910. 全集中
「センパイまだやってるんですか?」
「負荷調整? っちゅうやつらしいで。どれくらい疲れると次の日にどんくらい回復する言うのを、肌感で擦り合わせとるんや」
「ほえ~。まるで最先端のトレーニング理論を勉強してきたかのようですね」
「してきたんやって、あん人」
「なんかブツブツ言ってません?」
「さあ~。まっ、はよ帰れ言うとったし、ウチらも退散しますかね~」
帰り支度を終えたノノと文香が出入り口から見守っているが、何を話しているのかまでは聞こえない。募りに募った煩悩を打ち払うべく、分け目も振らず個人練習へ没頭。要するに居残りだ。
マーカーを幾つか並べ、相手ディフェンスを想定したシャドートレーニング。誰かに守備役を務めて貰う方が当然効果的だが、あくまで負荷調整なのでそれは本腰ではない。
ワンフェイクから左脚を振り抜き、無人のゴールネットを揺らす。コースは甘々。琴音なら防げるだろう。だが一方、これが目的と言えば目的。
(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減……ッ!!)
付け焼刃で覚えた般若心経を一心に唱え続ける。決して頭がバグったわけではない。余計なことを考えないためだ。効果は未知数。
ゴール前に立つ琴音をイメージし、その顔を思いっきりぶち抜く。内なる嗜虐的サディズムの開眼でもない。すべては昨日今日の下半身脳行動と不埒な邪念を殴り捨て、心の平穏を取り戻すためのもの。効果は未知数。
琴音がその手に際して一切妥協してくれないのなら、こちらが冷静であるよう務めるべきだ。あらゆる邪な欲求を唾棄せねば。
トレーニングへ全集中。脚の呼吸、五の型……嗚呼不味い、比奈に教えて貰ったアニメの続きが気になる……集中しろ、般若心経、とにかく般若心経だ……ッ!
「むっ……自棄に琴音がハッキリ見える……?」
「はい?」
「おぉ、声色までイメージと一緒とは……! これは集中出来ている証拠に違いない……!」
「あの……陽翔さん?」
「って、うわっ、本物やァッ!?」
「さっきから何を言っているんですか……」
振り返る先に立っていたのはイメージから具現化された彼女でなく、正真正銘の琴音ご本人であった。眉をひん曲げ怪訝な顔で俺を見つめている。
全体練習を終え解散してから結構な時間が経っている筈なのに、まだ練習着のままでグローブも着けていた。すると背後から愛莉、慧ちゃんまでも現れる。恐らくこれも本人。
いや、待て。まだ分からん。部のおっぱい三銃士が揃い踏みということは、俺の煩悩がまだまだ消化し切れていない証拠か……!?
「居残り練するなら言いなさいよ。水臭いわね」
「エッ。あぁ、いや、そんな大したものじゃ……」
あ、違った。余裕で本人だ。
「なんでそんな挙動不審なの?」
「……精神と時の狭間で修行しとってな。うん」
「意味分かんないけど、まぁちょうど良いわ。もう少し慧ちゃんにゴレイロの練習をさせてあげようって、琴音ちゃんが提案してくれたの。アンタも協力して。じゃあ慧ちゃん、始めましょっか」
「うっス! よろしくお願いしゃーす!!」
慧ちゃんをゴール前に立たせ、早速居残り特訓が始まった。全体練習の間、慧ちゃんはゴレイロとフィールドプレーヤーの両方を務めているから、どうしてもこちらへ割く時間が足りていない。それは良いのだが。
問題はコイツだ。般若心経のおかげでだいぶマシにはなったとは言え、直接顔を合わせるとなると中々心苦しいところが……。
「なんですか?」
「いや、別に……なんでもねえけど」
「そうですか。では宜しくお願いします……ちゃんと集中してくださいね」
スンと鼻を鳴らしスタスタと横を通り過ぎる琴音。んなこと言われんでも分かっている。誰のせいで挙動不審だと思ってやがる貴様。
まぁ良い、今はまだ練習の時間。彼女の言う通りゴレイロの特訓に集中しよう。俺も本望だ。
(いや待て……琴音が提案した、だと?)
居残りをするからみんなは先に帰って良い、全体練が終わったときに予め周知している。つまり俺が体育館に残っているのを、彼女も知っているわけで。
昼にもあんなことがあったというのに、同じ空間に長々と居座ることを許容出来るような奴か? あんなに恥ずかしがりの琴音が?
