876. ただで済むと思うな


「……João、やと?」

「存じているのか。みんな全然知らないから通じてくれて嬉しい。栗宮はテンションが1上がった。てってれー」

「あぁ勿論知っとる。サッカー界隈や有名な話やからな…………もう一度聞く。コイツを、真琴のことを……Joãoと呼んだな?」

「では栗宮ももう一度答えよう。JoãoはJoãoだ。それ以上でも以下でもない。それとも、わざわざ覚えろと?」


 なんてことない顔で宣う栗宮胡桃。決して煽っているわけでも、馬鹿にしているわけでもなく。思ったまま感じたまま彼女は話している。



「おい、またそれ言いやがったなお前……前もやめろって言わなかったか? 流石に失礼だろ……ッ!」


 相模がそう咎めるが、いったい何が悪いのかと惚けた顔の栗宮。遂にはヘアピンを外し前髪を弄り始める。


 単に真面目な雰囲気やシリアスが苦手なのかと思っていたが、どうやらそうではない。

 本気で自分のことを神か何かだと信じている。空気を読まないのではない、そもそも空気を読む能力が備わっていないのだ。


 文香の言う通りだった。フットボールの才能を授かるに、どうやら人間は大事なものを一つ犠牲にしなければならないらしい……。



「あの、センパイ。ジョアンとは?」

「……ガリンシャは知ってるか?」

「ガリンシャ? そりゃまぁ有名ですし……」

「……だ、誰?」


 サッカーフリークのノノはともかく、流石に昔の選手過ぎて真琴は知らなかったようだ。

 こんな試合中に、しかもこの状態の真琴に説明するのも憚れるが。



「……Mané Garrincha。脚の曲がった天使や」

「脚の……曲がった?」


 ポルトガル語でミソサザイ、小鳥を意味する『ガリンシャ』の名で知られる、マノエウ・フランシスコ・ドス・サントス。聡明期のブラジルサッカーを代表するドリブラーである。


 日本での知名度はやや低いが、母国では同時期に活躍したサッカーの神様、ペレ以上の人気を誇るとも言われる、サッカー史に名を残す天才。



「貧乏な家の生まれでな。確か小生麻痺や。病気の治療もロクに出来なくて、脚の長さが違くなっちまったんだよ」

「だから、脚が曲がった天使?」

「あぁ。でもガリンシャはそれを利用して……いや、本人にそのつもりは無かったんやろけどな。まぁつまり、ハンデだった筈の歪曲した脚が、逆にガリンシャの武器になったんだよ」


 幸か不幸か。過酷な病はガリンシャに、分かっていても止められない反則級のドリブルテクニックを与えた。これが伝説と悲劇の始まり。


 19歳の頃に参加したプロクラブの入団テストでは、対峙した現役ブラジル代表が『彼と直ぐに契約してくれ。彼のマークにつくのは真っ平御免だ』と首脳陣に泣きついたという逸話が残っているほど。


 すぐにクラブ、そしてブラジル代表でも活躍をはじめ、幾多の守備の名手を手玉に取った。なんでも『左はフェイント。必ず右に抜けて来る』と分かっているのに、何故か止められないのだそうだ。



「一方ガリンシャは、まぁ言い方はアレやけど……マスコミから知恵遅れと揶揄される程度には、頭が悪かった。Joãoもその代表的なエピソードや」

「……どういうこと?」

「偶に聞くやろ。ブラジルやポルトガルの選手で、ジョアンっていうファーストネーム。ありふれた名前なんだよ、日本で言う太郎みたいな」

「……自分、真琴だよ」


 勿論言われなくても分かっている。

 重要なのは『敢えて』そう呼んだこと。



「ガリンシャは人の名前を覚えるのが特に苦手やった。相手チームの選手と来たら尚更や。自分の足元にも及ばない選手の名前なんて、みんな一括り『João』で十分やって……そう思うようになったらしい」

