922. ゆっくりでも、不格好でも


 雲は散り散りとなり、少しずつ日が射し始めた。梅雨に紛れる晴天と動きの早い空は、粗末に扱えばどこかへ行ってしまいそうだ。

 しかし、不思議と焦りはない。午後のひと時ですべてが丸く収まり事足りる未来を、なんとなく予想していた。



「練習行かないとねっ。みんな待ってるかも」

「いや、サボろう。走り込みって気分ちゃうわ」


 落ち着きを取り戻した比奈は学校へ戻ろうと提案するが、敢えて退けた。真っ赤に腫れた目を何度も擦る隣の彼女に、もう少し時間を与えたい。


 責任感の強い琴音だ。このまま練習に向かわせたら、一週間の遅れを取り戻そうと無理をしてオーバーワークになってしまうかもしれない。


 心にポッカリと空いた穴を埋める方法は、何も一つではないと思う。あとちょっとだけ、妄想に浸らせても罰は当たらない。そんな気分だった。



「あのっ……どうして手を握る必要が?」

「うん? デートやし、だって。ダブルデート」

「恐らく意味が違うかと……」


 琴音を真ん中に右がオレ、左が比奈。手を繋いで歩道を進む。取りあえずスクールバスの停留所を目指してはいるが、別に目的地というわけでもない。


 二人とは家で過ごす時間が割合としては多くて、外を出歩く機会が無いなと、ふと思ったのだ。比奈も箱根には来れなかったしな。


 この程度でデートを気取られても、と俺が女なら思うかもしれないが、有難いことにそうでもなさそうだった。比奈は歌うように呟く。



「あ。あのときと一緒」

「どのとき?」

「ほらっ、琴音ちゃんが家出したとき。こうやって三人で手を繋いで、わたしの家に行ったの。懐かしいなあ……んふふっ。まだ陽翔くんが綺麗だった頃だね」

「どういう意味やそれ」

「どういう意味でしょー?」


 すっかりいつもの調子で冗談を弾ませる。汚れたのはどっちだって話。まぁ、汚し合ったみたいなものか。


 あの日も泣いていたな。お母さんと喧嘩して、裸足のまま家を飛び出して、俺たちの到着をひたすら待っていたんだ。

 俺と比奈が夫婦で、琴音が娘みたいだなって、そんなことを思っていた。確かにあの瞬間、彼女は間違いなく子どもだった。


 さあ、今はどうだろう。


 見える景色も、歩いている道も似たようなもの。泣いているのも当時と一緒だ。でも、あのときの琴音とは違うことが、一つある。


 殻に籠って不幸を不幸と嘆き、自分のためだけに泣いていた彼女。それがたった一年後。誰かのことを想って、泣けるようになった。


 苦しみや悲しみは、決して同じ色ではない。

 それこそ彼女の成長だと、強く思うのだ。



「陽翔さん、あの……っ」

「ん? どした?」

「…………人に、見られてます」


 ちょっと恥ずかしそうに肩を寄せる。確かに街行く人々は、俺たち三人の姿を不思議そうな目で眺めていた。まぁ幼稚園児ならまだしも、高校生の男女が仲良く手を繋いでいたら変に思うのも無理は無いか。



「ホンマや。よう気付いたな」

「あ、当たり前ですっ。ちゃんと周りを見れば気付かない筈が……」

「そうかなあ。今までなら気付かなかったかもしれないよ? だって琴音ちゃん、自分の好きなもの、気になるもの以外は目に入らない子だったもの」

「…………へっ?」

「視野が広くなったんだねえ」


 感心するように比奈は頷く。猫背の彼女は対照的に、ポカンとした顔で二人を見上げていた。

 流石は楠美琴音のプロ、倉畑比奈だ。もう俺の本懐に気付いたというのか。まったく恐ろしい観察眼と考察力である。



「これもお洒落を頑張った成果だね。人からどう見られているかって、今まで気にしたことも無かったでしょ? わたしや陽翔くんだけじゃなくて、色んなところに目が向いて、関心を持てるようになった……すごい成長だと思うな」


 ドストレートな誉め言葉を喰らい、また顔が赤くなった。同時に歩幅が少し小さくなるのだが、比奈と息を合わせて強引に前へ押し出す。


 そうだ。一つ失敗してしまったからと言って、すべて忘れたり無かったことにするのは勿体ない。事実、琴音はちゃんと成長している。


 自分で言うくらいだ。負けず嫌いでプライドだけは無駄に高いと。だったらもっと、もっともっと口に、態度に出して肯定しないといけない。そういう意味でこの一週間、俺は琴音の頑張りを少し雑に扱っていたのかも。


