992. 恐ろしく長い夜
「あぁ、寝ちゃったんですね……大丈夫でした?」
「なんとかな。ご飯、そこに置いてくれ」
スースーと眠りこける瑞希を、ノノは落ち着かない憂慮の目で見つめる。
後ろに付いているミクルも珍しく真剣な面持ちだ。下の階にまで泣き声が聞こえていたのだろう。
ベッドを少し畳みテーブルを広げ、遅めの夕食が始まった。
本当は瑞希こそ食べて欲しいが、無理に起こして嫌な記憶を思い出させるよりはマシか。艶やかな金髪を撫で下ろすと、少し苦しそうに寝息を漏らす。
「それで……お手紙は?」
「ブラフや。全部。クソが」
真っ白の手紙を投げ付け、聞いた限りの出来事を搔い摘んで打ち明ける。言い触らすのもどうかと思うが、話さずにはいられなかった。
話を聞くに連れ、神妙な顔つきだった二人も次第に嫌悪を露わにし始める。意見もおおよそ一致した。母親の再婚話、自宅に誰かが出入りしている件を瑞希も偶に部内で溢している。
「察するにその男性が、お母様の再婚相手なんでしょうね……どうやってお母様と出逢ったとか、その辺の話はセンパイから聞いてますか?」
「店の常連……らしいな」
「娘が目当てで結婚ってちょっとヤバすぎますっ……お母様、その人のどこが良いんでしょうか……?」
母親は所謂スナックで働いていて、男も元々は客だったらしい。先日、朝風呂のときに瑞希が話していた。大会が終わった夏休みに会う予定だとも言っていた。今となっては無駄足だが。
恐らく瑞希が元父親と文通しているのを母親伝手に知り、この卑劣な作戦を思いついたのだろう。
手紙を渡すから家に来い。
母親にそう連絡させ、瑞希を誘き出したのだ。
中身は当然、空白の嘘八百。
あり得ない。
どれだけ性根が腐っていればこんなことを考え付くのだ。瑞希の人生を、大切な思い出を踏みにじりやがって……ッ。
「ともすれば或いは……いえ、きっとお母様も、再婚は本意ではないのかもしれません。娘が目当てだと知って、みすみす差し出すような真似をする筈が……弱みを握られている、とか?」
眠る彼女を一瞥し、ノノはそう推理する。
証拠は無いが可能性は高いだろう。瑞希の元父親への愛着を知っていて尚、男の蛮行を止められなかったのだ。目撃したような暴力沙汰は今日に始まったことではないと思われる。
加えて、母親は瑞希へ『早く出て行け』と何度も言っていたらしい。二階に残っている彼女を庇い、最後まで口を割らなかった。
男と鉢合わせないよう、身体を張って必死に守ってくれたのだ。尤も、瑞希がそれを認識しているか、受け入れるかはまた別の話だが……。
「フンッ。戯言やもしれぬぞ」
「……ミクル?」
「どんな事情があれ、この女の祖が下郎の傘下に降ったのは事実。自ら蒔いた種に過ぎんな」
「ちょっとミクエルちゃん、そんな言い方は……」
「弱い生き物だ。人の子らは。齢四十を過ぎた者は特にな……」
深いため息を溢すと、冷め出したカレーを頬張るスプーンだけは止めず、彼女は饒舌に語り始めた。そうだ。ミクルの両親も……。
「インドの修行僧に纏わる興味深い事例だ。あまりの過酷さ故、毎年何人もの軟弱者が修行場から脱走するが……最も多いのが十代の僧。その次は長らく経験を積んだ筈の四十代だとか」
「……え、なんの話ですか?」
「未練を捨て切れず、俗世に回帰する最後のチャンスと考えるわけだ。我が祖も同じ過ちを犯した……始祖への忠誠を軽んじ、邪教へ靡いてしまった。結果あの不始末だ。我も散々な目に遭った」
「目が曇る、と?」
「左様。かの下郎が一方的に悪いのかと言えば、決してそうではない。事実その女は、此奴を苦しめているではないか」
空になった皿をミクルはジッと見つめる。
映り込む憐みの瞳は、続いて瑞希へ向けられた。
彼女もまた、両親の不倫騒動に翻弄されここへ行き着いた過去がある。自身と重なる部分も、共感するところも多くあるのだろう。
「なる、ほど。厳しい言い方かもしれませんが……その男に騙されたのも、弱みを握られたのも……瑞希センパイを危険な目に遭わせたのも、お母様に責任がまったく無いわけではない……かもですね」
「創世神が犯した、唯一の致命的なミスだ。如何なる人の子らも、母体を選ぶことは出来まい……抗えぬ運命よ」
聞き慣れて来た筈の厨二語録が、やたらと重く心臓へ響いた。辛い現実を目の当たりにしたミクルだからこそ、言えることだ。
でも、それで良いのだろうか。
選べないとして、何も出来ないまま終わるのが正しいのだろうか。たかがその程度の存在だと、諦めと共に生きていくことしか望めないのか?