「保科さん、少し前に出過ぎです。後ろを空けると頭上を狙われてしまいます。身体が大きいのですから、もっと引いて構えた方がコースを制限出来ます」
「おぉっ、なるほど! これくらいで大丈夫っスか? もっと後ろとか?」
「その位置で問題ありません。シュートが来る前に腕を広げると良いですよ。やや前のめりになるくらいで、相手を上から捉えるイメージです」
「了解っス! っしゃあ、いつでもどーぞナガセ先輩ッ! 全部止めてやるっス!」
細やかなレクチャーを受け気合十分の慧ちゃん、愛莉の強烈なシュートへ必死に食らいつく。琴音は満足そうに目を細めた。
今まで一人でゴレイロを守って来たし、練習も俺とのマンツーマンが多かった。同じポジションを争う後輩の存在、一緒のメニューで切磋琢磨する環境……どれも彼女にとっては新鮮で、実りあるものに違いない。
良いんだけどさ。それはそれで。
なんで俺をチラチラ見るのかね。
「だわはぁッ!? ああああ届かねェェーーッ!!」
「腰が高いんです。無理にキャッチしようとしなくても、もっと落として掻き出すように……愛莉さんっ、お願いしますっ!」
代わってゴールマウスへ立つ。ライナー性のショットに横っ飛びで反応。実にキレのある動き、美しいセービング。
反射神経も勿論のこと、取るか弾くかの判断スピードが速い。彼女の隠れた特長である。ゴレイロとしての素質が元より備わっているのだ。
「ふぬっ……っ!」
「おぉーッ、すっげー! なんか今の、バレーのレシーブみたいだったっス!!」
「こうやって下から振り上げるんです。逆にしてしまうと、足が動かなかったときに低いシュートへ反応出来ないので……」
「そっちは身体でカバーするってことっスね!」
「はい、その通りですっ……っと」
暫く慧ちゃんのセービング練習が続く。さて、こっちもこっちで仕事をしよう。
だいぶ落ち着いて来たし、あくまで普通に接するのみ。意識しない、意識しない……。
「大丈夫か。膝」
「……はい?」
「ちょっと擦り剥いてないか? あぁ、ほらやっぱり。ちょっと待っててな」
ゴール横で座って待機していた琴音。先のセーブのときに膝を打っていたので、もしかしたらと思ったのだ。
水の入ったボトルと、先日部費で拵えた救急セットをコート端から持って来る。絆創膏は……あったあった。
「こっ、これくらいで大袈裟ですっ。床が濡れてしまいますから……」
「ええから。ジッとしてろ。掃除なんあとでやりゃええねん。っし、タオルタオル……」
水で濡らしてタオルを当てると、痛みで顔を歪める彼女。ほら見たことか。結構気にしていた癖に、意地張りやがって。
半ズボンの奥から覗く、シミ一つ無い真っ白な内腿。目が行かないと言えば嘘になるが……。
「……すみません。気を遣わせてしまって」
「よう言うわ。構ってちゃんめ」
「……カマッテチャン? なんですかそれ?」
「なんでもねーよ」
一年のトレーニングでだいぶガッシリはして来たが、まだまだ細く女性的な脚。こんなにか弱い小さいな身体で、弾丸シュートを身を挺して防いで、何度も立ち上がって、みんなを支えて。
ただ可愛いだけ、魅力的なだけではない。真っ直ぐな気持ちと決して折れない信念を持った、心の強い子だ。いつも尊敬している。
なのにその姿がどうにもポンコツで、可愛すぎて、だから守ってあげたくなる。過保護にもなるのも当然だ。
なんでも当人は『同じくらい自分も守りたい』らしいが……とっくに叶っていると思うけどな。
お前のおかげで一番忘れちゃいけない、大事にしたい気持ちを、いつも守り続けられているよ。
「動けるか?」
「大丈夫です。大した怪我でもありませんから」
「おっけ。じゃあもうちょっとだけ頑張るか。俺もシュート撃つから、慧ちゃんに良いところ見せてやれよ…………ちゃんと見てっから。いつでも」
「…………はいっ」
やんわりと頬を緩ませ、小さく頷く彼女。
あまりに堅い防壁という名の鉄仮面。だからこそ外したい。こんなに可愛い素顔が見れるのだから、何度だって手を伸ばしたくなる。
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