991. 白紙
自宅へ連れて帰る間、瑞希は酷く肩を震わせ先の衝撃的な告発を除き、それ以上話そうとはしなかった。数時間前まで健在だった、彼女らしい笑顔とは何もかも正反対な、憔悴しきった虚ろな目が俺を掴んで離さない。
帰ってから何か食べたか、という問いに瑞希は力無く首を振る。ノノにミクルのカレー作りを手伝うよう命じ、二人きりの時間を作った。
「大丈夫やから。俺がいるから、なっ……落ち着いて、ゆっくり深呼吸して……」
ベッドに座り抱き合っていると、少しずつ呼吸も穏やかになって来た。半面、肩を握る手はあまりの強さで跡が出来てしまいそうなほど。
(殺される、って、いったいなにが……)
先の発言を顧みるに、対象は瑞希でなく母親。
じゃあ、誰がお母さんを? 何故、どうして?
確かに金澤家の家庭環境は、既に底が見えるほど冷え切っている。だが生死に関わるほどシリアスな状況ではない筈だ。喧嘩も言い争いがほとんどだそうだし、手を上げられたという話も聞いたことが無い。
大袈裟に言っているわけでもなく、瑞希は心底恐れを為している。つまらない冗談は彼女が何よりも嫌うところ……ただ理由を聞こうにも、この様子では。
「どうしようっ……ハル、あたし、あたし……っ!」
「落ち着け。ほら、目が真っ赤や。ちゃんと涙拭いて……話せる範囲で、ゆっくりでええから、教えてくれるか? 家で……なにがあった?」
胸元へ蹲っていた瑞希はようやく顔を上げる。幾度となく唇を震わせ、彼女は自宅で起こった事の顛末を恐る恐る語り始めた。
* * * *
(あれっ。カギ開いてる?)
思えば、そのときからおかしかった。
向こうで暮らしてたときの名残だよ。バレンシアって見た目は良い街だけど、普通に犯罪とかも多いから。特に泥棒。庭に出たりポストに郵便取りに行くときも、家のカギは絶対に閉めるのが常識なんだ。
なのに、大事じゃないモノにはとことんドライで、適当。スペイン人の悪いところだよ。まさかそれが役に立つなんて、思ってもみなかったけど……。
玄関はいつもに増して煙草臭かった。ってことは、あの人がいる証拠だ。ダイニングの端っこに、あの人は座っていた。
テーブルにはパパが送ってくれた封筒が置かれていた。本当に返してくれたんだって、そのまま飛び付きたいくらいだったけど……でも、あの人がいるからやめておいた。
「これ? 手紙」
「……そう」
「じゃ、持ってくから。吸うなら換気しろよ」
あの人はなにも言わない。
手紙を取って、そのときやっと気付いた。
様子がおかしいって。
いつもだったら『うるさい黙れ』くらいは言い返して来る筈なのに、ゾンビみたいな顔してチェアーに蹲ったまま。
覗き込むと、なんだか顔色も悪い。本当にゾンビみたいだった。青褪めてるっていうか。ああ、これが憔悴した顔ってやつだって、そう思った。
「なに? 体調悪いの?」
「……早く出てって」
「いや、一応あたしの家でもあるんだが。ねえ意地張ってないで病院行きなよ。どーせ酒飲みすぎたんでしょ」
あたしの家、なんて、本当は思ったことない。日本に帰って来てから、ここはずっとこの人の家だ。あたしの居場所なんて無い。
それでも、こんな言葉が出て来てしまうくらいには不思議だった。元気が無いのも、どうでも良いところである意味元気なのもいつも通りだけど。でも違う。目がグラグラしている。
あたしを見ているようで、見ていない。あたしを通り抜けて、今にも死にそうな目で。奥の玄関をずっと気にしていた。
「いいから、早く……早く出てって……!」
「……分ぁったよ。出てけば良いんでしょ。そんな顔しなくても、大会終わったらもう帰って来な……」
そのときだった。
背中から、玄関の開く音がした。
するといきなり立ち上がって、あたしに近付いて腕を無理やり掴んだ。抵抗することも出来ず、階段まで連れて行かれて。
「な、なにっ!? 痛いんだけど!?」
「早く上に行って……早く……!! 静かにしてて、音を立てないで……!」
あまりに必死な顔で言うものだから、あたしも気後れして、あの人の言う通りにした。音を立てないようゆっくり階段を上がって、自分の部屋へ。
入らなかった。だって誰かがインターホンも鳴らさないで、勝手に家へ入って来たんだよ。気になるじゃん……だからバレないように、こっそり二階の廊下に寝そべって、聞き耳を立てたんだ。
「おい、誰かと話していなかったか?」
…………誰?