そんなの……そんなのって……。
「んぅ……ハル……っ?」
「おはよ。お腹空いてないか?」
「…………ぺこぺこ」
「ちょっと待っててな。ノノとミクルがカレー作ってくれたから。味は期待してやるなよ」
「ん…………あれっ?」
日付が変わり少し経った頃、瑞希は目を覚ました。眠っている間にだいぶ落ち着いたみたいで、目を擦りボーっとしている。
枕のし過ぎでピリピリと痛む右腕を振りながら、キッチンへ向かいカレーを温め直す。部屋へ戻ると、首をこてんと傾げ俺を見つめる彼女がいた。
「……いたずらした?」
「ちゃうって。制服のままや皺になるやろ。下着も窮屈そうやったし……あと脱がせたのノノやからな」
「なんでハルも脱いでんの?」
「履いとるで下」
「一緒じゃん。ほぼ」
「いや、これはこれでなんか寒そうやったから……アレやアレ、雪山で遭難したらお互い素肌で暖め合う、的な」
「……ばーか。へんたい」
口ではそう言うが、いつもと変わらない暢気なやり取りに安心したのか。だらしなく頬を垂らし、腕を広げ俺を迎え入れる。
テーブルに皿を置きベッドへ戻ると、甘える子猫みたいに身を縮ませ肌を擦り寄せて来る。ただでさえ華奢な身体が、いつもより細く見えるようだ。
「……マジでさ。ハルが最初の男で良かったなって、最近すげー思うんだ」
「うん。ありがと」
「もしハルと出逢う前に、テキトーな奴と付き合ったりしてたら……絶対後悔してたもん。あーゆー、身体目当ての奴にさ……」
「……危なかったな。ホンマに良かった、上手く逃げ切れて。ごめんな、俺が家まで着いて行けば……」
「んーん。ヘーキ。あたしも舞い上がってたし、一人で行っちゃったから……だから、もっとギューって……して?」
男の不快な笑みが脳裏を過ぎったのか、ますます腕に力を入れ強く抱き締められる。話をする余裕は……ギリギリだな。無理させないよう気を付けないと。
「……話、ちょっと聞こえてた」
「寝てなかったのか?」
「寝てたけど、たまに起きてた……やっぱり、アレと結婚するのかな。あの人」
「かもしれないな。どう思う?」
「たぶんそーかも。ちょっと前にさ、めっちゃ酔っぱらって帰って来て、そのまま喧嘩になって……あたしのせいで再婚できないとか、色々言われたんだ」
「…………酷いな」
「パパが再婚するって知って、焦ってるんだよ。あたしにもハルがいるし……自分だけ不幸なままなんだって」
力の無い声で瑞希は淡々と語る。無論あの男を新しい父親だと受け入れたわけではなく、単に諦めているだけなのだろう。
親子の溝は相当に深刻だ。瑞希は離婚の原因が母親にあると考えているし、母親も瑞希を足枷のように扱う。
実際、母への愛情はほぼ失われていると考えて良い。先日も『他人と思えばそれなりに上手く付き合っていける』と、だいたいそんなことを言っていた。母が誰と再婚しようと、瑞希にはもう関係の無い話。
の、筈だった。
俺もそう思い込んでいた。
でも、やっぱり違う。
彼女はただ、諦めてしまっただけで……。
「だから騙されるのにね。こないだも変なネックレス付けてたからさ。きっとアイツに貰ったんだよ。うち金無いし。あーゆーダサいの好きだし」
「……うん。そうなんだ」
