917. 壊れちゃった~


 翌週はまた雨が降った。大会開幕まで二週間と少し、登録メンバーの決定まで一週間。砂浜トレーニングの負荷を考慮し、ミニゲーム中心の軽いメニューによる調整が続いている。


 三限が終わりそれから授業が無かったので、早めの昼飯を取ろうと談話スペースへ向かう。物理をサボった瑞希も一緒に着いて来た。



「くすみん探してる?」

「……今は四限やしな。流石にいねえか」


 渡り廊下に彼女の姿は無い。見つかったら大変だあ、とヘラヘラ笑いながら飲み物を買う瑞希を後ろから眺め、ついため息。

 ワイシャツに染みる雨水と乾いた汗は、週末のひと時と彼女の体温を思い起こさせるようで、酷く参った。



「昨日も泊まったんだっけ?」

「五連泊」

「あーあ。くすみん壊れちゃった~」

「他人事のように……」

「だってひとごとだし~」


 スポドリに付着した水滴を振り回し先を行く。こちとら次に顔を合わせた際の対応に心底苦心しているというのに、まったく暢気な。


 そう。琴音がぶっ壊れてしまった。


 両親の帰って来た日曜夕方に一度解散したのだが、日付が変わる頃に自宅へやって来て続きが始まった。以来毎晩欠かさず求められている。


 流石にやり過ぎだと何度も咎めてはいるのだが、一人だと落ち着いて眠れないなどと大袈裟に宣うものだから、俺も最後は流される。雨が降っていて良かった。このペースでは夏までに干乾びる勢いだ。



「え、イヤなの? もしかして」

「だったら毎日付き合ってねえよ……とは言え、もう本番も近いわけで」

「まーそうだけどさー。やっぱ気分ノッてるときにヤんのが一番良いじゃん?」

「お前ら的に今の状況は問題無いと?」

「んー? まー分かってた。絶対くすみんがドハマりする時期来るから、心の準備だけしとこうねって、ひーにゃんが言ってた」

「想定済みだと……?」


 日々のトレーニングに影響が出るどころか、昨日一昨日とハツラツなプレーを見せていた。気にしているのは俺だけみたいだ。


 でも、何かとんでもなく大切なことを忘れているような、どうしてもそんな気がする。恐らく俺も彼女もすっかり頭から消えている。とても重要なことが……。



「あ、いるじゃん! くすみ~んご飯食べよ~!」


 駆け足でソファーへと向かう瑞希。

 一人で何をするでもなく座っている。

 あれ、四限じゃなかったのか……?



「瑞希さん、こんにち…………あ」

「授業どーしたん? サボった?」

「……小松先生が急用で、自習になったんです。出席も取らないとのことでしたので、それならと」

「あ~! ベイビーもうすぐだって言ってたな! え、でも男って子ども産めんの?」

「奥さんに決まっているでしょう……なにを言っているんですか、まったく」


 小松先生は世界史の若い男性教諭。去年結婚して奥さんは妊娠中、それはもう美人な嫁だと生徒にもしょっちゅう惚気ている。いよいよってわけか。


 で。俺の姿を見つけるやガバッと立ち上がった琴音。瑞希と入れ替わりでこちらへふらふらと歩いて来る。こ、これは昨日一昨日と同じ……。



「おいおい、またか……ッ!?」

「…………ふにゅ」


 胸元にぽすんっと収まると、大きく深呼吸し甘ったるい吐息を溢す。半開きの眼は既にトロットロに蕩けていた。

 またやってる~、と瑞希がフラッシュを焚いてスマホでパシャパシャ撮っているが、恥ずかしがる素振りは一切無い。


 練習中と違う授業で離れているとき以外はずっとこの調子。週明けは愛莉と有希が口酸っぱく注意していたのだが、まったく言うことを聞かないのですぐ諦めてしまった。自分の世界に没頭したまま、会話さえ覚束ないのだ。



「くすみん、チューは良いけどえっちはダメだよ。ちゃんと我慢してな」

「そんなアドバイスは誰も求めていないッ! おいカーテン閉めるな!?」


 何かと琴音に甘いと言われがちな俺だが、なんてことはない。彼女に甘いのは部員全員だ。どうして止めないんだよ。ちょっとは嫉妬してくれって。


 助言を真に受け取り、唇をツンと尖らせキスをせがむ。不味い、心拍数がエグイことになって来た。土日の影響を受けているのは俺の方だ。見慣れた制服姿さえ射幸心を煽るに一興。チラつくネコミミの亡霊。



「……好き、ですっ」


 チェリーピンクの小さな口をほんのり垂らし、琴音は幸せいっぱいに微笑む。


 あんなに恥ずかしがりで口下手だった彼女が、素直に好意を伝えてくれる。嬉しいさ。これ以上無いくらい嬉しい、けど……。



(……まぁ、ええか)


