918. デリケートなお話


 手洗いからはすぐに帰って来た琴音だが、少し戻してしまったようでこの後の練習は大事を見て休みを取ることになった。確かに顔色が悪く、いつもの仏頂面とは微妙に雰囲気が違うようにも見える。


 流石にこの日は大人しく自宅へ帰って行った。連日のが祟ったのだろうと、あまり深くは考えていなかった自分を激しく責めることになるのは、それから二日が経った金曜昼休みのことである。



「えっ、早退した?」

「すっごく辛そうだったから、保健室まで連れて行ってあげたの。まだ学校にはいるんじゃないかな……様子見に行く?」


 同じ授業だった比奈曰く、朝の段階から顔面蒼白で席に座っているだけでもやっとの状態だったという。

 三限までは受けていたようだが、流石に無理があると強引に保健室へ連れ出したらしい。先ほど測ったときは微熱もあったようだ。


 元々体力がすっからかんの上に偏食家の琴音。むしろ出逢ってから今日まで風邪一つ引かなかったこと自体奇跡のような身の上だが、珍しい事案であることに変わりは無い。


 揃って保健室へ向かう。校医はおらず、白いカーテンの奥で琴音は横になっていた。眠ってはいなかったみたいだ。



「大丈夫か?」

「陽翔さん……すみません、ご心配お掛けしました。今は平気です。横になってだいぶ楽になったので……」

「まだゆっくり寝てろ。今日の練習も休め。今は無理する時期やないからな」

「そういうわけにはっ……」


 身体を起こそうとするが、眩暈でもしたのかふらふらと脱力しベッドへ逆戻り。なにが楽になっただ、まぁまぁ重症じゃないか。


 だいぶ汗を掻いていたので、比奈が冷やしたタオルを用意してくれた。身体を拭く間、俺はカーテンの外で待機させられる。中で繰り広げられる会話が少し気になった。



「あれ? 琴音ちゃん、ちょっと太った?」

「……かも、です」

「変だねえ。毎晩あんなに運動しているのに」

「や、やめてくださいっ……というか、どうしてそんなこと知って」

「だってノノちゃんの部屋にいるんだもーん。全部聞こえてるよ~?」

「うぇぇっ……」

「おっぱいも張ってるねえ。食べ過ぎかな。昨日一昨日はなに食べたの?」

「……あんまりです。野菜を少し……食べるとすぐに戻してしまって……」


 見た目にそぐわず食欲は人一倍。練習後の打ち上げでは誰よりも食べる彼女が、あれだけの猛練習のあとにほとんど食べていない? しかも戻してしまう?


 カーテン越しに手渡し体温を測り始める。やっぱり微熱があるみたいだ。比奈の悩ましい声が聞こえて来る。



「風邪……なのかなあ? んー、流石にじゃないだろうけど……うーん、でも……」

「アレ?」

「……ごめん陽翔くん、ちょっとお耳塞いでてね。デリケートなお話だから」

「んっ……ほな外で待っとるわ」


 一度退散し保健室の扉を閉める。

 心配だ、変な病気でなければ良いが……。


 十分ほど経つと比奈がドアを開けてくれた。そのまま入るつもりだったが、彼女は外へ出て廊下に誰もいないか周囲を見渡し始める。



「陽翔くん。思い出せる限りで良いから教えて欲しいんだけど」

「お、おう。どした?」

「週末、琴音ちゃんとずっと一緒だったよね? お薬飲んでるところ、見た?」


 いつになく真剣な様子。 お薬、というと比奈をはじめ三年とノノが飲んでいる例の代物だ。中学時代から御用達だった愛莉がみんなに広めて、春休みを機にみんなが使うようになった。


 周期をある程度コントロール出来るので、多くの女性アスリートが愛用していると話には聞く。避妊効果も非常に優れており数値は100パーセント近いとか。


 そのせいもあって……という言い方はとんでもないが、みんなも託けて対策を取りたがらない傾向はある。『念には念を』と言い出すのはむしろ俺の方だ。まぁ、ほとんどの場合流されてしまうわけだが……。



「……すまん、覚えてない。アレって確か、毎日決まった時間に飲まないといけないんだよな?」

「そう。一回でも逃すと効果が無くなっちゃうの。一応『飲んだ』って言ってはいるけど……っ」


 憂わしげに肩を落とす比奈。何か思い当たる節があるようだ。でも、当人が覚えているのなら問題は無いんじゃ?