「だいたいさ。あんな中年のババアに言い寄る男なんて、ロクな奴じゃないよ。ちょっと考えれば分かるのにさ……これを逃したらもう一生結婚できないとか、そう思ってるんでしょ」
「せやな。そうかもな」
「だってあたしの親だよ。バカに決まってんじゃん。海外で暮らしたいからって、出逢って数か月のパパにホイホイ着いていくような……空っぽの奴」
つらつらと淀みなく並ぶ汚い言葉は、少しずつ語気が上がり冷め切った熱が次第に込められていくようだ。
きっとこんな具合で、みんなにも母親への愚痴を撒き散らしていたのだろう。愛莉が言っていた通り、それはそれで健康的なのかもしれないが。
「よく知っとるんやな。お母さんのこと」
「…………まー、親だし。いちおー」
「お母さん、嫌い?」
「……聞いてどーすんの?」
「ううん、なんも。知りたいだけ」
「嫌いに決まってんじゃん。あんな奴」
「……そっか」
目を尖らせ少し不機嫌そうに呟く。
紛うことない本心だろう。しかし。
『……んだよ……こっちは心配してんのに……ッ!』
殺されるかもしれない。どうしよう。涙ながらに訴える数時間前の姿が今も鮮明に思い出せる。それは決して、他人如きへ向けられるような感情ではない。
男への恐怖心のみが原因ならそもそも、母親へ怒りのベクトルをぶつける必要が無いのだ。自ら語った言葉が何よりの証拠だった。
母への愛は、家族の絆は。
まだ死んでいない。ちゃんと残っているんだ。
(……今は、早いのかもな)
助けて欲しいから、知って欲しいから話してくれたのだろう。家から逃げるよう必死に叫んだ母親の姿を、自らの目で見たのだろう。
そう伝えることも、出来なくはなかった。だが、あらゆる恐怖と猜疑心が一緒くたになっている今の彼女へ、正直に告げるべきか。
いや、言うだけなら簡単だ。でもそれじゃ意味が無い。家で起こったすべての出来事が一本線で繋がり、心から納得出来なければ。
何も変わらない。根本的な解決には至らないと、そうも思うのだ。今はただ、肌と心に温もりを分け与える。それで十分なのかもしれない。
「まだ寝れそう?」
「んー……分かんない。ハルがあったかいから、目ぇ覚めちゃったかも」
「しゃあな。もうちょっとお喋りでもしよか。あ、カレーは? 忘れてた」
「いーや。朝食べる」
真実と向き合うのも、謎を解明するのも、今は後回しだ。瑞希が少しでも笑顔でいられる時間を増やせるように、俺は俺の出来ることをしたい。
逃げるんじゃない。距離を置くだけ。本当に辛い思い出や、苦しい気持ちは……忘れたフリをしたって良いんだ。
打ち勝つ勇気を持てるまで。
一歩を踏み出す、そのときまでは……。
「それとも、シちゃおっか?」
「怒られるで。比奈に。あとノノも」
「市川も?」
「さっき脱がしとるとき『なんかぴちぴちしててエロい』言うとったわ」
「うわっ。きもっ!」
それから暫く、ブランケットに包まり他愛もないお喋りを続けていた。
恐ろしく長い夜が、少しでも短く感じられるように。曖昧な相槌を打ちながら、何度も、何度も祈った。
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