990. 懐へ入って


 瑞希は大慌てで着替えを済ませ、自宅へと走って行った。更衣室に戻らずその場で脱ぎ始めて『にぃにが見とるよ!?』と聖来がアワアワしていたが、応える様子も無く。それくらい浮かれていた。


 プライベートな問題とあって、みんなも気にはしていたが敢えてのスルーを決め込んだ。

 彼女がお父さんっ子なのはなんとなく知るところ。久しぶりの連絡だ、悪い知らせでもなしに干渉し過ぎるのも嫌ったのだろう。



「スペイン人だっけ。父親」

「ハーフや言うとったな」

「あー、そっか。だからクォーターか……」


 自由形競争が続く最中、真琴は持ち寄ったドリンクをストローで啜り、瑞希の去って行った県南側の空を眺めていた。


 雲一つない青空はあまりに雄大で、無理やりでもなにかで埋めないと、無性に心細ささえ覚える。



「真琴は記憶あるのか? お父さんの」

「全然。だって生まれてすぐ出て行ったんだよ。名前も知らないままだし……興味無いネ」

「会いたいとか思わないんやな」

「だとしても蹴り飛ばしに行くだけさ。姉さんと母さんを捨てた人なんて……あり得ないよ。人の心が無いんじゃないの?」


 流石に思い出もなにも無い状態では、恨みも出来ないか。真琴はストローをぺっと吹き飛ばし、濡れた髪をタオルで拭いて小馬鹿にするよう笑った。


 同じく母子家庭である長瀬家。父親はまだ幼かった二人と愛華さんを捨て、戸籍変更の手続きすらせずに家を出て行ったという。



「実を言うと、ちょっと引っ掛かってん」

「なにが?」

「愛莉も少し有名になったからな……二人へ会いに来たりするんじゃないかって。この期に及んで父親面されちゃ、堪ったモンじゃねえよな」

「そりゃあネ。聞いた限りだけど、誰かと似てだらしない男だったみたいだし。絶対姉さんにちょっかい掛けると思う」

「あんなんと一緒にするなよ」

「……ん。分かってるケド。ごめん言い過ぎた」


 少し強い語気で言い返すと、真琴は申し訳なさそうに肩を竦めた。


 確かに状況は似ているかもしれないが、その男との違いはこれまで身を持って証明して来た筈だ。これからも変わらない。一生続くモノ。


 引っ掛かっている、という意味では瑞希の一件も同様。彼女は『久しぶりに逢えるかもしれない』と喜んでいたが、果たして。



「なに考えとるんやろな」

「……どういうこと?」

「だって、三月かそこらに再婚したばっかりなんだぜ。元父親。リスタート切った直後やってのに、親権手放した娘のために日本まで来るか?」

「あー。まぁ、確かに……ずっと先輩のこと無視してたのに、今更会いに来るのかよって感じはするカモ」


 違和感が拭えない。


 瑞希の出した手紙を何度も無視して、再婚と同時にやっと連絡してくるような、ほとんど絶縁状態だった人間が。

 労を惜しんで日本へ逢いに来るような真似をするとは、到底思えなかったのだ。


 みんなには『離婚した』としか話していないようだが、俺は知っている。浮気していたのは母親も、元父親も一緒。


 だから瑞希は苦しんだ。当たり前のようにあるべき愛が、そこに無いと気付いたから。自身へは向けられていないと、理解してしまったから。



「あのさ。もし……もしも瑞希先輩のお父さんが、日本に来たとしたら……兄さんはどうするの?」

「んなん決まっとるやろ。一発殴って『もう俺の女やから』って、そのまま追い返すさ」

「ならせめて、大会が終わった後にしてネ」

「そうなればええけどな」


 瑞希は瑞希で元父親への愛情がまだ残っているから、あまり大きな声では言えないが。正直、俺はその男を信用していない。


 彼女を娘として扱うのは結構だが、それにしたって諸々の言動も後処理も適当過ぎる。


 俺が言えた口じゃないかもしれないけど……でもやっぱり、責任感が無いなって、どうしても思ってしまう。



「ほんでっ、引き手を目の高さ! 釣り手を真っすぐ曲げるっス! これが一! 二で回転して、一気に懐へ入って……どりゃああああアアああああっっ!!」

「ヴぇああアアああああァァァァッッ!?」


「うるせえな何やってんだよアイツら」

「痴漢対策とか?」

「だとしてもプールでやんなよ」


 プールサイドに立つ慧ちゃんが、愛莉を背負い投げで水中へ投げ飛ばしている。確かに痛くはないだろうけど。足元危ないって。やめなよ。



「松永ヂエゴ対策だってよ」

「はあ? 背負い投げが?」

「馬鹿にデッケえ選手がいるって話したら、保科が張り切ってよ。体幹鍛えるトレーニングとか、身体の使い方とか色々教えているみたいさね」

「体幹ってそういう意味ちゃうやろ……」


 やって来た峯岸も呆れ顔で呟く。その後も部員たちをドンドン水中へ沈めていく慧ちゃんであった。凄いな。腕力どうなってんだよ。


 そう言えばお泊まり会をした日『武術の心得がちょっとだけある』とか言っていたっけ。きっとパパさんに仕込まれたのだろう。明らかに強そうだし。黒帯百本くらい持ってそう。