知らない男がいた。身長はハルと同じくらい。ただちょっと小太りで、頭はツルッ禿げ。とても人相が悪い。
こんなに暑い日なのに、真っ黒のスーツを着ている。でも変な着方だった。ネクタイもしていない。
最初は『借金取りかな?』って思った。夜の仕事をしているから、きっとあたしの知らないところでお金を使っているんだろうなって。
「……独り言よ、別に」
「本当か? もう家にいるんじゃないか?」
「来るわけないでしょ……よく知らないけど、ずっと彼氏の家にいるんだから。手紙一枚で釣られるわけない」
釣られる? もう家にいる?
ってことは、あの変な男はあたしに会いに来たってこと? じゃあ借金取りじゃなくて、何が目的?
そして、次の瞬間。
男は見る見るうちに不機嫌になって。
「――お前が言い出したんだろうが! 元父親の話なら釣れるって、お前が言ったんだろッ!! 舐めてんのかァ!?」
あの人の顔を、思いっきり引っ叩いた。
ううん、殴った。グーで殴ったんだ。
鈍い音と、苦しそうな声が聞こえた。廊下に倒れたあの人を、男は無理やり引っ張り上げて、また突き倒した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」
「使えねえ奴だなァ! こっちは何か月も待ってんだよ! なぁ~、いつになったら『パパ』と会わせてくれるんですかァ~~!?」
髪の毛を引っ張り力づくで揺すっている。
あの人は何度も悲鳴を上げた。
何が起こっているのか全然分からなくて、あたしはただ、あの人が酷い目に遭っている姿を、見ていることしか出来なくて……。
「分かってんのかァ? お前なんてな、年頃の娘がいて、やっと女なんだよ! 自分にそんな価値があるとでも思ってんのかァ!?」
「分かってる、分かってるから……ッ! ごめんなさいッ、すぐに呼ぶから……呼ぶから、お願いやめて……ッ!!」
「へぇぇ~。ってこたァ……いるんだな?」
ニタニタと笑う男。辺りをうろうろ見渡して、階段へ目を付けた。慌てて身体を捻って、その人に見つからないようにして……。
「まだ来てない、来てないのッ!!」
「だったら手紙はどこにあるんだよ? アァ? 無えじゃねえか。娘が持ってったんだろ!? しらばっくれてんじゃねえぞ!!」
男は階段を上がって来る。急いで自分の部屋へ隠れようとしたけど、ポケットに入れていたカギを上手く取れなかった。いないときは必ず鍵を閉めているから、開ける音で気付かれてしまう。
ただ幸い、二階には『物置』っていう、あの人が要らなくなったモノを放置するためだけの部屋があって、いつもドアを開けっぱなしにしているから……そっちに逃げて、内側から閉めてやり過ごした。
音が聞こえないように、息を殺した。廊下が軋んでいる。こんなに怖くて長い時間は、生まれて初めてだったかもしれない。
「チッ。いっつも開いてねえんだよなァ……あーあ、早く会いたいんだけどなァ、瑞希ちゃん……!」
気色悪い笑みが扉越しに見えるかと思った。男はそのまま階段を降りて、またあの人を殴った。見てなかったけど、似たような音が聞こえたから、きっとそうだったんだと思う。
「煙草買って来るから、それまでに呼んどけよ。分かったな!!」
あたしは部屋を出て、窓から男が遠ざかっていくのを確認して……急いでリビングへ向かった。口から血を流して、あの人は倒れていた。
「ねえ、さっきの誰!? どーゆーこと!?」
「…………行って。早く行って……ッ!」
「同じこと何度も言ってんじゃねー! 教えろっつってんだよ!! 待ってて、いま水持って来る! えっと、警察って何番だっ――」
「出てって!! 早く!!」
血を吐き出しながら、その人は叫んだ。
あまりの迫力に、あたしは振り返って。
上手く言えないけど、凄い目をしていた。死に物狂いで何かを訴えていることだけは分かって、あたしは、それで……っ。
「……んだよ……こっちは心配してんのに……ッ!」
自分も泣いていることに、あたしはそのときやっと気付いた。どういう気持ちなのか、あたしも全然分からなくて、何もかもぐちゃぐちゃで。
気付いたら、家から飛び出していた。手紙片手に、無我夢中で駅まで走った。一番近いコンビニは駅の手前だ。
男が店から出て来たのを見て、とっさに物影へ隠れた。あっちを向いた瞬間、一気に改札まで走って、すぐに来た電車に飛び乗って……。
* * * *
「あたしっ、怖くて、もうワケ分かんなくて……っ! ママが殴られてるの、見てることしか出来なくて……ッ!!」
「分かった、もう良い。もう良いから……」
そのときの恐怖を思い出してしまったのか、瑞希は大声を上げて泣きじゃくってしまった。ずっと握り締めていた手紙が、ベッドの上へ落ちる。
拾い上げ封筒を開ける。
宛名も、なにも書いていない。
(こんな残酷な仕打ち、あるかよ……ッ!!)
手紙は、無地の白紙だった。
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