915. お客様は神様


 ベッドへ横たわり脱力する。琴音は背中に腕を伸ばし早速マッサージを始めた。ぷにぷにの柔らかいお手手だ。既に果てしなく幸福ではある。


 が、とにかく非力で重たいものは基本持てない琴音。慧ちゃんから教わったのだというツボを懸命にグイグイ押し潰すのだが、あと一歩物足りないというか。もどかしい。



「背中乗ってもええよ?」

「えっ……で、でもっ」

「むしろそっちの方が圧掛かって気持ちいいかも。お客様は神様やぞ。はよせえ」

「それは店側の言い分であって……」


 一瞬ばかり躊躇うが『仕方ないですね……』とかなんとか言って結局乗る。心地良い重みだ。スカートだからお尻の感覚が良く伝わって……。


 ……って、駄目だ。間違っても俺はこの状況もとい、じぇーけーりふれを受け入れたわけではない。あくまでもマッサージに集中して貰うための助言。


 他の要素は必要無いのだ。勝手にえっちい気分になって手を出したらそれこそ迷惑客以外の何物でもない……般若心経、般若心経。



「……ど、どうですか?」

「おー、結構ええ感じ。もう暑くなって来たわ、ちゃんと効いとる証拠やな」


 脚の付け根を重点的に押して貰う。あの手のフィジカルトレーニングのあとは、ここをしっかりと解すことが大切だ。翌日以降に重みが残ってしまう。



「ふっ、ふんっ……ふん……っ」


 上から圧を掛けるようになり力加減もちょうど良い。中々の才能じゃないか。いつの間にこんな技術を習得したんだ……。



「……少し、暑いですね」

「せやなぁ……冷房入れる?」

「大丈夫です。まだ六月なので」

「あ、そうやなくて…………まぁええか」


 どちらかと言うと『暑いから入れて欲しい』というニュアンスだったのだが、体力消費を心配していると取られてしまう。

 まぁ、耐えられる程度だし別に良いんだけど。とても集中しているし横槍も入れるのもな。黙っていよう。


 ……あれ。そもそもどうしてこんな状況になっているんだっけ。別にマッサージをするために俺を呼び出したわけじゃなかったような……。



 ……………………



(暑い)


 マッサージは気持ちいい。文句は無い。

 無いのだが、やたらと汗が垂れる。


 おかしいな……確かに窓は締め切っているが、外は曇りで室内の気温もそこまで高くなかった筈。練習で掻いた汗はシャワーで流したし。



「はぁ……はぁっ……」


 琴音も息が荒くなっている。あんなにハードなトレーニングのあとだから疲れるのも仕方ないだろうが……でも、この程度で息切れするものか?


 お互い暫し無言のまま。

 じぇーけーりふれ改めマッサージは続く。


 なんだろう。この妙な胸騒ぎと、内側から溢れ出そうな衝動は。時限爆弾のタイマーが頭のなかでカチコチ鳴っているような……。



「……上着、脱いでください」

「えっ……なんで?」

「どこを押しているのか分かりにくいので」

「……ん。分かった」


 うつ伏せのまま器用にシャツを脱ぎ床へ放り投げる。すると背後から、唾を飲み込む『ゴクリ』という音が、ハッキリと聞こえた。



「……凄い筋肉ですね」

「背中見てあんま言わへんやろ」

「……でも、すごい、です」


 ガラス細工のような白く細長い指が、スーッと背筋をなぞる。って、くすぐったいんですが。それマッサージに必要無いだろ。



「…………」

「……琴音? どうした?」


 せっかく脱いだのに中々再開してくれない。うつ伏せだから見えないけれど、なんとなく視線を感じるのは気のせいだろうか。


 いやまぁ、マッサージの途中なのだから見られるのは当然だ。でも、そうじゃない。もっとこう、絡みつくようなネットリした何かを感じる……。



「…………んっ……」

(エ゛ッ)


 背中を伝う柔らかな感触。

 まさか琴音、俺の上に寝そべっている……!?



「おい、それはマッサージじゃ……」

「……陽翔、さん……っ」


 少し上まで登って、耳元でほんのりと囁く。

 糖分過多の甘ったるいお菓子みたいな声。


 暑いのに鳥肌が立つ勢いだ。どうしてお前はそう、俺の性癖をいつもピンポイントで……って、そうじゃなくて、そんなことはどうでも良くて……!



