱなしじゃないけどな? アンタとは違うから。ちゃんとお母さんやるし。でもあたし、そーゆーの絶対苦手だろうし……ほら、一応経験あんでしょ?」


 恐ろしくスッキリした顔で。

 自らの言葉を噛み締めるよう頷く。


 凄いな。目に見えて分かる。

 瑞希はいま、納得したんだ。


 だから口が動く。態度に出せる。

 未来のことを、考えられる。



「……あたしもさ。期待し過ぎたんだ」


 そして、いつもと何一つ違わぬ調子で。

 こんなことを語り出した。



「ずっとそうだった。ママもあたしも、あの頃とは違うのに……ロクに覚えてもない頃のことばっか思い出して、それに戻ろうとして……」


「そんなの、上手く行くはずないよな……だって、もう戻れないし。ごめんね。あたしも悪かった。マリアは卒業しないとなんだよね」


「だからさ、ママ…………違うところから、もっかい始めようよ。今度は、あたしとハルに似た……パパがめっちゃ薄まったを、もっかい愛してあげてよ。うん、それがいーな!」


 両手を引いて俺と愛莉を傍へ連れ出す。すっかり言葉を失ってしまった母親へ、陽だまりのような笑みで問い掛けた。



「そしたらきっと、思い出さなくても……ママの心に空いた穴も、ちょっとだけ埋まると思うんだ。どうかな? あたしもがんばる。そこに入れるように。で、ママも入れてあげる! 超はじっこに!!」

「……瑞希」

「へへっ。つーわけでハルっ、さっさとベイビー作ろーな? 長瀬より先に! 残念だったな! 長瀬の幸せ家族計画は今この瞬間、トンザしたのだっ!」

「ち、ちょっとぉ……!」


 振り回される愛莉を見て気分を良くしたのか、ますますクシャクシャの笑顔が止まらない。気付いたらもう、本当にいつもの瑞希だ。余計なことばっか喋って、周りのペースなんか気にしない天邪鬼。


 なのに、いつの間にか惹かれている。どんな些細な話さえ聞き入ってしまう。夢中になってしまう。彼女と過ごす時間が、溜まらなく愛おしく感じる。

 


「……良いよ。嫌いなままで。今のあたしを受け入れられくても良い。そもそも性格合わんし。あたしも嫌いだし。だからっ……」


「…………だから、許してあげる。あたしのママって、認めてあげるから。だから一緒にがんばろ? adiósバイバイじゃないよ。Chaoまたね,Mariaって」


 母親は返事を寄越さない。

 いや、何も言えないようだった。


 やめてやれ瑞希。

 お前そんな、天使みたいな笑顔で。

 ますますマリア離れ出来なくなるだろうに。



「……無理よ……そんなの無理……ッ!」

「ムリじゃないっ! 出来るって!」

「私の悪いところ、知ってるでしょ……!? 三人だけで、アンタたちだけで十分幸せじゃない……ッ! 私が入ったら……!!」

「三人じゃねーよもっといる! どーせケイもランランも、チビ助もそーなるし! 覚悟しとけよぉ~!」


 どうしても首を縦に振らない。本当に弱い、ダメダメな母親だ。ここまで言われても素直になれないなんて。


 でも不思議だな。先日会ったときは『この人はもうどうしようもない』って思っていたのに、なんとかなるような気がしている。


 どれもこれも、瑞希のおかげだ。

 そんな瑞希を育てたのは、自分なんだって。

 もっと胸を張っても良いのに。



「……お母さん。マリアはまだ、ここにいますよ」

「…………えっ?」

「こんなに可愛くて、天使のような彼女が……マリアじゃないわけない。卒業なんてそれこそ無理です」

「……ふぇっ? ハル?」


 少し驚いたような目で、二人が俺を見つめる。

 笑えるくらいソックリな瞳だ。



「どれだけ成長したって、姿かたちが変わったって……瑞希のなかには、マリアがずっと居る。貴方と同じ目をした、マリアがいるんですよ」

「…………あぁ……ああ……っ!!」

「俺もそんな瑞希が大好きです。愛しています。だから……彼女がマリアで居続けるために、少しだけ力を貸してください。その分俺たちも、貴方に出来る限りのことをします。だって瑞希のお母さんなら、俺たちの家族ですからっ!」


 ゆっくりと視線を移した先に、どうやらお望みのマリアが居たらしい。留まることなく溢れ返る涙を、瑞希は真っ白な手で掬った。



「ごめんなさい……ごめんなさい……ッ!!」

「……へへっ。大人のくせに、泣いてやんの!」

「お前もな」



 それから暫く、病室は静けさを取り戻すばかりだった。開けっ放しの窓から爽やかな風が吹き込み、カーテンが音も無く揺れている。


 傷を癒すには事足りない。

 ただ、優しく頭を撫でているだけだ。


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