1016. 覚えてないの?


 疲れた身体で電車に揺られるのもシンドイだろうと、峯岸がまた車を出してくれた。片道一時間。俺も愛莉も、瑞希も寝てしまった。


 受付に面会の意を伝えると『あぁ、娘さん! 良かった……!』と何やら安心した様子の看護師さんに出迎えられる。

 恐らく慧ちゃんパパが相当無理を言って押し入ったせいだろう。迷惑掛けてごめんなさい。


 エレベーターは六階へ到着。まだ眠気眼の瑞希を揺すり、手を引いてすぐ近くの東病棟を目指す。



「クッタクタやないけお前」

「へへへっ……なんか、ぶわぁーって疲れちゃった。無理してたのかな?」

「かもな。大丈夫か? その調子で」

「うんっ、へーき……そっちの方が怒鳴んないで終わりそうだし」


 曖昧な頷きのなかにも、煮え切れない思いと情念は透ける。ただ、似た形で母親を訪ねた前回よりも、だいぶマシな顔をしているように見えた。


 インターホンを押すまでも無く、窓ガラスの奥から慧ちゃんパパがズシズシ歩いて来る。こっちもこっちで良い表情だ。何故か。


 一仕事やってやった、みたいな。よくそんなデカい態度で病棟を歩けるな。迷惑掛けた自覚あんのか。峯岸が謝ったんだぞ。



「おうお前ら、待ってたぜ! これで出禁にならなくて済みそうだなァッ! ガッハッハッハ!!」

「笑ってる場合ですか……で、部屋は?」

「こっちだ、着いて来な」


 道中では愛莉に絡んでいる。試合に勝ったことを告げると、それはもうオーバーリアクションで喜びを露わにし、その度に看護師さんから咎められる。すまん愛莉、今日はお前が相手してやってくれ。



「っと、ここだここ……どうすんだ? 姉ちゃん一人で入るのか?」


 軽やかな声色で慧ちゃんパパが問い質すと、瑞希は一瞬だけ俺に視線を寄越し、少し考えているようだった。特に緊張している様子は無いが。



「迷うくらいなら連れて行けよ。長瀬の姉ちゃんも! 一緒にいる方が安心するんだろォ? ったく廣瀬お前って奴はなァ!!」

「痛ってえなッ!?」


 背中をバシバシ叩かれ、そのまま扉の前へ促される。最悪だ。この人にも部内の関係なんとなく知られちゃってるわ。釈明してえ。



「……こういうときはな。大人と大人じゃあ進まねえんだ。親とガキで腰据えて、しっかり話し合うのが大事なんだよ……ッ! 」

「は、はぁ」

「じゃ、あとは適当にやってくれ。おぉ、アンタが峯岸センセーか! 慧から聞いたぜェ、中々ヘビーらしいな!」

「おや。気が合いますね。では外で一服……」


 喫煙者の二人はやり慣れたハンドサインを機に意気投合し、病棟から出て行ってしまった。本当に俺たち三人に任せるのか。まぁ良いけど。


 確かに病室には、瑞希だけで行って貰うつもりだった。親子の会話だ、俺たちはあくまで部外者……でも、今は。



「一緒に行きましょう。ねっ?」

「……長瀬」

「別に代わりに怒ったりとか、今更しないわよ。こないだの事件で色々懲りたしさ……邪魔はしないから。だから、隣に居させて」


 穏やかな瞳で愛莉は優しく微笑む。

 なんだ、先にやられてしまったな。



「俺も見届ける……瑞希が言ったんだぜ。目を離すな、捕まえていろって……約束は守る」


 ちょっと間抜けな、どこか心細そうな面をしていた彼女は、続けざまの言葉に少しずつ色味を取り戻し、じわじわと口角を緩めた。


 ありがとっ。


 そう小さく呟いて、扉へ手を掛ける。

 さあ、始めよう。そしてさっさと帰ろう。


 仲直りをしに来たんじゃない。

 そもそも直すような仲が無いのだから。


 ただ受け入れて、前を向くだけだ。






「……おらっ、来てやったぞ!」


 勢いよく扉を開けると開口一番、まるで俺たちにダル絡みするときみたいな明るい声色で、瑞希は早速切り出した。


 だが肝心の、母親の姿が見えない。って、当たり前だ。何人も入っている病室なのだから。ベッドは……あぁ、一番奥の右だな。



「なに引き籠ってんだよ! 可愛い一人娘が迎えに来て……はぇっ?」


 カーテンをガバッと開き、同じテンションのまま声を掛ける。ところが、瑞希は途端に言葉を失ってしまった。


 居るには居る。居るのだが、様子がおかしい。俺たちから可能な限り身体を遠ざけ、必死に目元をタオルで拭っているのだ。


 もしかして、泣いていたのだろうか。おいおい慧ちゃんパパ、俺たちが来る前に余計なことでも喋ったのか……?



