884. いっぱい罵ってあげる
「ラクなんだよ。実際。都合の良いときに、都合良く振る舞えるから。それが自分の強みなんだって、他の人は言ってくれたケド……」
「……でも、偶に怖くなる。芯が無いんじゃないかって。ただ逃げてるだけなんじゃないかって……そーいうの、一番嫌いなのにさ」
「もっと素直になれば良いんだって、分かってるよ。そんなの。でも、やっぱり怖い。自分が自分じゃなくなるのが怖い……そんな頼りない自分、らしさでもなんでもないって、分かってるのにネ」
「…………誰にも負けてないつもりだった。兄さんを一番理解しているのは自分。間違いなく勝ってるか、リードは出来ている。それだけは自信を持ってた。ちゃんと持ってたのに……」
「……違ったんだ。全然意味の無い悩みだった。自分はまだ、理想の自分に負けてる。栗宮胡桃に負けて、全部剥がされたんだ」
「やっぱりまだ居たんだよ。本当はビクビク怯えていて、弱いままの自分…… Joãoがさ」
実に飄々としたものだ。そこに思春期特有のもどかしさや、殻に籠って閉じ籠る苦し紛れの気配は無い。頻りに『悩んでいない』と言うのも、彼女にすれば本心そのものなのだろう。
中途半端、か。
まぁ、気持ちは分かる。
男っぽい身なりや言動は素面だが、女らしさにも憧れている。俺を好いているのも本当だし、同時に兄も欲しがっている。熱い心と冷めた心が同居して、どうにも掴みどころが無い。
心がJoão。つまりそれは、このフットサル部というチーム、そして家族のなかで自分が生きていくに、普通や一般という物差しで見た『冷めた自分』を捨てなければならないと、彼女は考えている。
いや。でも、どうだろう。
やっぱり悩んではいないみたいだ。
兄貴でも、先輩でも、チームメイトでも。恋人としてでもなく。廣瀬陽翔が長瀬真琴に言えることが、一つある。
みんなJoãoだよ。どう足掻いても。
「言うほど駄目か? 中途半端って」
「……えっ?」
「勘違いすんな。俺が好きなのは長瀬真琴であって、クールで気取ったお前でも、ましてや暑苦しいお前でもねーよ。言うたやろ、どっちもって」
夢から醒めたような目で、俺を見つめる。姉とよく似た瞳だ。遠目に見ると尖っているが、近付くと案外丸っこくて可愛げがある。二つ揃えば尚更。
片方だけなんて、そんなの勿体ない。
「まずな。人間如きがたった一つのポリシーとか、プライドとか、決まった考え方で生きていけるわけねえんだよ。しかも高校生が。年寄り見てみろ。ガキが公園でボール遊びするな言うて、自分らはお気楽にゲートボールとかよ」
「……それはまた別の話じゃない?」
「ええから聞け。あのな、都合良く生きるなんて、そんなん誰でもやってんだよ。お前だけの悩み思ったら大間違いやぞ」
例えば前までの比奈もそうだった。バランサーとして皆を支える自分と、たった一人のヒロインになりたい自分がせめぎ合って。悩んでいるとまではいかないまでも、彼女にとって足枷の一つだった。
もっとも、比奈は想像以上に強くて、更に欲張りな女だった。俺の人生を奪うことで、どちらも捕まえ続けられると、だいたいそんなことを言った。
すべて彼女を参考にするのはやや恐ろしいところだが……でも、それくらいの心構えが、真琴にもちょうど良いのかもしれない。
「悩み一つ無い人生なんて、あり得ねえよ。それでいて面白くもなんともねえ。賢くつまみ食いするんだよ。食い過ぎたらその辺吐いて捨てんの」
「……前から思ってるケドさ。ほんっと例え話下手くそだよね。外国語勉強し過ぎて日本語不自由になってない?」
「うるっせえな……伝わればええねん、だいたい。まだ必要か?」
お決まりの乱暴な口振りで投げ返すと、やはりお決まりの気取った面で、彼女は愉快げに鼻を鳴らした。
ムカつくわお前、ホンマに。
勝手に悩んで勝手に解決して。
だが残念なことに、嫌いじゃねえ。
むしろ好きだ。大好きだ。
「このままで良い、ってこと?」
「……だいたいな。だいたい」