 強く否定出来ない時点で俺も終わっている。そうだ、なにも問題は起こっていない。だったら受け入れるだけで良いんだ。それだけで……。






 結局お昼ご飯はまともに食べられなかった。三年生は四限までなので、先に荷物を纏め八中の体育館へ向かう。その間、ずっと俺の隣を離れなかった琴音についてはもう言及しない。可愛い。以上。



 週明けには大会に出場する『ラージリスト』の提出が控えている。これは問題無い。十三人全員が登録される。


 みんな気を尖らせているのは『スターター・控え合わせて十二人まで』という出場登録メンバーだ。

 怪我など不慮の事態が起こった場合のみラージリストからの入れ替えが認められており、そうでないとベンチから見守るだけになってしまう。


 月頭から始めて来たポジション選定と登録メンバー争いも佳境を迎えている。主力組の上級生はともかく、当落線上の下級生たちは毎日必死だ。



「聖来ちゃん! 走って!」

「行かせませんっ!」


 一部練習最後のミニゲーム。比奈から斜めのパスが通り、聖来が右サイドをドリブルで駆け上がる。対峙するはビブス組の有希。


 みんな敢えて二人から距離を置き、一対一の行く末を見守っている。先に仕掛けたのは有希。懐の深いタックルで奪いに掛かった。



「ひえっ……!?」

「あっ!?」


 が、スピードに乗っていた分の勢いでスルっと入れ替わり、聖来が抜け出した。躓きながらも強引に縦へ突破してみせる。


 クロスはラインを割りカウンター完結とはならなかったが……うん、聖来も有希も良い動きだ。二人とも怖がらずにボールを持ったり、守備のスイッチを入れられるようになっている。


 町田南のような強豪はともかく、中堅から弱小校相手なら十分違いを作れる域に達したな。実に悩ましい……嬉しい悲鳴とはこのことか。



「はい、そこで終わり。十七時まで中休みな。早坂、終わりだっつってんだろ大人しくメシ食え。まだまだ長いんだから……おい、ちょっと待てなんだその毒々しいパッケージの即席麺は。それ食べるのか!?」

「激辛極ファイナルです。今日発売なんですよ!」

「腹壊すぞ……ッ」


 峯岸のホイッスルで試合試合終了。夜の練習に向け一旦休憩を挟む。体力が有り余っている様子の有希は名残惜しそうだが、休息も立派な練習だ。あとペ〇ングはマジでやめといた方が良いと思う。シンプルに栄養に悪い。


 あくまで中休みなので、みんな軽めの食事だ。俺もゼリー飲料だけでササッと済ませる。食べ過ぎると動けなくなっちゃうんだよな……。



「あれえ? 琴音ちゃん、お野菜だけ?」


 比奈を中心に上級生が琴音を囲んでいる。中休みも割としっかり食べる琴音はいつも通りだが、持って来た食事が気になるようだ……野菜スティック?



「め、珍しいですね琴音センパイが野菜って……」

「珍しいもなにも、いっつも野菜だけ綺麗に残してるじゃない。急にどうしたの?」

「……なんとなく、食べたくなりました。美味しくないですけど」


 ノノと愛莉も驚いている。コンビニで売っているタイプの長細いやつだ。三つも買っている。量でカバー出来るようなものとは思えないが。


 野菜を親の仇かなにかと思っている琴音が、ほんの気紛れでも口にするなんて。ついに美味しさに気付いた、わけではなさそう。超不味そうに食ってる。



「うんうん、苦手を克服するのは大事だねえ。ついでに梅干しも食べてみる?」

「それは先にハルじゃね?」

「そうね。ハルトに食べさせましょう」

「イヤだよ死んでも食わねえよ」


 遠目から絶対的ノーを突き付け、以降は会話に混ざらないつもりでいた……のだが、またもそちらからどよめきが。


 

「えっ……本当に食べるのっ!?」

「味覚が変わったんでしょうか……?」

「ハルの飲み過ぎて舌バグったんじゃね」

「ちょっと瑞希、食事中!!」


 比奈の弁当から梅干しを摘まみ、パクリ。かなり辛そうだがしっかり食べて種を吐き出した。信じられない。俺と同じくらい梅干し苦手なのに、いったいどうしてしまったんだ。裏切らないでよ。


 すると琴音。あまりの不味さに気分が悪くなったのか、スクっと立ち上がり早足で体育館から出て行った。苦手とは言え吐きそうになるのもどうなんだ。


 ……大丈夫かな。ちょっと様子見に行くか。今の俺が不用意に近づくべきじゃないかもしれないが……。



「なんか、妊婦さんみたいですね。急に酸っぱいもの食べたくなるって。まったく羨ましいものです」

「洒落にならないですって先輩……でも、野菜を摂りたくなるのも妊娠の兆候らしいですね。詳しくないですケド」

「クスミ先輩赤ちゃんいるんスか!?」

「違うよ。慧、ご飯飛ばさないで」


 騒がしい皆の会話は、俺には届いていない。


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