995. それだけは


 手元のスマートフォンからガサゴソと擦れるような音。ビデオ通話を繋いで、家の様子や会話は把握出来るようにした。



『ほら、座って。話あっから』

『……ねえ、アンタどういうつもり? 昨日の今日で帰って来るなんて……!』

『いいからっ! すぐ終わるって!』


 カメラ部分を前に向けているので、母親の顔が映し出されている。酷く困惑しているのは明らか。瞳には怒りにも似た色が残る。



「これが瑞希のお母さん?」

「ははぁ……似てないっスね」

「父親似なのか……?」


 映像を覗き込み、三人は怪訝に眉を顰めた。髪色からしてイメージと異なるのだろう。瑞希と違い徹頭徹尾日本人らしい黒。

 肩に掛かるくらいの長さだが、手入れはされていない。映像越しでもなんとなく分かった。肌感も似たようなもの。


 体型もかなりふくよか。下手したら瑞希の倍はあろうかという勢い。何よりも、瑞希を象徴するような快活さ、いっぱいのエネルギーが微塵も感じられない。皆の疑念も頷ける。



(……目がソックリだ)


 そんななか、俺だけが二人の類似点に気付いていた。釣り気味のシャープな目元は瓜二つ。痩せていた若い頃はきっと、瑞希と同じエキゾチックな雰囲気の美人だったのだろう。


 尤も本来の魅力も、幾つもの小皺と酷く畳まれた姿勢を筆頭に、四十半ばとは思えない溢れ出る疲労感で台無しになっていた。


 恐らく、この数年で一気に老け込んだのだ。心のバランスが崩れ表面に現れている、お手本のような姿だった。



『これから仕事なんだよ! なによ急に家庭訪問って、おちょくってるの!?』

『だから違うって! 話聞けよっ! なんであたしの方が冷静なんだよ!』

『そっちでしょ勝手に熱くなってるの! 邪魔しないでッ! 消えろ!』


 テーブルをガッと動かし瑞希を威嚇する。それから暫く言い争いが続いた。通話越しに聞く必要も無い。ドアの先から十分伝わって来る。


 一応には峯岸の留守電を聞いたようだ。だがそのせいで、余計に機嫌を損ねているのだろう。昨日の出来事が学校側まで行き届いているのも、なんとなく悟っているのかもしれない。



「話にならないな。これ」


 玄関越しに口喧嘩を聞き流す最中、峯岸はやり切れない面持ちで力無く呟いた。良好な親子関係を築けなかった彼女には、繰り返される罵声も耐え切れないものがあるのか。或いは当時のやり取りを思い出しているのか……。



(瑞希……っ)


 彼女にとって今の母親は『ただ産んでくれた人』なだけ。家族として愛情を持って接するだけの理由が、なに一つ残っていない。


 はじめから関係性の希薄だった俺と違うのはここ。父親と三人で幸せに暮らしていたスペイン時代から、反動があまりに大き過ぎる。


 裏切られたからだ。


 失った信頼を取り戻すのは難しい。母親にしても、瑞希から家族と思って貰えるだけのことを何もしていない……。



『はい分かった、よーく分かった! もうなんも言わんから! すぐ出てくって、それで良いだろ! でも一個だけ! これだけは教えろ!』

『……なによ……ッ』

『あの男だよ! アレと再婚すんの!? 本気で!?』

『うるさい……アンタには関係無い……ッ!』

「あるよっ! あるに決まってんだろ!! 親が殴られてんの見て、黙って出てけるワケねーだろ! それくらい知る権利あんだよ! 娘だぞッ!!』


 一つ目の目標はもう諦めてしまったのか、話は再婚相手の件へ。母親の瞳はますます苦痛に歪み始めた。話したくない、と顔中に書いてあるようだ。



『いいから……本当にいいから……!』

『……は?』

『嫌いなんでしょ私のこと!? だったらそれで良いでしょッ! いちいち突っ掛かって来ないで! ろくでもない男に騙されたって、笑えば良いじゃない!』


 破れかぶれに叫ぶ母親へ、瑞希は戸惑いを露わにする。あれだけ熱くなっていたのに、水を打ったように黙り込んでしまう。



「ちょ、ちょっと待って……ろくでもないって、お母さんも分かってるの?」

「ならもっと意味分かんない、っていうか……! カナザワ先輩に辛く当たる理由が無いっスよ!」

「ハルト、やっぱりその男って……!」


 愛莉は余裕なさげに俺の肩を強く揺する。何が何だか分からず着いて来た慧ちゃんも事態の深刻さを理解したのか、酷く慌てた様子。


 そうだ。母親の言動には、昨日から何かと矛盾した点が多い。あれだけ瑞希に嫌悪を露わにしながら、ついぞ再婚相手と引き合わせようとしなかった。

 