「先週ね、少し煽っちゃったんだ」

「せやな。散々怒られたの忘れたか?」

「勿論覚えてるけど……わたし、ちょっと舐めてたかもしれない。琴音ちゃん、本気で陽翔くんの赤ちゃん、欲しがってるのかも」

「…………なんやって?」

「本当は飲んでないのかもしれない。だって今の琴音ちゃん、妊娠の初期症状そのものだよ……っ?」


 震える声色で、比奈は呟いた。

 落雷のような衝撃が脳裏を伝う。



「ちっ……ちょっと待て、まさか、わざと薬を飲まなかったとか……そう言いたいのか!?」

「わたしだって信じてるよ! でも、あり得ない話だと切り捨てるのはもっと怖いの! 陽翔くんもあるでしょ? 心当たり……」

「…………あ、ある」


 あり過ぎる。あまりにも。


 もし琴音が本当に子どもを望んでいて、敢えて薬を飲まなかったとしたら。週末に起きた出来事は、決定打以外の何物でもない。


 あの晩、彼女はハッキリと口にしたのだ。

 今すぐではないが、いつかは欲しいと。


 その場の勢いではなく予め周到に用意された、或いは偶発的なものだったとしても。

 何かの拍子に判断を間違え、実行に移してしまった可能性は否定出来ない。


 それこそ『100パーセント』と言い切って良いくらい、彼女に注いでしまった。愛情だけではない、それはもう沢山のものを……。



「……ちゃんと調べないとだね。その前に、話を聞いてあげて。どこまで本気なのか、何か思うところがあったのか、それとも単純なミスだったのか」

「…………分かった」

「想像妊娠って可能性もあるとは思う。琴音ちゃん、思い込みの強い子だから……どちらにしても、陽翔くんから話してあげてね」


 まずは二人きりで話し合った方が良いと、比奈は席を外すことになった。この後は授業が無いから、ドラッグストアに寄って検査薬を買って来てくれるそうだ。


 再び保健室へ踏み入りカーテンを開ける。

 天井を見つめ、物思いに耽る彼女がいた。



「……陽翔、さん」

「元気か?」

「…………ちょっとだけ、良くなりました」


 目を合わせるや否や、ダラッとえくぼを垂らし微笑む。心底安心したと口にせずとも訴えるようだ。


 ベッドに腰掛け肩を寄せ合う。手持ち無沙汰の左腕は自然と腹部へと向かった。

 ブランケット越しに優しく撫で降ろすと、少しくすぐったそうに鼻を鳴らす。



「……薬、飲んだんだよな?」

「やっぱりその話をしていたんですね…………いつも比奈や愛莉さんに口酸っぱく言われていますから。約束は守ります」

「でも、琴音」

「…………困りました、ね」


 口ではそう言うが、怖がっているような素振りは無い。やはりそうだ。あの晩に話した願望は勢い任せのソレではない本心。


 生真面目で誰よりも正直者な琴音だ、わざと飲み忘れて可能性を引き出すような真似が出来るわけ無い。彼女にしてもこれは想定外の筈。


 それでも、この表情を見るに……。


 

「やっと分かった気がします。どうして市川さんや他の皆さんを見て、変に焦ったり動揺していたのか……」

「……どんな理由?」

「きっと、繋がりが欲しかったんです」


 ……繋がり?


「目に見えないものではなくて……貴方が、私から離れず傍に居てくれる、分かり易い保証が……ずっと欲しかったんだと思います。おかしな話ですね。言葉さえ必要無いと言った、一年前の私が聞いて呆れます」

「…………こ、琴音……」


 すべてを受け入れた慈悲の塊のような、美しい瞳だった。もはや話し合う余地は残されていないとさえ思った。その決心はあまりにも固い……。



「嬉しい、ですか?」

「…………嬉しいよ。とっても」


 心からの言葉とは到底言えない代物にも、琴音は穏やかに微笑むだけだった。


 同時に自分自身へ腹が立った。何よりも祝福すべき瞬間に、心底怯えている自分があまりにも、あまりにも情けなくて。



「……楽しみ、ですねっ」



 でも、違う。違うって。

 なあ琴音。本当にそれで良いのか……?


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