「なッ……!?」


 一転、目を白黒させ動揺を隠せない真琴。残るみんなも、奴の放った言葉の真意に気付いたみたいだ。苦々しい面持ちで息を呑む。


 彼のエピソードはジャーナリストによる脚色が多く、どこまで真実なのかは分からないが……中でも信ぴょう性の高い話だ。誰がマークしても同じだからという理由で、相手選手をJoãoと呼んでいた。



「さっきからなにをペチャクチャペレイラ話している。というか長い。栗宮は人の話を聞くのが苦手だ。次に苦手なのは名前を覚えること」

「…………わざわざ答え合わせどうも」

「進○ゼミでやったところか」

「……ふざけるのも大概にせえよ。なあ?」



 長瀬真琴は、俺たちの希望だ。


 一年生だからというだけではない。フットサル部というチームにも、家族にとっても、決して替えの利かない大切な存在。


 無論、真琴に限った話でもなく。一人ひとりが違った個性、パーソナリティーを持っていて……それら幾つもの棘や出っ張りが、奇跡のようなバランスで纏まって。やっと俺たちはチームに、家族になれている。なろうとしている。


 ただやっぱり、真琴が色んな意味でこのチームの一員になって、俺たちの幅はグッと広がったように思う。

 凸凹の出来損ないだった家族が、長瀬真琴という一欠けらを得て、また一つ上のステージへ辿り着いた。そう本気で信じている。



「なぁはーくん、気持ちはよう伝わるで。怒っとる理由も……せやかてな?」

「黙ってろ文香……ッ!」


 分かるか? 栗宮胡桃。


 そのクソみたいな一般常識とやらで、もっと頭を捻って考えてみろ。どうして俺がこんなにも怒りを覚えているのか。


 

「最後通牒や……コイツは、Joãoか?」

「そう見える。栗宮には。他にはどうも見えない。なにも聞かせてくれない。まぁ確かに、壊れ掛けではあるか。上手い、一本。一本満足。ばぁ」


 この期に及んで余計な口を挟む。

 交渉決裂か。まぁそうだと思ったよ。



 お前は馬鹿にしたんだ。長瀬真琴というプレーヤーのみならず、彼女自身を。何の価値も無い存在と切り捨て、平気な顔をしている。


 彼女がどんな決意を胸にこのチームの一員となり、今日ここまで努力を重ねて来たか、なにも知らない癖に。知ろうともしない癖に。

 一切の都合を無視し、自分の物差しだけで彼女を平凡なそれと決め付け、高いところから見下ろしている。



 ただただ上手い選手ってだけなら、別になんの文句もねえよ。幾らでも胡坐を掻けば良い。下手くそとでも、相手にならないとでも、なんとでも言え。真琴に一度勝ったのは事実だしな。


 そうじゃねえんだよ。

 として足りねえんだよ。


 その暢気な面と、最高につまらない言葉遊びが……苛々して仕方ねえって、まだ気付かねえのか?



「やるならやるで早くしろ。有象無象のJoãoに感けている時間は栗宮には無い。それとも廣瀬陽翔、貴様が相手か? 他の者は退かしてやっても良いが」



 許せない。


 いくらお前が天才だろうと。

 他の追随を許さないドリブラーでも。

 この俺をも上回る才能を持っているかもしれない、悪魔みたいな奴だとしても。


 その一言だけは、絶対に……ッ!!



「ノノ、ミクル。すぐゴール前まで上がれ。アイツらの真似事でもええ、とにかく動きを制限しろ…………おい、立てよ真琴。まだ終わってねえ……!」

「…………兄さん……っ?」


 真琴は真琴だ。

 間違ってもJoãoじゃない。


 俺を本気で怒らせたな。栗宮胡桃。

 その代償、高く付くぞ……!!



「相手しろ。栗宮胡桃。アイソレーションや…………俺の大事な妹を傷つけて、ただで済むと思うなよッッ!!!!」


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