877. 叩き折ってやる


 各々がポジションへと散らばるなか、依然憔悴し切ったままの真琴。地面をあやふやな目で見つめ、センターサークルを彷徨う亡霊と化している。


 相模がホイッスルを口に咥えたが、左腕を伸ばし制する。キックオフは一人だ。ルールはとっくの昔に改定されている。分かってんだろそれくらい。



「一旦お前に預ける。俺に戻して、左のコーナーアーク付近にいろ」

「…………っ」

「俺の目を見ろッ!! ここで止めたら、ホンマにJoãoで終わっちまうぞッ!!」


 肩を掴んでグッと引き寄せる。部の誰よりも整った綺麗な顔が、まるで親を見失った迷子の子どもみたいだ。

 種明かしには少々早かったかもしれない。彼女の抱える悩みや苦しみは、何も栗宮胡桃との絶望的な実力差だけではなく。


 ……優しくないな。まだ。


 目の前にいる等身大の彼女を、ちゃんと受け入れなきゃ。決して弱くはないが、強くもなかった彼女を。 

 


「……分かっとる。ごめんな真琴。この一か月くらい、何だかんだ一緒にいるようでお前のこと……ちょっとほったらかしだったよな」

「……えっ?」

「それだけやない。狭いところで寄り道して、外の世界を見てなかった……どっちも大事やけどさ。ずっと言ってたもんな。もうすぐ大会なのに、もっと練習しないとって」

「…………にい、さん……」

「昨日も言うとったな。なんだかふわふわしとるって。それ、ホンマは俺やなくて……自分のことなんやろ?」


 涙をグッと堪え、真琴は力無く頷いた。でもすぐに我慢出来なくなり、声を押し殺して泣いてしまう。


 この一か月弱。それぞれの関係性や立ち位置が少しずつ、しかし急速に変化していくなかで、真琴もその内の一片を担っていた。

 だが当事者ではない。むしろ間近で見て来た分、思うところがあった筈だ。振り返ればヒントは至るところへ散らばっていて。


 誰よりも聡明な彼女だ。姉よりかよっぽど堪え性もある。頭では納得したと思っていても、心が着いて来れなかったのだろう。


 栗宮胡桃に敗れ、名も無き凡人と一笑に付されたことで……まだ16歳の少女の心は、バラバラに壊れそうになっている。自分でさえ気付かない間に……。



「お前の気持ち、もっとしっかり考えなきゃいけなかった。兄貴がちゃんとしてねえから、こんなことになって、試合もボロ負けで……妹だからって、なんでも分かるわけねえのにな。兄貴失格や」