「兄さんも教えて貰ったら? 殴るより投げ飛ばす方が良いよ、たぶん。傷害罪じゃなくて正当防衛になるから。分かんないケド」

「いやぁアレはちょっと……」


 殴るのは手段であって目的ではない。双方にとって、本当の意味での『子離れ』を理解して貰うための見せ掛けだ。俺自身のエゴでもあるが。


 尤も、顔を合わせてすぐに元父親が頭を下げるのであれば、そんなことをする必要も無いだろう。どうなることやら……。



「……じゃあ、自分たちのときにやってよ。許可出すから。姉さんだって思ってるよ、機会があったら一発くらいヤってやりたいって」

る、の間違いやろ」

「でも良いから」

「……機会があればな。あれば。愛華さんも呼んで、盛大に殺ろうぜ。トドメはお前が刺せよ」

「イイネ。乗った」


 拳を付き合わせ、悪戯な笑顔が弾けた。そのまま『飛ばされてくる』と慧ちゃんのもとへ向かう。


 お、結構善戦してる。真琴も細いけどパワーはある方だからな……あー駄目だ、投げられてしまった。マジで強いな慧ちゃん。



(武術はともかくなぁ……)


 何かしら防衛手段を身に付けた方が良いだろうか。流石に西ヶ丘戦には間に合わずとも、最低限の準備は必要だよな。


 ただ、あれだけ言っておいて、やっぱり期待している自分もいる。確かに傍から見れば、被害者と加害者に過ぎないのかもしれないけれど。


 でも家族だ。血は繋がっている。


 言葉と態度だけで十分なんじゃないか。

 俺でもどうにかなったのにな。なんて。



「恵まれとるのは俺も一緒か……」


 ため息交じりのやるせない呟きは、青空と溶け合いどこかへ消えて行く。願わくばせめて大阪。欲張って、バレンシアまで届けば良いが。






 今日はそのまま解散。アパート組以外の連中も大人しく実家へ戻って行った。つまりノノはいる。騒がしいことに変わりは無い。


 少し気温が下がったので、軽くランニングだけして買い物を済ませすぐに帰る。愛莉と比奈が居ないし、文香もバイトを休んでいるから、ミクルの晩飯は俺が作らないといけないのだ。


 こんな日こそ熱いものを食べて夏バテ防止だ、と雑過ぎる思案からカレー粉と野菜を買い、一階のミクル邸を目指す。すると。



「あ、センパイ。ちょっと良いですか?」


 部屋着姿のノノが扉を開け、手前の部屋から出て来る。すっかりアパートの住人だ。馴染むの早過ぎる。まだ越して来て一か月だぞ。



「悪いけど、今日は自分の部屋で寝てくれ。ベッド退かして筋トレするから」

「それはそれでお付き合いしたいのですが……あの、瑞希センパイなんですけど、連絡来てません?」

「いやなんも……あれ? 夜来るって言ってたよな?」


 あくまで手紙を受け取りに実家へ戻っただけで、一緒に読んで欲しいと言っていた筈だ。そろそろこっちに来ても良い頃。



「ノノもこっち戻るって聞いたんで、時間だけ知りたかったんですけど……既読付かないんですよ」

「もう結構経ってるよな……」


 スマホを握り締め、ノノはちょっとばかし不安げな面持ち。瑞希の自宅最寄り駅はここから一時間弱掛かる。プールを出て行ったのは二時間半ほど前。返信する余裕くらいあるだろうに。


 或いは用事があって、もう暫く実家に留まっているのかも。いやでも、自分の部屋以外は居場所さえない実家だぞ。

 母親がいないときしか自由に使えないと、いつも嘆いているほどなのに……好んで居座ったりするか?


 こちらからもメッセージを送るが、やはり既読が付かない。俺からの連絡は秒で返す彼女にしては珍しいことだ。

 スマホの充電だって隙あらば欠かさずというアイツだし、それも考えにくい。これは……。



「……行くか」

「行きますか」


 妙な胸騒ぎがする。

 何か変なことに巻き込まれているんじゃ。


 ミクルに買い物袋を渡し、偶には自分で作れと念押し。ブー垂れる声を置き去りに、ノノと二人で最寄り駅を目指す。


 ホームを潜るが中々快速電車が来ない。入れ違いになったら困るな。相変わらず連絡も無いし……って、あれは?



「あっ……あれ瑞希センパイですっ!」

「なにやってるんだ……?」


 反対側のホーム。ベンチに座っている彼女をノノが発見した。居るには居るが、何故ベンチへ留まっているのだろう。


 駆け足で階段を降り彼女の元へと向かう。すぐに俺たちに気付くと、瑞希はゆっくりと顔を上げ、拙く吐息を溢した。



「な、泣いてるのか……? いつからここに居た?」

「…………ハル……っ」

「なにがあった!? 痴漢にでも遭ったのか!?」


 ふるふると力無く首を振る。よく見ると、手元で封筒を握っていた。元父親からの手紙だろうか。ただ、開けた様子は無いな……。



「……ママが……ママが……っ!」

「えっ……お母さん?」


 想定とは違う人物を、瑞希はうわ言のように何度も呟く。溢れ返った涙をホームへ溢し、彼女は重い口を開いた。



「ママが、ころされちゃう……っ!!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る