921. 最強の方程式
話を纏めると、事の顛末はこうだ。
慧ちゃんを送り我が家へ立ち寄った先週。愛莉の書いた未提出の進路調査票を読んで、衝撃を受けた琴音は……場の流れで比奈と文香に相談して。
最後の一押しはやはりその手しか無いと、例のマッサージ擬きを思いつき実行に移した。ここまでは別に問題無い。お互い望んだことなのだから。
「じゃあ、陽翔くんが寝ている間にお薬を飲んで……飲まなかったらどうなるんだろうって、一瞬考えちゃったんだね」
優しく頭を撫でる比奈。
琴音は深々と首を垂れた。
ふと愛莉の進路調査票の件を思い出して、それを機に沸々と願望が強まっていったらしい。そしてその日の夜、バスルームで俺に告白した。
この一週間で、琴音は自信を身に付けた。見ていて欲しい、近くにいて欲しいという素直な気持ちを、今まで自覚していなかった『外見』という強みを得たことで、素直に打ち明けられるようになった。
だが、振り出しに戻ってしまう決定的出来事があった。そう、愛莉の一件。
当然と言えば当然の考えだ。目に見えない愛情や信頼より、子どもという分かり易い縛りを生み出した方が、ずっと楽なのだから。
最後の最後で琴音は『自分』に負けてしまった。目先の誘惑に惑わされ、今まで積み上げて来たものを見失ったのだろう。
どれだけ賢く聡明な彼女でも、元は一人の人間、女性に過ぎない。あの楠美琴音ですら、子どもという魔力には抗えない。
肝心なことを忘れていたのだ。
琴音は弱くない。でも、強くもない。
皆に支えられて、やっとここまで辿り着いた。なのにいきなりほったらかして、無理難題を押し付けて……暗中模索の道を一人で歩かせてしまった。
「琴音ちゃん、頑張り過ぎたんだよ。きっと。想いが溢れ出て、コントロール出来なくなったから……」
医師が話した通り、薬の効果は絶大だ。可能性は低いと勿論理解はしていたが……段々『もうデキているに違いない』と思い込むようになった。
苦手な野菜や梅干しを食べていたのは、彼女なりに『妊娠したらこうなるのだろう』と考え、わざと俺やみんなの前で口にしたのだという。
「愛莉とも話し合った方がええな……色々と」
「かもねっ……」
元を辿れば愛莉の内なる欲求の爆発が原因と呼べなくもない。が、流石にアイツを責めるのは違うだろう。まぁこれは後日別件として。
保健室でのやり取りも、もうデキているという確信があったからあれだけ落ち着いていられたのだ。体調不良も分かり易い答え合わせとして捉えたのだろう。
その頃には子どものことで頭がいっぱい。大会が近付いていることも強い願望と思い込みで掻き消される、まさに盲目と呼ぶに相応しい精神状態だった。
「そっかそっか……噓を吐いたんじゃなくて、いつの間にか信じちゃってた、ってことだね。だからさっき……」
あれだけ穏やかな様子だったのに、検査薬で陰性の結果が出た辺りから、琴音は一気に気落ちしていた。
この時点でようやく気付いたのだ。妊娠の可能性が限りなくゼロに近いこと。一人だけ皆との足並みが乱れていることに。
たった一度の思い込みと軽はずみな興味本位で、すべて裏切ってしまったように感じたのだろう。自責の念に駆られるのも無理はない。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!!」
涙ながらに心中を打ち明ける琴音は、うわ言のように何度も呟いた。あの日、二人の間で取り決めた『NGワード』だ。
目先の誘惑に流れた自身の不甲斐なさ。皆と繋いで来た信頼を裏切ってしまったこと。信じていた子どもが想像上に過ぎなかったという失望。そして医師から告げられた『長続きしない』という厳しい言葉……。
あらゆる感情が津波のように押し寄せる。
繊細な彼女の心には、到底耐えられない現実だった。
「……ええか琴音、お前はなんも悪くない。誰も悪者やないねん。強いて言えば、俺が口下手なのがいけなかった」
「……でも、でもっ……!!」
「可愛い可愛いって、そればっかりよな。いっつも。だから勘違いしたんだ。外面を磨けばもっと上手く回るって…………でも、そうやない」
俺に対する想いと自立したいという気持ちは、別枠で考えなければならなかった。いや、誰も分かってはいたけれど、現実は上手くいかなかった。
「わたしもいけなかったの。だって琴音ちゃん、誰かを好きになったのも初めてで、何もかも未知の世界なのに……保護者気取りで自分の考えを押し付けて、型に嵌めようとして……わたし、なにも分かってなかった……ッ」
「比奈……っ」
「こんなの親友でもなんでもない。お人形扱いして、勝手に満足しているだけ。今まで琴音ちゃんを苦しめて来たものと、何も変わらないのに……っ!」
