936. 待ち切れない


 あっという間に一週間と少しが経ち、予選開幕を明日に控えた金曜日。


 クラスメイトから幾つかの励ましの声を頂戴し、雨の降り頻るなか傘片手に皆で向かったのは、学校から三十分ほど離れたところにある大きな神社。


 せっかく近くにあるのだから、必勝祈願の一つくらいやっておきましょう。と琴音の提案がしてくれた。なんでも平安時代から続く由緒正しいところなのだそうだ。観光地としても結構有名なんだとか。



「この期に及んで神頼みってガラでも無いと思うけどネ。自分たち」

「まぁな。言われりゃ確かに、神様に怒られそうなことばっかしとる気がするわ」

「それは兄さんだけデショ」

「違いねえ」


 五円玉をポイっと投げ捨てみんなも後に続く。どうでも良い話だが、千倍のご縁がありますように~、と五千円札を投入したノノにはしっかり説教しておいた。負けたらお前のせいだ馬鹿者め。


 神社へ向かう道中で雨も上がった。今日くらいは身体を休めようということで、みんなは先日行った近くの銭湯にまたお邪魔するらしい。



「はーくんは? 来うへんの?」

「ん。ちょっとな」


 一人輪から外れる俺を気にする文香だったが、置いて行かれそうになったので慌てて傍から離れていく。さて、用事を済ませますか。



 横断歩道を渡って反対側へ。コンビニのすぐ脇に細い小道があって、そこを突き進むとすぐ目の前の湾に突き出した、更に小さな神社がある。


 神社というか、お堂に囲まれた弁財天があるだけの簡素な作りで、それ自体は有難みのあるようなものには見えない。

 一方で景観は非常に良かった。隣を走るシーサイドラインと広大な海が映る、青々とした雄大な姿。


 目を凝らすと瑞希と行ったシーワールドも見えた。ただその前に、ある人物の姿がどうしても写り込んでしまって。変なため息も出る。



「よう時間取れたな。明日試合やろ」

「あのね。まず初めは『こんにちは』とか『久しぶり』とか、そういう定型文から始めるんだよ。感動の再会ってやつは」

「んなもん俺に期待すんな」

「はいはい。元気そうだね、陽翔」


 剃り残しの目立つガサついた顎をクイっと上げてみたが、童顔のせいでちっとも絵にならない。老けたのか変わらないのか、コイツもよく分からんな。


 待っていたのは他でもない財部雄一。実は彼、先月からセレゾン大阪のトップチームにアシスタントコーチとして加わっている。


 リーグの関東アウェー二連戦で近くを訪れていて、時間を作って逢いに来てくれたのだ。流石に明日の試合は観に来れないだろうが。



「ついにアンタもユース卒業か」

「一時的にね。堪え性の無い人たちだ……プレーオフ圏内から落ちたくらいで、首脳陣総入れ替えなんてさ」

「来年はいよいよ監督やな」

「やだなぁ~。そしたら俺も一年しないでクビだろ? 仕事無くなっちゃうよ」


 春先まで二部リーグの首位を走っていたセレゾンだが、段々と調子を落としてしまい今や昇格も危ぶまれている。

 まだ高三の代である内海と大場に頼らないと、まともにオフェンスが機能しない有り様だ。情けない連中め。


 

「ここ、良い場所だね。舞洲から見える景色とよく似ている。お気に入りだったりするの?」

「初めて来た」

「あれ、そうなんだ」

「案外こっちまで来ること無くてな。同じ街でも広いモンや……せやかて、似とったら似とったで来とらんわ。ヤなことばっか思い出す」

「ははっ。それもそうだね」


 よく言うよ。わざわざここを指定して来たのはどこの誰だってんだ。お前が来たかっただけだろ絶対に。



「……で? なんの用だよ」

「顔が見たかったら、じゃ駄目かな」

「女子か」

「へぇ~、心当たりあるんだ?」

「茶化すなよ。暇ちゃうやろアンタも」

「それはその通り……無理言って抜け出して来たからね。手短に済ませるよ」


 雨上がりの冷たい風に前髪を靡かせ、水平線の彼方をぼんやりと眺めている。


 いつの日か一緒に、スタンドから夜空を見上げたことを思い出した。あの時と、いや、出逢った頃から変わらない、純真さの塊みたいな目だ。



「……まぁ、お節介なんだろうけどね。ロクに連絡寄越さないんだから、どうしても心配になるんだよ。君が大阪からで旅立って、ちょうど半年が経って……単純なことばかりじゃなかっただろう?」

