919. 恋は盲目


 一時間もすると微熱や倦怠感は収まったようだ。校医が戻って来て『元気ならベッドを空けろ』とまぁまぁ強い語気で咎められたので、駅前のドラッグストアにいる比奈と合流する流れとなる。


 当然だが練習には出られない。事実であれば激しい運動など言語道断。

 だが駅へ向かうスクールバスの道中、琴音は一度たりとも部に関する話題を出さなかった。意図的に避けているのか、それとも失念しているのか。


 俺の場合は前者だ。

 そうせざるを得なかった。


 何しろ大半の責任は自身にある。手放しで喜べるようなことではないと彼女を窘めるのは簡単だが、その発言こそ男としてあまりに無責任であると、ついぞ気付かないわけにはいかなかったのだ。

 

 うっとりと目を細めお腹を擦る彼女を隣に、適切な言葉は思い浮かばない。

 ワイシャツは湿気で酷く弛んでいる。表面も根もすべて腐らせてしまう陰鬱な梅雨空が、すべてを物語っているようだった。



「お金は良いから、わたしのこと慰めて。すっごく恥ずかしかったんだよ」

「ありがと比奈。ごめんな」

「貸し一だからねっ」


 傘を差し待っていた比奈は、彼女の手を引いて店内の手洗いへと向かう。

 検査はすぐに出来るようだ。正しい結果を得るため色々と条件はあるようだが、琴音はすべて満たしているから問題ないとのことだった。



(……どうしよう)


 ふらつく足取りで辿り着いたのはベビー用品コーナー。恐ろしい偶然や奇跡もあったものだ。まるで心待ちにしているみたいじゃないか。


 いや、違う。そうじゃない。

 俺だって、本当は嬉しいんだ。


 目に見えない愛情と信頼だけで結ばれている俺たちの関係が、本物の家族足り得るとすれば。彼女の求めるモノやアプローチの方法は、一概に間違っているとも言い切れないのだから。


 一時の気の迷いなどと切り捨てはしない。目に見える繋がりは多ければ多いほど良いのだ。琴音との関係に限った話でもなかった。



 ひたすらにタイミングの問題だった。もしソレが現実のものとなれば、彼女は大会には出られない。卒業だって出来ないかもしれない。


 拭えない疑念と違和感の正体。


 彼女は、本当に受け入れているのだろうか。一年掛けて目指して来た槍舞台と、女性としての幸せを天秤に掛けて、既に結論が付いているのか? あまりにも早急過ぎやしないか?


 お洒落やメイクから始まった彼女なりの『努力』のゴール地点は、本当にで正しいのか? 気付かぬうちに本質を見失い、大き過ぎる主語で一纏めにしているのではないのか?



「…………陽翔、さん」


 無機質な甘ったるい声が脳裏に響いて、考え事はそこで終わった。振り向く先に彼女は立ち尽くしている。顔色が酷く悪い。



「陰性だったよ」


 続いて現れた比奈が、落ち着き払った様子でそう告げる。同時に胸元へと飛び込んで来た琴音……陰性ってことは、つまり。



「妊娠……してないのか?」

「時期が早いと正確な結果が出ないから、まだ保留だけど。可能性は低いってところかな。それに二人とも、金曜まで暫くご無沙汰だったよね」

「……まぁ、せやな」

「昨日今日にしたからって、すぐに出来るものじゃないから。お薬もちゃんと飲んでたんでしょ? だったら、週末のが原因ではないと思うよ」

「そ、そうか……っ」

「でも油断は禁物。近くに大きい病院あるし、今から行こう。産婦人科も入ってた筈だから」


 全身から力が抜けていく。


 思わずよろけてしまいそうになるが、胸元で収まる琴音に体重を預け事なきを得た。少し強過ぎるくらいに抱き締めて頭を撫でてやると、むず痒そうに喉をコロコロと鳴らす。



「……ごめんなさい。陽翔さん」


 薄々と消え入る呟きは言葉にすら足らず、聞き取ることは出来なかった。






 その足ですぐ近隣の大きな病院へ。産婦人科へやって来た制服姿の俺たち、しかも男女三人という歪な構成故、周囲からは奇怪な目で見られている。自業自得とはいえ居心地の悪いこと悪いこと。