「そんな……違うます、比奈は……っ!」
「ごめんね、ごめんねっ……!!」
今度は比奈が泣き崩れてしまう。結果論とは言え、安易に立てた作戦が琴音を苦しめてしまったことに我慢ならないのだろう。
比奈のせいではない。初動を少し間違えてしまっただけだ。誰も悪くない。
俺も比奈も、琴音も、みんなちょっとずつ読み違えた。それだけのこと……。
「……よし。一旦整理しよか。まず琴音。身体は問題無いんやし、勿論大会には出よう。というか、お前がおらんと話にならん。ええな?」
「でも、私は……っ」
「資格が無いって? んなわけねえ。もしみんなを裏切ったと感じているのなら、謝罪の気持ちはコートのなかで示してくれよ。それが琴音にとって、本当に必要な『納得』『成長』やって、俺は思う」
「…………陽翔、さん……っ」
押し寄せる負の感情は、そう簡単には清算出来ないだろう。なら、一度受け入れてしまえば良い。認めてしまおう。
なにもかも綺麗サッパリ無くなって、更地になったところから、新しく築いていけば良い。もう一度立ち上がれるように。今度は一人じゃなくて、皆と手を取り合いながら……。
「俺もハッキリ言うよ。琴音……大会が終わってからか、或いは卒業してからか、まだ分からないけど……でもなるべく早く、近いうちに作ろう。二人の子ども」
「ふぇっ……!?」
「俺もさ、悔しかったんだ。だって琴音が、俺との子どもをこんなに望んでくれるんだぜ? 嬉しいに決まってるのに……素直に喜べない自分が、本当に情けなくて、不甲斐なくて……」
息を詰まらせ驚く琴音。比奈も似たようなリアクションだが、狼狽えはしない。素直に打ち明けるのが大切。この数か月で痛いほど学んだ。
「だからさ、一緒に考えよう。これを教訓にして、もう不安になったり困惑したり、悲しんだりしないように」
「……陽翔さん」
「秘密も内緒話も無しや。二人の大切な子どもを、絶対に傷付けないために……どうやって生きていくのか、どんな仕事をするのか。全部教えてくれ」
子どもは授かりもの。
必ずしもベストなタイミングとは限らない。
いつかその時がやって来て、また今回のように右往左往して、彼女を悲しませたりするのは絶対に嫌だ。心から祝福し、共に分かち合いたい。
「……凄いね。陽翔くん。どんどん成長していくんだから、追い付けないよ」
「馬鹿言え、今更気付くような最低野郎だよ…………大会が近付いて、まずはそこからやって俺も思ってたけど。でも違う。色んなものが同時並行で進んでいる。いつかはそうなりたい、やなくて、具体的なプランを考えないと」
涙を拭いて比奈も嬉しそうに微笑む。釣られて俺も笑った。きっと、漠然としていた未来図が少しだけ見えて来て、安心したんだ。
成長、なんて大したものじゃない。本気で彼女たちと、同じ世界を見据え生きていく覚悟があるのなら。
立ち止まっている場合じゃない。一刻でも早く動き出さないとって、それだけなんだ。俺なりの、俺だけの責任を果たさないと。
「それから比奈。保護者気取りとか、そういうこと言うのも辞めにしろ。唯一無二の大好きな親友でも、分からないことはあるやろ? 人格も考え方も違うのに、なんでも理解出来るわけねえよ」
「……そう、だね。そうかも」
「喧嘩の一つもしない親友なんて、むしろ不健全やろ。なっ。ほら、仲直りしようぜ。こんなん喧嘩でもなんでもねえけどな。でも一応」
二人を立ち上がらせ向き合って貰う。涙の跡を消すには時間が掛かりそうだが、それでも幾ばくかスッキリした顔をしていた。
「……ごめんなさい。比奈。一番近くでプレーして欲しいと、そう言ったのに……裏切るような真似をしてしまいました」
「ううん。裏切ったんじゃない、少し迷っちゃっただけだからって、ちゃんと分かったから。わたしこそごめんね。琴音ちゃんを舐めてた」
「構いません。元より頼りないのは重々承知です……だから、これからも頼らせてください。貴方と彼と、皆さんがいないと……」
「じゃあ、もっと頼って貰えるように、頑張るね。琴音ちゃんのこと、もっともっと理解したいから……」
「……ありがとうございます。比奈」
「ありがとう、琴音ちゃんっ」
互いに惹かれるように、二人は肩を寄せ強く抱き合った。一先ず、二人については一件落着ということで。
しかし、これで終わりではない。
医師から貰った最後の宿題が残っていた。
目に見える保証なんか無くたって。
お前を心から愛していると、伝えてみせる。
それは優しい言葉でも、ましてや魔法でもない。知恵とロジックに基づいた、俺と琴音だけが証明出来る、最強の方程式がある。
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