1015. 鏡


「助かったぁ~! 慧は写真撮るのが好きでな、俺にもよく送ってくれて……やぁ~、あんまり美人だもんでしっかり保存させて貰ったわ!」

「…………」

「ちゃ~んと持ってるじゃん娘さんの写真! いやねぇ、あれで納得しちゃう看護師もなぁ! セキュリテー大丈夫かよってなぁ!! ガッハッハッハ!」

「……………」

「ガッハハハ……………………水飲むか?」

「……結構です」


 あまりに怪しい風貌が故、病棟にちょっとした騒ぎを起こしてしまった慧の父親であったものの。

 程なく部外者でないことが証明され、病室には静けさが戻った。声量の大きさという意味ではさほど変わらないが。


 終始大声で捲し立てる彼に、彼女はすっかりペースを握られてしまった。

 これといって目的があるわけでもない『保護者会会長』とやらの来襲に、どう対応したものかサッパリ分かり兼ねていたからだ。



「いやぁ~気になる……俺もよく知らねえんだけどォ、今日の相手は今までと比べ物にならねェくらい強いって、昨日から慧が言っててなあ」

「……そう、ですか」

「まぁ、勝ったと思うけどな!? いやマジで強いんだわ、山嵜フットサル部! まず廣瀬の野郎が最強。長瀬の姉ちゃんも女なのにゴリゴリやってよォ。ありゃ逸材だわ。カマモトの再来だな!」

「…………」

「んで、もう一人……山嵜にはすっげえ奴がいる。女版マラドーナだ。天才っつうのはああいうのを言うんだよなァ……!」

「…………詳しいんですね」

「俺がァ? 馬鹿言え、数か月前までサッカーとフットサルの区別もついてなかった、バッチバチの素人様よ。そんな俺でも分かる才能ってワケ!」


 自身を自慢するみたいな口振りで散々勿体ぶる。誰のことを話しているか、いよいよ気付かないわけにもいかなかった。


 だが彼女は口を開かない。

 言える筈が無かった。



「最近ウチの店にもチームで来てくれるんだけどよ。あの子は特に愛嬌が良い。ちょっと見ただけで分かるんだわ……あぁ、中心はこの子だって」

「…………」

「てっきり俺ァ、廣瀬の野郎がハーレム作って誑かしてるモンだと思ってたんだが……ありゃ違うわ。アイツ、ただの付け合わせ。お新香」

「……そ、そうですか」

「おっ、やっと笑ったなァ!? そうだよアイツなんて尻敷かれてるだけだっつーの! いーっつもあの子に振り回されてら……カッハッハ」


 小型冷蔵庫からペットボトルを取り出し、可動式のテーブルへドンと置く。幾ばくか壁が薄れて来たと感じたのだろう。


 彼女も素直に手へ取った。パイプ椅子へドッシリと腰を落とし、保科父は落ち着いた口調で切り出す。



「良い娘さんだ。人間が出来てる」

「……そうでしょうか。私に似て頭も悪いし、口を開けば汚い言葉ばかり……」

「そうじゃね~んだ。確かにオツムは弱いかもしれねえが……大事なのは学力とか見栄えの良さとか、そういうのじゃねえ。あの子には、愛がある」

「……愛?」

「そう。人を愛し抜く忍耐と、芯がある。だから愛される。上っ面の人間にゃあ到底許容出来ねェ、懐の深さ。それがあの子のすげえところだ…………今のアンタにゃ無いものかもな?」


 似合わないニヒルな笑みを浮かべ、保科父は鼻を鳴らした。図星どころの騒ぎではない。彼女はため息と共に、深く肩を落とす。


 ったく、分かってねえなァ。

 そんな一言を添え、保科父は健気に笑い飛ばす。



「ところがアンタは育てたんだ! あの素晴らしい娘さんを。ってこたぁ……」

「違います。私は何も……」

「元父親のおかげ、ってか? それはなぁアンタ、自分を過小評価してやがる。子どもっつうのは父親と母親、半分ずつ遺伝子を受け継いで完成した、愛の結晶だ。片方だけじゃ出来ねェ」


 グッと姿勢を落とし、その真意を悟ろうとする。だが反発する磁石みたいに顔を背けられ、つい苦笑いも零れた。


 窓の外では青い木々が風に揺られている。一度開ければ、カーテンの揺らめきと混ざり爽やかな新風が飛び込んで来た。時期にやって来るだろう待ち人のように、肩を優しく撫でるばかり。