 すぐに名前が呼ばれ、琴音は検査のため看護師に連れられて行った。

 席を離れるとき何か俺に言いたそうだったが、結局口は開かずその場を離れていく。


 まばらな待合室。お腹を大きくした女性が大半を占めるなか、慣れない環境に少し緊張してしまい口数は多くない。比奈も暫く黙っていた。



「繋がりが、欲しかったんだってさ」

「……どういうこと?」

「目に見える保証や。最近のアイツを見て、色々と納得した。口下手で頭の固い奴やからな、ここまで行き着くのも自然な流れやった」


 彼女がよく口にする言葉に、こんなものがある。

 目を離すな。ちゃんと見ていて欲しい。


 恥ずかしがりで愛情表現の苦手な彼女にとって、最大限の我が儘でもあり、唯一の対抗手段。


 関心を損なうことを何よりも恐れている証左だ。幼少期、両親から歪んだ教育理念をぶつけられ愛情を欠いて育った琴音。

 外面やペーパー上の自分ではなく、内面を、心を見て欲しい。ある種のトラウマにも似た衝動が、今も彼女の根底を支えている。



「そうだね。もし赤ちゃんが出来たら、陽翔くんはもう琴音ちゃんから離れられない。誰よりも優先しないといけなくなる。琴音ちゃんも幸せ……でも、本当にそれで良いの?」

「分かってる。なあ、ちょっと聞いてくれよ」


 心中を蠢く複雑怪奇な感情を、俺は一つずつ丁寧に打ち明けて行った。比奈は静かに聞いてくれている。



「最近の琴音は……明らかに無理していた。不自然なくらい。ノノの一件がキッカケだとは思うけど……この時期に来て、俺にここまで入れ込む理由が、正直よく分からないんだ」

「大好きだから、じゃダメ?」

「駄目なわけ……むしろ嬉しいくらいやけどさ。でも、琴音らしくないって思うんだよ。素直に伝えられるようになったのは、成長かもしれないけど……だとしても、限度があるというか」

「……恋は盲目、だね」


 唯一無二の親友を孕ませたかもしれない男を前にして、彼女は怒りを見せるどころか動揺すらしていない。穏やかな笑みを覗かせるばかり。


 いや、でも、どうだろう。思えば今日、ちゃんと目を逢わせて話をしていなかった気がする。目頭がほんのり赤く腫れていることに、たったいま気付いた。



「きっとね。自信が付いたんだと思う」

「……自信?」

「今までは守られているだけだったのが……本人が思ってるだけで、全然そんなこと無いけどね? でも、この一週間色んなことにチャレンジして……陽翔くんの隣に立つ自分を、やっと認めてあげられるようになったんじゃないかな」

「甘える口実が出来た、ってこと?」

「かもね。琴音ちゃん、そういうの下手くそだから……ちょっと暴走しちゃったんだよ。さっき二人で話したときだって、大会のこと一言も触れなかったの。妊娠したら大会にも出られないって、分かってる筈なのに……」


 息を漏らしシュンと肩を落とす。気丈に振る舞ってはいるが、やはりショックはあったようだ。


 恐らく『自分だけズルい』などという醜い嫉妬とは縁遠い。町田南と戦ったあの日の夜、二人は誓い合った。一番近いポジションで、一緒に頑張ろうと。


 言葉を濁さず言えば、比奈は少しだけ『裏切られた』と感じたのかもしれない。同時に、自身の言葉や想いがさほど大きな意味を成さなかったことにある種の達観を覚えている。



「……気持ちは分かるよ。経験あるし。陽翔くんのことばっかり考えて、なんにも手が付かなくて……春休み、怒ってくれたよね」

「練習試合のときのこと?」

「ほんのちょっとだけ……大会や試合が無かったら、なにも頑張らなくたって陽翔くんと一緒にいられるって……やっぱり思ったもの。今の琴音ちゃんも同じなんだと思う。優先順位が分からなくなってるんだよ」


 でも、それでもね。

 一呼吸おいて、比奈は呟いた。



「本当に赤ちゃんがいるとしたら……ちゃんと、おめでとうって、言ってあげたいな。二人の愛の結晶なんだから。こんなに嬉しいこと、無いよ」

「…………比奈」

「分かんないけどねっ? 出来てない可能性の方が高いって、分かってるけど……でも、琴音ちゃんの気持ちは、優先してあげたいなって。わたし、もうとっくに保護者じゃないんだから……っ」


 無理やりに笑顔を作っては見せたが、堪え切れないものはあった。スカートにぽつぽつと落ちる雫を払いのけ、頭を軽く撫でてやる。



 祝福すべきことだ。間違いなく。比重はともかく、誰が悪いというより、全員が悪いのだろう。だからこうなった。それはそれで良いのかもしれない。


 ただ一つ、取っ掛かりがあるとすれば。


 今ここで泣いている彼女に、何かしなければならないという義務、責任。そして恐らく、その役目は俺と、もう一人が担う必要がある。そう思うのだ。


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