「……ううん、ちがう……違うんだよっ……! 兄さんは悪くない、悪くないんだ……っ!!」


 鼻水を啜りふるふると頭を振る。

 グシャグシャの擦れた声で、真琴は言った。



「悩みとか、イヤなこととか、そんなのなにも無いんだ……兄さんと、みんなのなかに、ちゃんと自分もいるって、分かってる。分かってるよ……っ!」

「……真琴」

「だから分からないっ、なんでこんなに怖いのか、全然分かんないんだ……っ! 逃げたくて逃げたくて、それしか考えられなくて……っ!!」


 賢い彼女ですら言語化出来ない、ただただ漠然とした不安。焦燥感。それらが栗宮胡桃という、強大な敵を前にして可視化されている。


 理由も無いのに不安だなんて、と頭を捻る必要も無い。この辺り彼女も愛莉とよく似ている。

 いや、姉妹に限らずだ。上手く行っているときこそネガティブなことを考えて、自己嫌悪に陥って……誰にでも起こり得る話。


 ただ一つ確かなのは。この試合、そして栗宮胡桃の存在が、彼女の抱える焦燥へトリガーを引いてしまったということ。



「ならそのモヤモヤと怖いモンは、全部吹っ飛ばしちまわないとな……真琴。さっき言ったこと、覚えてるか?」

「…………どれ?」

「気の済むまで俺を見てろって、言うたやろ。ホンマにそれだけでええ。あとは俺がなんとかする」


 彼女は恐れている。


 長く苦しい迷走の末ようやく見つけた、心から信頼出来るチーム、フットサル部という家族が。

 町田南、そして栗宮胡桃の手によって、跡形もなく葬られる。そんな最悪の結末を。


 このチームの可能性を誰よりも信じているからこそ、たった一度の敗北さえ彼女には受け入れられない。何かが壊れてしまう。そう思い込んでいる。


 だったら教えてあげないと。俺たちがそんな軟なチームじゃないって、もう一度突き付けるんだ。彼女と、そしてアイツらに……。



「真琴、お前はJoãoなんかやない。俺たちに必要不可欠な、たった一人の長瀬真琴や。この試合、このコートで……必ず証明してやる」



 ホイッスルが鳴り響く。真琴がセンターサークルから出て、すぐに彼女へ渡し……ノノ、ミクルは敵陣へと駆け上がる。

 わざわざ宣言した甲斐あって、連中はアイソレーションを警戒していた。栗宮胡桃を除き皆のマークへ着く。



「まーくん! やる決めたらしっかりやりい! ウチもちゃーんと守っとるで!」

「センパイがなんとかしてくれますからっ! マコちんはゆっくり見学してればいいんですっ! 可能ならこっちで! さあさあっ!」

「いつまでメソメソしているのだ、長瀬真琴っ! 貴様の魔力保有量はその程度かッ! これ以上失望させてくれるなッ!!」


 形はそれぞれだが、みんなも真琴を励ましてくれる。そうだ、一人で戦っているなんて思い込むな。苦しいときは頼れば良い。

 スカした顔も、態度も必要無い。等身大の、打たれ弱い長瀬真琴で構わない。



「…………ッッ!!」


 袖で涙を拭き取り、必死に歯を食い縛り真琴は駆け出した。良いぞ、よく頑張った。その一歩が大切だ。あとは……俺が蹴りを付ける。


 すぐそこで見ていろ。

 頼れる兄貴ってヤツを。



 市立体育館は不気味なまでの静寂に包まれた。町田南の面々、相模、コートに立つ残る八人さえ、息を呑み俺たちを食い入るように見守る。


 足元のボールは今にも破裂しそうな気配を孕む風船のよう。刻一刻とダウンを続ける電光掲示板に合わせ、重圧で膨れ上がっているみたいだった。


 残り55秒、時間は限られている。

 睨みを利かせ向き合う両者。

 先に口を開いたのは栗宮胡桃だった。



「茶番は終わったか」

「……さあ。どうやろうな。茶番かどうかはお前の目で確かめばええ」

「温い。温すぎる。だから貴様はこんなところまで落ちぶれたのだ、廣瀬陽翔…………おぉっ。今の台詞はカッコいい。あとでメモしないと」


 相も変わらず色の読めない仏頂面で戯言をほざく栗宮胡桃。これらの気に触れるフレーズも一切悪意が無いのだから恐ろしい。脳に欠陥があるとしか思えん。


 すべては他を凌駕する天才プレーヤー、栗宮胡桃を演出するための一片でしかないのだ。

 偶々俺はJoãoじゃないだけで、根本的には似たようなもの。どこまでも人を苛つかせる天才め。



「残り45秒。たったこれだけで何が出来る。1-4だ、アウェーゴールは無い。まさか一人でこの点差をひっくり返すと?」

「いや。流石にそれは無理やな」

「そうだろう。前哨戦とは呼び難くも、ウォーミングアップにはちょうど良い時間だった。尤も、貴様ら如きが栗宮の足元に手を伸ばそうなどと、果たしてその時が訪れるかどうか…………ちょっとダサいな今の。語彙力が足りない。広辞苑買お」


 分かっている。相模も言った、これはたかがスパーリングだ。

 奇跡の大逆転を噛ましたところで本大会に何か影響があるとか言えばそうではないし、残り40秒で三点差をひっくり返すのは無謀な挑戦。


 だが、一つだけ出来ることがある。


 わざわざアイソレーションという形に拘った理由に、お前はそろそろ気付くべきだ。



「集中しろよ、自称天才」

「心配無用。栗宮に掛かれば眠っていてもゴールを決められる。移動日でさえ二安打を放ったかの安打製造機が如く」

「へえ、そりゃ見てみたいな……でも、ボールも無いのにどうやって?」



 そのひん曲がった性根とプライド。

 なにもかも、叩き折ってやる。



「――――寄越せ!!」

「取れるモンなら取ってみろッッ!!」


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