「…………分かった。じゃあ、もうちょっと続ける。中途半端」
「おー。ええんちゃうの」
「……それが、好きなんでしょ?」
「いいや。愛してる」
「…………キザったらし」
やっとこっちを見てくれた。
姉譲りどころか、それ以上かも分からない綺麗な顔で。可愛くて、憎たらしくて、最高に輝いた瞳で。真琴は、笑ってくれた。
俺も一緒だ。真琴。
沢山の子に好きだ、愛してるだなんて、軽々しく言っておいて。大事にする、ずっと一緒だなんて、なんの保証も無い馬鹿な台詞を散々吐いて。
中途半端の極みだ。俺は。だが、有難く享受している。中途半端であることが、最良で最高の姿だと。みんなが。そしてお前が教えてくれた。
そうか。むしろJoãoでこそ良いんだ。少なくともコートの外では。俺たち家族は沢山のJoãoと中途半端が集まってやっと完成するもの。いっぱいの普通が肩を寄せ合って、特別になるのだから。
だから、良いよ。無理しないで。
肩の力抜いて、気楽に行こうぜ。
カッコつかなくても、大袈裟でも、変に気取っていても、なんでも良いよ。ありのままの、等身大の長瀬真琴が大好きだ。
妹なのに、恋人にしてやりたい。
こんなに可愛いのに、男扱いしてしまう。
大好きなのに、割とウザイ。
そんな長瀬真琴を愛している。
心から、愛している。
なんて凝りもせず、中途半端なことを言ってみる。ところが案外悪くないだろ。だから一緒だ。今もこれからも――。
「…………ポジションの話だけどさ」
「ん。おう?」
「自分、フィクソやるよ」
「うん。ええと思う。ていうかそのつもりやったわ。あんなスーパーボレー滅多に決まらへんもんな」
「一言余計だよっ…………でも、実際そうなんだよね。シュートあんまり得意じゃないんだ。遠くから偶に撃つくらいの方が入るし」
「……止めたいんやろ。栗宮胡桃」
燃えるような決意を瞳へ宿し、真琴は力強く頷いた。どうやら心はJoãoのままでも、プレーヤー・長瀬真琴はそうもいかないらしい。
「不安になるのは、自信が無いからだと思う。今の自分でも大丈夫だって、胸を張って言えないから……だから、せめてフットサルだけは、中途半端をやめる。弱い自分とアイツに勝って、Joãoじゃないって言いたい。自分は長瀬真琴だって……」
「……あぁ。次は全国の舞台で、アイツと町田南に勝って……お前の存在を、長瀬真琴の名を刻んでやろうぜ。一番深いところにな」
今はまだ石ころ。
原石にも満たぬちっぽけな存在。
でも、それで良いじゃないか。磨けば幾らでも光るんだ。それこそ栗宮胡桃に負けないくらいの、美しい宝石になれる。真琴、お前なら必ず。
「忘れるなよ。今日の敗北と、栗宮胡桃って名前を。お前が奴を上回る宝石になれたとき……真琴のなかにある中途半端のうち、一つは綺麗サッパリ片付くって、そう思う。悩むのはええけど、悩み過ぎるのもキツイしな」
「…………兄さん……っ」
「俺に甘えるのは好きなだけやればええ。ごっこ遊びでも、たった一人の妹や。ホンマ可愛いし、いつまでも甘やかしたい……でも、コートの上では違う。あくまでも対等や。俺に求めているのはそういうところじゃねえか?」
「……うん。かもしれない」
フットサル部へ正式に入部し数か月。恐らく俺は、お前の憧れた『プレーヤー・廣瀬陽翔』として、少々腑抜けていたのかもしれない。心の奥底で『何かが足りない』と彼女も感じていたのだろう。
ならば俺は、コートの外で与えられたものがあるように。今度はチームのエースとして、彼女に示さなければならない。
なるほど。これも責任か。
難儀な話だ。だがやらなければ。
否。お前のために、俺はそうしたい。
自分なりの責任で、お前と幸せになりたい。
「あぁ。ちなみにガリンシャな。プライベートも中々に奔放で、離婚問題と借金のコンボで首が回らなくなって……最後はアルコール中毒で死んだ。50歳手前とかやったっけな」
「ホントにサッカー以外は駄目だったんだね」