 それは決して義務感などではない。

 俺も比奈も、顔を見合わせ微笑む。

 これこそが唯一の答え。


 彼女の小さな一歩を、成長を見守るのが楽しい。琴音が前を向くたび、俺たちは励まされる。勇気が出る。温かい気持ちで満たされる。


 いつの日か抱いたこの感情は、過剰な独占欲や保護者気取りのソレではない。意固地で恥ずかしがりな彼女の背中を、ほんのちょっと押してあげたいという、優しさそのもの。溢れんばかりの愛情なのだ。



「わっ、見て見て二人とも! 可愛い~!」


 比奈が指差した先に、小さな子どもたちが沢山いた。保育士さんと思わしき女性が、車輪付きのカートを押して歩いていて、そこに乗っている。



「なんやあれ。ドナドナ?」

「あはははっ。確かにそれっぽいかも。まだ歩けなかったり、勝手にどこかへ行っちゃう子は、ああやって一緒にお散歩するんだよ」

「ほーん……現代の子連れ狼ってわけか」


 お散歩というより輸送だろうあれは。なんというか、無力感が凄い。ただでさえなにも出来ない子どもなのに、より無力さに拍車が掛かっている。


 複数の保育士さんに釣られ、みんな丁寧に手を挙げて横断歩道を渡っている。渡るというか渡らされているのだが。うん、ちょっと可愛い。


 ちょうど駅の方へ向かうので、後ろから追い掛ける形になる。子ども好きの比奈は終始うっとりしているが、それより気になるのが真ん中の彼女。



「琴音?」

「ふぇ……あ、はい。なんですか?」

「気になるのか?」

「…………まぁ、多少は」

「そっか。悪いな歩かせて。今度ノノにクソでっかいやつ用意して貰うわ」

「ちっ、ちがいますっ……! そっちじゃありません……もう、怒りますよっ」


 ようやく冗談を受け流せるくらいには回復してきたようだ。一安心。心なしか表情を緩んでいるように見える。


 にしても、そっちじゃないって?



「もしかして、保育士さん見てた? ダメだよぉ陽翔くん、こんなに可愛い彼女が二人もいるのに、他の女に見惚れるなんて」

「見てねえよ。俺は。言うとしたら琴音に言え。あとハイライト点けろ」

「はーい」

「自力でオンオフ出来るのすげえな」


 比奈がチョケている間にも、琴音は保育士さんの後ろ姿をボーっとした目で眺めていた。何がそんなに気になるのだろうか。



「……まだ、お若いんですね」

「ん。あぁ、せやな。二十代前半とかやろ」

「となると、あの方々にはまだお子さんは……」

「おらへんのとちゃう?」

「…………なる、ほど」


 何度か小さく頷き、一人で勝手に納得している。

 だから、そういうのは全部教えろって。



「憧れる? ああいうの」

「……そう、ですね。仕事とはいえ、他人の子どもを預かるのは……凄い勇気と、責任感だと思います。私には……」

「そうかなあ? ちゃんと勉強すれば大丈夫じゃない? だって琴音ちゃん、勇気も責任感も人一倍だもの。むしろ向いてるかも」


 比奈はこのように話す。琴音が保育士さん……確かにイメージは沸きにくいな。蔵王で迷子の女の子を匿ったときも大苦戦していたし。


 ああでも、文化祭のときは結構上手く扱っていたな。何かと機会が多いのも、元々子ども好きな一面が引き寄せているってことなのかも。


 大勢の子どもに囲まれてんやわんやになりながらも、温かい目で見守る琴音……エプロンを着ておままごとをしてあげたり、ピアノを弾いている琴音……うん、良いな。見てみたい。世界一可愛くて頼もしい保育士さんだ。



「あの。陽翔さん」

「ん? どした?」

「本当に、欲しいですか?」

「子ども? そりゃ勿論。あぁ、すっかり忘れとったわ。今からでも具体的な話をしておかないとな」

「皆さんとも……ですよね?」

「えっ…………う、うん。まぁな」


 この関係が今後も続いていくのなら、いつかは直面する問題。問題と言うか、遠からず迎える運命みたいなものだ。琴音だけではない。愛莉に至っては今すぐにでも欲しいらしいし。