「せやな。色々あったわ。ホンマ色々」

「でも無駄じゃなかっただろう。なに一つ。酸いも甘いも嚙み分けて、すべて良い方向へと転がった……目を見れば分かるよ」


 修学旅行の前、一度だけ相談したことをよく覚えている。あれからまったく話をしていなかったから、ずっと気になっていたのだろう。


 たかが結果報告さえ怠ってしまうほど、この半年は激動の日々だった。片手で収まっていたものがドンドン増えて、両手で抱えるようになって。


 辛い思い出やネガティブな気持ちなんて、走るうちに落としてしまったのだ。



「なにも心配いらなかったね。安心した。半年前より、もっともっと笑顔が柔らかくなったよ。モテ過ぎて大変でしょ」

「ちょっとだけな。でも楽しいぜ」

「面白いよなぁ~。あの意固地な陽翔がたった一年と少しで、こんなこと言うようになるんだから。この街にも感謝しないとね」


 隣に立ち海の向こうを眺めてみる。思えばここにやって来て一年と少し、こうして街並みをゆっくりと見渡すこともあまり無かった。


 大都市大阪、それも中心地の堺と比べれば狭くて物の少ない退屈な場所だ。

 だがそれが良かったのだろう。足りないところは自分の意志と、みんなから貰った溢れんばかりの愛で埋まっている。



「一つだけアドバイス……良いかい陽翔、キミはもう大阪・堺の天才レフティーじゃない。この街の代表になるんだ。キミが一年半関わってきた、すべての人々の代表、誇りにね」

「全国行ったらの話やろ?」

「大枠で言えば。でもそれだけじゃない。今の陽翔なら分かるだろう……キミが背負っているのは自分自身やチームメイトのみならず、山嵜という名前と、この街で培った信頼や、受け取った期待。それらすべてだ」

「最近よく考えるよ。そういうこと」

「勿論、セレゾンでも世代別代表でも、それは一緒だった。でも当時は気付けていなかったよね……だから、気付いたということ自体がキミの成長であり、この街で刻んだ歩みそのものなんだよ。忘れないでくれ」

「……ああ。分かってる」


 これ以上の施しも必要無いと、財部は口にせずとも語るようだった。暫し言葉を噤み、俺たちは海原を見つめる。


 シルヴィアも言っていた。この街から、沢山の人から貰った期待や信頼、そして愛情は、確かにプレッシャーでもあるけれど……でも、それさえも心地いい。震えるほど嬉しい。


 自分じゃない誰かのために、何かのために頑張りたいと、心の底から思う。与えてくれた以上のモノを返したい。みんなに喜んで貰いたい。



 そして同じくらい胸のうちに込み上げ、やがて左脚へと纏わる、燃え上がるような熱い情動。すべてを解き放つ瞬間を、今か今かと待ち侘びている。


 この日を。この瞬間を待っていた。過去の焼き直しでも、空いていた穴を埋め直したのでもない。なにもかも、新しく作り上げたんだ。


 嗚呼、良かった。この街に来れて。

 みんなに、フットサルに出逢えて良かった。



「んっ……電話?」


 スマホが震えている。変なカバーケースだね、と冷やかす財部の声はほとんど届いておらず、差出人に驚くばかりだった。



「……もしもし。どした」

『久しぶり。明日から大会なんだって?』


 やはり冬の帰郷からロクに連絡を取っていない母からのものだった。なんとまぁタイミングの良い。まさか財部と結託したとか? んなわけないか。



『世良さんちに教えて貰ってね……流石にそっちまでは行けないけど、全国の会場は名古屋なんでしょう?』

「おう。観に来いよ、親父も連れて」

『……決勝戦の日なら、なんとか空けられそうだから。頑張って、そこまで勝ち進んでちょうだい』

「ハッ。そんな無茶苦茶な応援があるかよ…………はいはい、まぁ頑張るわ」


 余計な一言二言を交わして通話を切る。隣の財部は終始ニヤニヤ笑っていた。

 やめろ、良い歳した大人が。そんなんだから相手が見つからないんだ。峯岸でも紹介してやるからさっさと落ち着け。



「俺も決勝まで観に行かないから。関東予選、流石に厳しいだろうけどさ。でも、負けないよな?」

「馬鹿言ってんじゃねえ。こちとら最初から全国制覇目指してやってんだよ」

「ははっ。そうだね、その意気だ…………陽翔なら、キミたちなら出来るよ。絶対に。頑張れ」

「とっくに頑張っとるわ、アホ」


 重ね合わせた拳が鈍い音を立てて、揺らめく波の間に消えて行った。



 いよいよ明日、始まる。

 俺たちの、最初で最後の夏が。


 不思議と寂しさは微塵も無い。これから一か月半、どんなに楽しい日々が待っているか、今から待ち切れないくらいだ。


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