「純粋な人だったんだよ。子どものまま大人になって、周囲の圧力に晒されて……まともに歩くのも辛い怪我を負ったのに、クラブの事情で無理やり出場させられたりな。地位も名声も、最後はすべて失った……」
「……そうなんだ。英雄みたいな人でも、結局はそうなっちゃうんだね」
「間違ってもガリンシャにはなるな。なろうと思ってなれるモンちゃうし、目指す必要も無い……昔の俺に言いてえよ。ホンマにな」
フットボールの可能性のみを妄信し、すべてを犠牲にしようとしていた過去の俺は……きっとガリンシャに通ずるところがある。
勿論俺にとって、フットボールは大切だ。
命と同等の勝ちがあると言っても良い。
ただ、同じくらい大事なものもある。
「辛いときは、俺とみんなが支える。だから隠すなよ。お前の苦しみは俺たちにとっても必要なモノ、受け入れていくモノで…………いや、ちゃうな。一緒に悩んで、苦しんで、考えたいんだよ。それがチーム、家族ってモンやろ?」
「……背負い過ぎだよ。それ」
「大丈夫。半分はみんなが持ってくれる」
「…………そっか。ならヘーキだね」
みんなと過ごす時間。与えてくれた愛情。
そして、愛したいという気持ちだ。
「ありがとう兄さん。自分、もっと頑張る。中途半端でも良いけど、テキトーはイヤだし。みんなや兄さんの分、自分ももっと背負ってみたい」
「真琴……っ」
「だから、ちゃんと見てて欲しい。いっぱい甘えるし、迷惑も掛ける。掛けるけど、それだけじゃイヤだから」
「……具体的には?」
「勝って勝って勝ちまくって……兄さんの自慢の妹になりたい。世界で一番可愛くて、カッコよくて、頼れる妹。で、偶に恋人とか…………そーいうのに、なりたい」
「……んっ。ええ目標やな」
空いた手で缶ジュースを飲み干し、彼女は立ち上がった。スラリと伸びた綺麗な背筋だ。思わず見惚れてしまいそうになる。
もうとっくにだけどな。自慢の妹。
まぁ、敢えて言わないでおくか。
「でも、本当の妹じゃないから。結婚だって出来るし、子どもも作れる。都合の悪いときはどっちかに寄せて片付けちゃえばいいんだ」
「んっ?」
「磨くのはプレーだけじゃなくてさ……男っぽいとか、女らしくないとか、そんなのもどうでも良い。長瀬真琴らしさをいっぱい磨いて、自分のこと、好きになるよ」
「……うん」
「そうすれば兄さんとも、もっともっと近付ける気がする。勝てる気がするんだ。他の誰かじゃなくて、弱かった自分自身に…………そっか。そーいうことか……! ホント、なんで気付けなかったんだろう!!」
「……おう?」
まさに俺の思った通りのことを口にするのだが。なんかこう、微妙にズレている気がする。
あとお前、なんで笑う。
なんだその生意気な面は。おい。
「前に言ったこと、撤回するね」
「……どれ?」
「姉さんに手を出したら自分は駄目ってやつ。ほら、蔵王のときに」
「…………言うとったな」
「あれ、ウソだから。ていうか、これからウソにする。まぁ、流石に全国大会までは待ってほしいケド…………ちょっと興味あるし」
「……え?」
「そのときが来たら、いっぱい罵ってあげるよ。妹に欲情する変態兄さん……ってね! どう? 興奮したっ? 変態兄さんっ!」
カラカラと歌うような声色を飛ばし、勢いよく階段を駆け下りていく。短く切り揃えた黒髪を揺らし、振り返った。
なんて可愛げのある、ムカつく顔だ。
これだからお前は。
「でも、好きだよっ! 大好きだっ!!」
「兄さんで、先輩で、チームメイトで、姉さんの彼氏で、家族みたいで、最高に馬鹿で狂ってるアンタが……廣瀬陽翔が、大好きだっ!!」
「……ねえ、聞いた! 見ててくれたよねっ! 自分、勝てたんだよ! また一つ勝ったんだ!!」
やられた。最後の最後に。
いつもに増して詰めが甘い俺だ。
参ったな。当分は目を離せそうにない。
やっぱり兄貴失格だ。
こんな最高の女、妹には勿体ねえ。
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