「詳しいことは知らん。何があったのか聞くつもりもねえ。娘より再婚相手の方が大事ってなら、まぁそれも良い。俺はなんも言えん。人生それぞれ」


「でもこれだけは忘れてくれるな。アンタがどう思っていようと、もう愛が残っていないとしても……あの子にとっての母親は、アンタしかいねえ」


「俺もよ。嫁が出てって、アイツの代わりになろうとしたけどな。新しい嫁さんも死ぬほど探した。けど意味ねえんだよ。産んだくれたのは一人だけ、アイツだけ……それだけはど~しようもねえんだわ」


 彼は立ち上がり、窓の外を眺めた。

 下を覗けばちょうど入り口が見える。



「今更仲良くしろなんて言わねえ。大の大人に説教なんざこれっぽっちもしたくねえ……あの子に『お母さん』って、そう呼ばせてやれよ」


「子は親を映す鏡だ。元の部分が壊れていたら、そっくりそのまま映し出される。それがあの子にとって、あの子の周りの人間にとってどれだけ不幸なことか……考えたことあるか?」


「母親やり直せって、んな難しい話じゃねえ。ただあの子にとって、母親と呼ぶに相応しい人間でいろって……マージでそんだけ」


 背後からはすすり泣く声が聞こえる。

 木々が擦れ合う音のようで、酷く頼りない。



「こんな筈じゃなかった……ッ! スペインへ着いて行って、すぐにあの子が産まれて、嗚呼、なんて幸せな家族なんだって、心の底から思った……!!」


「本当に可愛くて、愛おしくて……っ! あの子さえいれば、例えすべて……彼さえ失っても生きていけるって、本当に思っていたのに……!」


 溢れ返る号哭。瞬く間にシーツは薄く汚れ、ベッドは嵐が通過したみたいに激しく汚れた。沸き上がる情動に釣られ、彼も口を開いてしまう。



「辛いよなァ。愛した男に裏切られるのは」

「私が悪いんですッ! 浮気していたと思った女は、ただの仕事仲間で……私が勘違いしたんです! でも、その日から……あの人を信じられなくなってから……何もかもが憎たらしく見えて……ッ!!」

「で、自分も?」

「寂しかったんです……辛かったんです……! あの子の瞳以外は、彼そのままだから……あの子を見ていると、憎しみばかりが募って、悔しくて、やり切れなくて……!!」

「アンタ以上に辛い思いをしたんだよ。あの子は」

「分かってますッ! 分かってるそんなこと!!」


 布団を一心不乱に剥ぎ取り、強い情念と共に目を見開く。これほどのモノをぶつけられても尚、保科父は冷静だった。


 むしろ感心しているほどだ。試合中、時折彼女が見せる、狂気と熱量が入り混じったような激烈な闘志とプレッシャー。瓜二つだった。



「私が弱かったんです……あの人を信じられなかったから……ッ! そんな彼を信じた自分も、信じられなくなった……スペイン語なんて話せない。近くに友達も、頼れる人もいない、そんな状況で……どうしようもなくて……ッ!!」

「そりゃあアンタの怠慢だ」

「そうよッ! なんの覚悟もしていなかった、私が悪いの!! でも、あんな結末を迎えるくらい、酷いことはしてないッ!!」

「したんだよ。アンタは。それだけはやっちゃあ駄目だった……子どもはなんでも見てる。どんなことでも気付く。そして真似をする。そう、鏡だ」


 倒れてしまった卓上のペットボトルを掴み、目前へと突き付ける。透明な容器にその顔が映し出され、彼女はハッと息を呑んだ。



「幸いにして、アンタはその鏡をかなり早いうちに割っちまったんだ。だからアンタは、あの子にとってのすべてにはならなかった」


「更に幸いなことに……それはあの子にとって、良い方向へ転がった。愛する男が出来て、信頼できる友達に囲まれて、一緒に高い目標へ挑んで」


「でもなァ……! その一部はまだ、あの子の心に生きてるんだよ。割っても割っても割り切れねェ……それが親子なんだよ!!」


 一連のやり取りを決するかのように、病室の扉が開いた。看護師の女性がいったいどうしたのかと驚いた様子で立ち尽くしている。



「あの、金澤さん……お子様が面会に。もう病棟の前まで来られています」

「……さ、どうすんだ? 追い返すのか?」


 彼女は俯いたまま答えない。代わりに『俺が迎えに行きますわ』と一言、彼は重い腰を上げた。



「一個だけヒントやるわ。俺の方が年上だろォ? 違うか? ……まぁなんでも良いけどよ。人と人の話だ、歳の差なんて関係ねえ」


 ベッドのカーテンを閉め、一呼吸。

 暫し沈黙を挟み、こう言った。



「自分を責めるのはやめろ。呪うのは精々、過去と運命だけにしておけ。アンタは今を生きてる。んでもって……未来に向かって生きんだ!」


「大事なのはアンタがどうしたいのか……そして、具体的になにをするのか! 以上ッ!!」


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