 昨晩瑞希が話した『早く再婚したくて焦っている』という証言が事実なら、今し方の物言いも不可解だ。だって再婚相手の狙いは瑞希で、彼女が実家から出て行ったら再婚話は無くなるも同然なわけで……。



『本当に面倒臭い……! なんでよりによって、アンタみたいなのが……ッ!』


 だが次の瞬間。母親から飛び出たあまりに残酷な台詞が、あらゆる可能性と思考を潰してしまった。


 ビデオ通話の画面がブラックアウトする。恐らくスマホを落としたのだ。その一言にどれだけ衝撃を受けたのか、察するに余る。



「……もう無理ッ! 行くわよハルト!」

「おい、愛莉!?」


 いよいよ興奮を抑えられない愛莉は、バットと似合わないサングラスを投げ捨て玄関を戸を開けた。

 再婚相手には勿論、衝動的でもあんなことを言い放った母親に対しても、堪忍袋の緒が切れてしまったのだろう。


 ドアが開く音は向こうにも聞こえているだろうし、引き返す理由も無いとみんな分かっていた。峯岸、慧ちゃんと目を見合わせ、愛莉の後を追う。


 突然リビングに現れた俺たちに、母親は酷く驚いている。まさか話を聞かれていたとは思いもしていないだろう。


 だがそれよりも瑞希だ。


 全身から力が抜けてしまったのか。ペタリと座り込んで、グラグラと焦点の合わない瞳で。どことも言わぬ場所を見つめている。


 いや、違う。なにも見えていない。

 微かに見えていた希望が、その一言のせいで……。



「瑞希、おい瑞希ッ! しっかりしろ! 大丈夫や、俺がいるから!! ここにいるから!! 瑞希っ、大丈夫やから……!!」


 憔悴し切っている。正面から抱き締めると、身体が小刻みに震えているのが分かった。涙を流すことさえ出来ていない。


 最悪だ。瑞希にとって一番のトラウマがこんな形で、こんなところで……他でもない、肉親のせいで引き起こされるなんて……ッ!



「ちょ、ちょっと……誰よアンタたち!?」

「お電話で申し上げた筈です、家庭訪問と。瑞希さんの担任と、部活の顧問をしている峯岸と言います……あまりに大きな声だったもので、外から聞こえていたものですから。つい思わず。他意はありません」

「来て良いなんて言ってないでしょッ! だいたい、そのガキ共はなに!?」

「彼女のご友人たちです。どうしても着いて来たいと言いまして。金澤さん、一度落ち着いてお話を……」

「帰って!! 警察を呼ぶわよ!!」


 穏やかな口調で峯岸が語り掛けるが、母親は耳を傾けない。目を真っ赤に充血させ、ヒステリックに叫び散らす。


 峯岸が対話を試みている間、俺たちは三人掛かりで瑞希へ声を掛ける。なんせ家に突入してから、一度のリアクションさえしていないのだ。



「しっかりして瑞希! 大丈夫だから!!」

「カナザワ先輩! 落ち着いてくださいっ、あんなん言葉の綾っスから! 真面目に受け取っちゃダメっス!!」

「瑞希、瑞希……っ!」


 三人に囲まれ、ようやく意識が戻って来たのか。口をパクパクと動かし、なにか言いたそうにしている。


 その姿は誕生日の夜、やはり自宅で見せたソレと限りなく似ていた。氷のように冷え切った身体。迷子のような瞳。


 溢れ返るのは、絶望ばかり。



「……わなかった、のに……っ」

「瑞希……?」

「それだけは……それだけは言わなかったのに……っ! だからあたし、まだ頑張ろうって、なんとかなるって、思ってたのに……ッ!!」


 噛み締めるよう紡いだ言葉が、鼓動まで真っ黒に染めてしまう様を見ているようだった。ふるふると首を振り、それを否定しようと必死になっている。


 母親の言葉は、きっとこう続く筈だったのだろう。

 アンタなんて産まなければ良かった、と。


 恐らくどれだけ口喧嘩を繰り返しても、その一言だけは、一線だけは触れられて来なかったのだ。だから瑞希も期待していた。


 まただ。

 また、裏切られたんだ――。



「ちょっと、アンタ……ッ!」


 代わりに涙を流していた愛莉が、袖口で目元を拭い立ち上がった。募りに募った情念を母親へぶつけるつもりだろう。


 しかし、それは叶わなかった。



「うるッせえなァ……! 人が気持ちよく寝てんだろうが……オォ? なんだよ、随分と美人揃いじゃねえか……! どれが娘だァ……?」


 リビングの入口へ突如現れた、人相の悪い太った男。酷く汚れた白シャツに短いパンツというラフな恰好からして、本当に寝ていたのか。


 問い質すまでも無い。例の再婚相手だ。

 コイツ、ずっと家の中にいたのか……!


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