「はぁ、はぁ、はぁー……っ!」

「ちょっ、ちょ、ナンデ?! ナンデソウナル!? 琴音サン!?」

「……背中のマッサージは終わりですっ……仰向けになってください……っ!」

「ほッ!?」


 肩を掴まれ無理やりひっくり返される。何故だ。琴音のよわよわな腕力に蹂躙されるほど華奢な身体ではないのに。抵抗出来ない。力が入らない……。



「な、なんだよ。どうしちまったんだよ……ッ」

「…………っ」


 徹頭徹尾日本人らしいブラウンの美しい瞳が、無数の有彩色をブチ撒けた後みたいに、ぐちゃぐちゃに蕩けている。半開きの口から今にも唾液が零れそう。


 彼女がこんな風に、無防備になる瞬間を一つだけ知っている。たいてい俺の方から無理やり押し進めなければこうはならない。

 なのに、勝手にスイッチが入っている。そんな、ちょっとマッサージして半裸を見ただけで? 愛莉でもこんなに単純じゃないぞ……。



「あっ……ま、まさか……ッ!?」


 机に置きっぱなしの栄養ドリンクが目に飛び込んだ。もしかしてアレ、そういう感じのヤツ?


 飲んだらえっちい気分になる的な? 媚薬みたいな? なにしてくれてんの慧ちゃんパパ? お客さんにそんなもの渡しちゃ駄目でしょ? ねえ??



「落ち着け琴音! 恐らく今のお前は正気やない、薬でアタオカなっとるだけや! あとで絶対に後悔するぞ!?」

「…………別に、良いです。それでも」

「……な、なんだと?」

「馬鹿なんですか……本当に、気が利かない人ですね。本当に……っ!」


 怒りっぽく眉を顰め、更に接近。

 駄目だ、目が離せない……。



「説明したはずです、48時間コースなんです……っ! それがどういう意味か、少しも察していないと……っ?」

「……マジで?」

「うぅぅ……っ!」


 パンパンに腫れた頬に伝う一滴の雫。物悲しげに首を垂れるネコミミ。相当無理をしているのはとっくの前から明らか。


 ……あぁ、そうか。


 誕生日だからとか、そんなの彼女にしたらどうでも良いんだ。中々二人きりの時間が無くて、こないだもギリギリのところで邪魔が入って。

 こんな馬鹿げたシチュエーションを作ろうとするくらい、切羽詰まっていたんだ。


 なるほど。俺の部屋だと他の奴に邪魔されるかもしれないから、敢えて自分の家でってことか。

 あとで絶対に思い出してしまうだろうに……そのリスクさえ許容して、ここまでやってのけたのだ。



「……頑張ってくれたんやな。俺のために。ごめん気付けなくて。なんか、そういうのじゃないのかなって、勝手に思ってた」

「…………ひどい、です」

「分かった、分かったよ。俺も嫌じゃない……48時間ってことは、暫くご両親も帰って来ないんだな?」


 こくりと頷く。どちらかと言えばガクンッって感じだ。これ以上の無理は身体に毒というものだろう。お互いに。



「……可愛い、ですか?」

「ネコミミ? 勿論」

「…………制服も?」

「毎日飛び付くの我慢してるよ」

「……ふぬっ」


 胸元に顔を埋め、満足げに吐息を漏らす。


 そう。琴音はこう見えて、ちゃんと女の子だ。可愛いと言って欲しい、好きだって伝えて欲しい。ただ素直に受け入れるのが下手なだけ……。



「好きだよ。琴音。大好きだ」

「……わたしも、です」

「ちゃんと言って。それじゃ分からない」

「…………好き、です。陽翔さん」


 ギリギリところで繋がっていた糸が、その言葉を合図にプツリと切れた。やはり予測通り。予めタイマーが設定されていたに過ぎない代物。


 普段は俺から攻めるばかりで、彼女から積極的にしてくれるのは新鮮だ。頭上からの絶え間ない追撃。

 けれど、すぐに息が続かなくなって。水中から抜け出したみたいに、ちょっと惚けた顔でむくりと起き上がる。


 暑い。いや、熱い。熱過ぎる。

 でも、もっと熱くなりたい。

 琴音が欲しい。琴音の温もりが欲しい。



「……ぜんぶ、私がやります。動かないでください。まだマッサージの途中です」

「……どこのマッサージ?」

「…………ここ、です」


 あんなに激しいトレーニングのあとに、これか。

 明後日まで筋肉痛だな。間違いなく。


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