 修学旅行で『まさか全員が……』みたいなことを考えていたが、いよいよ現実的な話になってしまった。隣でニコニコ笑っているコイツもそう。



「そうなんだよねえ。わたしは二人は欲しいし、みんなも同じくらいかな? んふふっ。大家族になっちゃうねえ~」

「……いつ頃とか、そういうのは?」

「んー。大学卒業して二年……三年かな? 仕事にもよるけど、それくらいなら収入も安定して来るだろうし、時間も取れると思う。でも、人数が多いと大変だよね。ちょっとした幼稚園みたいになっちゃうかも」


 競争や早い者順ではないが、一人が望んだりデキたりしたら連鎖的に起こるのはなんとなく予想出来る。

 そしてみんな、それぞれやりたい仕事や将来の夢もちゃんとあるわけで……子育てだけに集中するのは難しそうだ。



「比奈。提案が、あります」

「んー? なあに?」

「比奈と皆さんの子どもを、私が面倒を見るというのは……どうでしょう?」

「……琴音ちゃんが?」


 子どもたちを乗せたカゴが角を曲がり姿が見えなくなったところで、比奈の目を見つめ語り掛ける。驚く比奈を尻目に、琴音はこう続けた。



「一人を育てるのなら、母親だけでも十分かもしれません。しかし大勢となれば、ある程度は専門的な知識を持った人間が必要です」

「じゃあ、琴音ちゃん……っ?」

「……保育士を、目指してみようと思います」


 心臓が大きく弾む。この数十分の間に、彼女はまた一つ大きく、逞しく成長し、その姿を見せてくれた。

 それだけではない。楠美琴音の人生における、大きなターニングポイントに立ち会えた喜びで、胸が詰まりそうになったのだ。



「……覚悟が足りなかったんです。ただ望むだけではまったく足りないと、今日一日で強く実感しました。だから、ちゃんと勉強します。すべてを受け入れるために、自信を付けたいんです」


  繋いでいた手を離し、琴音は一歩先へ進み振り返った。先ほどまでの泣き顔が嘘みたいに、晴れやかで真っ直ぐな瞳だ。



「勇気は、貴方と、比奈。そしてみんなから貰いました。だから今度は、みんながいつか、その瞬間を迎えたとき……勇気を持てるように。頼ってくれるように。そんな人間になりたいんです」

「…………琴音ちゃん……っ!」

「準備は早々に済ませた方が良いでしょう。四年制ではなく、専門の短大へ行きます。これから詳しく調べないといけませんね。両親も説得しなければ」

「……なら、俺も一緒に説明しに行くよ」

「是非お願いします。あれほど高度な教育を受けさせた娘が、それとまったく関係の無い保育士を目指すのですから。嫌味や怪我の一つは覚悟してください」


 本気なのか、大丈夫かと心配する要素は一つも無い。目を見れば分かるし、そんな次元はとっくに通り越したのだろう。


 これが楠美琴音の覚悟で、生きる道であると。すべてはその美しい、穏やかな笑みが証明している。他になにもいらない。


 これのどこが子どもだ。

 あっという間に大人びやがって。


 強くて逞しい、俺の大好きで、憧れている女性がそこにいた。これからの人生を共に歩んでいく、最高に頼もしい、可愛い彼女が。



「少し良い思いをしてしまったので、暫くお預けです。大会も目の前ですから。分かりましたね、陽翔さんっ」

「……それはそれで、ちょっと口惜しいな」

「駄目です。せめて夏休みまで我慢してください」

「分かったよ。なんとかな」

「…………一部分に過ぎません。溺れるのは、ほんの偶にで良いです。まだまだ慣れるまで時間が掛かりそうですから。それよりも……」


 そう言い掛けて、少しだけ周囲の目を確認して、結局無視してしまった。感涙に震える比奈の頭を優しく撫でると、今度はこちらへ。


 つま先を伸ばし、長い黒髪を抑える。ささやかな口づけは、今までのどんなキスよりも深く、長く感じた。



「……こんな時間を、もっともっと、沢山作りましょう。どれだけゆっくりでも、不格好でも、貴方と一緒に歩けるのなら…………私は、幸せです」



 こうして俺たちは、史上最大の難問を一つ、解き明かしてみせた。決して変わらない、愛情という名の法則と方程式を持って、すべてを証明したのだ。


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