「待って、お願い閉めて……!」

「おっ、おう……ごゆっくり?」


 若干申し訳なさそうにカーテンを閉じる瑞希。どうしたものか。まずはペースを握ってやろうという魂胆だったのに、出鼻を挫かれてしまった。



「……なに? どったのアイツ?」

「いや、自分で聞けって」

「体調悪いのかしら……?」


 愛莉の考察は外れたようだ。

 すぐにカーテンが開かれる。



「……もう良い。なんでもない」

「なんでもないってこと無いっしょ……なに? ご飯不味かった? 分かる分かる、病院のメシって不味いもんな」

「……入院したこと無いでしょ。アンタ」

「あっ、あるよっ! ガキの頃、木から落ちて骨折したじゃん! 覚えてないの?」


 快活に笑うが、声色は微かに震えていた。


 それでも、瑞希は立ち止まらない。

 ここで終わってしまうのが、今日までだった。


 忘れられてしまったことを、愛が残っていないことを突き付けられる。最も恐れていたことだ。

 だからと言って無理に引っ張り起こすと、殊更に彼女は苦しむ。望んでいるのが自分だけだと、やはり気付いてしまうから。


 だが今日からは。これからは違う。

 例え、期待通りのモノが返って来なくても。

 

 絶えず想い続けていれば良い。

 たったそれだけで、幾らかマシになる。

 

 

「…………四歳、くらい?」

「……っ! そうっ、そうだよっ!! ボールが木に挟まっちゃって、パパにおんぶで上げて貰って……! そのまま落ちちゃった! 芝生が柔らかかったおかげで、一週間くらいで退院出来たんだよ!」

「……そうね。新しいヒールを買ったのに、すっごく歩きにくい場所で……」

「美術館の近くにあって、おっきい池とか、モニュメントがあってさ! そう、トゥーリアガーデン! 覚えてる!?」

「あぁ……そんな名前だったのね」


 確証を得たのか、見る見るうちに強張りが消え自然な笑顔が戻って来る。身を乗り出し大きな声で問い掛ける姿は、まるで今日一日の出来事を母親へ報告する幼子のようで。


 とは言え、すれ違いは明らかだった。口には出さないが、俺も愛莉も微妙な顔をしている。


 思い出したのはあくまで『新しいヒールで出掛けた』という自分本位の記憶。きっと瑞希が骨折したのも、入院したことも、明確には覚えていない。


 たかが数日越しの再会だ。金澤家で見た恐ろしいまでに母親向きでないその性格と在り方は、そう簡単には変わらないだろう。



「なんだよっ……ちゃんと覚えてんじゃん……!」


 

 でも、それでも良いと思う。

 母のなかに、瑞希は確かに存在する。

 過去形だろうと、希薄になっていたとしても。


 関係無い。この人は、自分の母親。

 瑞希さえそう思えるのなら、十分な筈だ。



「ねえ、これからどーすんの……? 悪いけどあたし、アイツの子どもになる気全然無いし、てゆーか捕まったし……再婚とかムリでしょ?」

「……そう、ね」

「仕事は? スナック続けんの?」

「……もう、戻る場所が無い。あの人がいないと、誰も私の相手をしないから」

「じゃあニートじゃん。良い歳して。明日退院っしょ? 入院費どんくらいとか知らないけど、お金も無いんでしょ?」

「…………なに? だからッ!? アンタには……!」


 現実を突き付けられ、母親は次第に態度を悪化させる。他でもない瑞希からの追求だ、こうなるのは分かり切っていた。彼女も想定していただろう。


 それでも、瑞希は進んだんだ。

 強いな。本当に。なんて強いんだ。



「あるよっ! 関係あるっ!! だって娘だもんっ! ママが困ってたら、なんとかしたいって、思うに決まってんじゃん!!」

「…………ママ?」

「なに!? 知らんかった!? そーだよ、アンタがあたしを産んだんだ! 悪かったな名字しか似てなくて!! 鼻も口も肌の色も、ぜんぶパパの遺伝!! でもっ、あたしは金澤瑞希なんだよっ!! 日本の、アンタの血が入った、金澤瑞希!!」


 薄いリネンの入院着を引っ張り寄せ、瑞希は叫ぶ。背ける猶予さえ与えない。



「舐めんなよッ!! ガキだって出来ることいっぱいあんだからな! 金無いならバイト代入れるし、一人で居たいなら出てくし、他の男連れ込んだってなんも言わねーよ!! 勝手にしろっ!!」


「でもっ、だからってな! あたしの親やめるのだけは、絶対に許さねーぞ!! 飢え死にするか、金澤の名字捨てるまで、アンタはあたしの母親なんだよ!! 分かってんのかよッ!!」


「アンタがどう思ってようと……あたしは、あたしはっ……ずっと、子どもで、娘で……Mariaマリアなんだよ……っ!?」



 修学旅行のとき、何の気なしに話してくれた。実は洗礼を受けていて、クリスチャンネームを持っている。その名前がマリア。


 呼んでいたのは、他でもない母親だった。


 忌々しい記憶の筈だ。彼女を取り巻く世界は、聖母の慈悲深さとは間反対のところにあった。その名を口にするたび、瑞希は辛い思い出をなぞるのだろう。


 だからこそ、もう一度呼んで欲しいのだ。

 痛みを受け入れて、前へ進むと決めたから。


 痛みが消え、美しい思い出へと変わる日を。

 ずっと、ずっと信じていたからだ。



「……メーワクくらいかけろよ……っ! 嫌われてるの知ってんだろ!? これ以上嫌いになれねーんだよ! だったら、もう甘えるしかねーじゃん……!」

「…………アンタ……っ!?」

「ただ母親だって、それだけの理由で……優しくしてやるって、そう言ってんだよずっと、さっきからずーっと……! そろそろ分かれよぉぉ……っ!!」


 脱力し胸元から手を離す瑞希を、母親は信じられないモノを目の当たりにしたように見降ろしていた。グラつく眼には何が映るのか。


 猜疑心か? 後ろめたさか?

 それとも、娘の姿か?



 例えば、子が親を映す鏡であるならば。

 きっと俺たちと、同じ世界が見えている。


 それを正直に打ち明けるか、隠すかの差だ。

 少なくとも瑞希はやってのけた。


 なあ。どうすんだよ。

 母親らしい在り方なんて、誰も求めちゃいない。


 人として、瑞希と向き合ってくれよ――――。











「マリア……わたしの……私の、マリア……っ!!」


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