875. 悪魔そのもの


「…………えっ?」


 その呟きは火花のようだった。額に滲む幾多の水滴がコートへと浸り落ち、花火みたいに弾ける。閃光が僅か一瞬で地面へと埋没し、そして消えた。



「はーくん、ブロックやッ!?」


 悲鳴にも似た文香の声。次に目を凝らすと、既に栗宮胡桃は右脚を振り切る最中だった。本能が、身体を赴かせる。



 右足裏で転がし、少しずつ左タッチラインへと近付いた栗宮胡桃。それはもうあからさまな、分かり易いカットイン狙いだった。


 守備は本職でないとはいえアカデミー育ちの真琴。その意図を汲み取れなかった筈も無い。半身で後退し縦のスペースを切りつつ中を警戒。ポジショニングも決しておかしくはなかった。

 

 撒き餌のシザースから奴が繰り出したのは、恐らくシンプルな逆エラシコ。


 マシューズフェイントとも呼ばれ、インサイドからアウトサイドへ素早く切り返すドリブルテクニックの鉄板。難易度自体はそれほど高くない。



(見え……なかった……ッ!?) 


 人生で初めての経験だった。

 いつ、どのタイミングで切り返したのか。

 目で追えなかったのだ。


 きっと真琴もそうだったのだろう。インサイドのタッチにはギリギリ反応出来たが、一瞬で逆を突かれバランスを失った。まだ尻餅を着いている。



 自慢じゃないが目は肥えている。


 セレゾン時代からプロレベルのプレーを間近で見て来たし、世代別とはいえワールドカップでも数多の猛者たちと相まみえた。彼らのテクニックに関心こそすれど、追い付けない距離とは思えなかった。


 そんな俺が『いつ突破したのか分からない』なんて、普通に考えてあり得ない。

 というか、別に生身の経験が無くたって素人でも見えるときは見える。人間の発揮出来るスピードなんてたかがその程度だ。


 意味が分からない。

 速いとか、そういうレベルじゃない。


 消えてしまったのだ。

 このコートはおろか、世界のどこからも。


 天使の皮を被った人間擬き。或いはもう、フットボールの神を気取った悪魔そのものなんじゃないかとすら思う。


 これが奴の、栗宮胡桃の正体――――。






「っしゃああ! カンペキだぜ胡桃ッ!」


 ネットが揺れる。なけなしのスライディングも意味を成さず、栗宮胡桃はサイドに開いていた砂川へのパスを選択。俺を飛び越えてリターンを受けると、右脚インサイドで軽く流し込んでみせた。


 諸手を挙げて喜ぶ砂川明海だが、元気なのは彼女一人だけ。山嵜の面々は勿論、試合を見守る町田南の連中も。

 相模さえ沈黙を保ったまま。あれほどのスーパープレーだというのに、逆に空気が沈んでいる。



「あっ……あんなん反則やって……ッ」


 辛うじてお喋りの出来そうな文香もこの反応。フーっと息を吐き『一仕事やった』みたいな澄ました顔で、自陣へテクテクと戻っていく栗宮胡桃。あまりに美しい対比である。


 このタイミングでようやく電光掲示板が動き、スコアに四つ目のゴールが記録された。時を同じく正気へ戻るオレ。


 栗宮胡桃を褒め称えるのは簡単だが、それより気になるのはコート中央で座ったまま微動だにしない真琴だ。



「おいっ、真琴……ッ!?」


 声を掛けても返してくれない。幽霊か化物にでも襲われたのか、この世のモノとは思えない何かを目の当たりにしたような顔だった。恐怖で唇は青白く染まり、寒気を催したみたいに震えている。


 俺まで恐ろしく感じてしまうほどだ。たかがスポーツ、一対一の勝負で負けた奴のリアクションじゃない。戦意どころか生気まで喪失している。



「おいしっかりしろッ! 相手はベストかマラドーナの生まれ変わりやないんやぞっ! 同じ人間、しかも高校生やッ! なんちゅう顔しとんねやッ!」

「…………にい、さん……っ?」

「分かっとる、確かにアイツのドリブルはイカレとる! せやな、狂っとるな! アタオカやな!? せやかてお前、んなバケモンでも見たみたいに……!」

「……化物だよ。ホントに……ッ!」


 震える声でどうにかそれらしいことを言う彼女。目から零れるのは間違っても汗ではない。お前、泣いてるのか……ッ?



「……怖い。怖いよ兄さんっ……! どうしよう、自分、もう出来ない……もう帰りたい、試合したくない……っ!!」

「アホ言うなッ!! 言うて二個上の高校生やぞッ、一回負けたくらいで辞める気か!? 立てッ!!」

「やだ……やだぁ……っ!!」


 大号泣だ。しゃがんで目線を合わせてやると、親へ甘える子どもみたいに胸元へ埋まり、呼吸も疎かに泣きじゃくる。

 こんな真琴は見たことがない。真琴に限らずだ。一対一で負けて普通、こんな風にならないだろう。


 戦争とかじゃないんだぞ。殺される一歩手前でもないし、栗宮にしたって殺し屋でもないんだぞ。このリアクションは流石にオーバーじゃ……。


 …………でも、そうか。


 心を折られてしまうほど……奴との実力差を身に染みて痛感した、ってことか……。



「ムリだよ……あんなのムリ……っ! 止められるワケないよ……ッ!!」

「ま、真琴っ……」


 掛ける言葉が見つからなかった。他の三人と町田南の選手はポジションへ戻っていたが、相模も真琴の惨状を前に試合を再開しようとしない。



 不味い。

 これはちょっと、本当に不味い。


 勝負に負けたどころか、彼女の選手生命を断ちかねない、大きなトラウマを――。



「悪い。調子に乗らせ過ぎた」

「……なんやって?」

「偶にいるんだよ。コイツに完敗して自信もなんも失って、そのまま競技自体を辞めちまう子が……漫画みてえな話だよな」


 相模はなんとも申し訳なさそうな、居た堪れない面持ちでそう語る。


 栗宮胡桃に負けて……競技を辞めた?



「少なくとも四人知っている。内の二人は元部員だ。どっちも守備的な選手だったんだけどな……次の日の練習前に退部届出されて、そのまま転校して行った」

「そ、そんなことが……?」

「一応、まだ一分ほど残っているが……どうする? ここで終わりでも良いぞ。勝ち逃げじゃない、その子の将来を考えた上での提案だ」


 ため息交じりに話す相模、こちらの面々へと視線を寄越す。ノノも文香も、ミクルでさえ辛そうな顔をして、真琴の小さな背中を見つめていた。


 皆の態度を咎めることは出来ない。残りたった一分でも、栗宮胡桃がもう一度真琴のメンタルを打ち砕くには十分過ぎる時間。


 あれだけ負けん気の強い真琴がこんなことになってしまうのだ、二度目の敗北は……致命傷。



(……栗宮……ッ)


 一方、当の本人は『終わるなら終わるでさっさとしろ』とでも言わんばかりの、なんとも気の抜けた面で屈伸運動をしていた。


 俄かに信じられない。コートに蔓延する淀んだ空気を少しも感じ取っていないのか? それとも、こんなのはいつもことだと、そう言いたいのか? 敢えて無視をしているのか?



「……おい、栗宮胡桃」

「へいへいほー」

「やってくれたな、テメエ」

「Uh-huh?」

「…………言わなきゃ判らねえか?」

「栗宮は人の気持ちが分からない。天才だから。そして天災でもある。神故に。ところがしかし、一般常識さえ持ち合わせていないのかと言われればそうでもない。察するにそのJoãoのことか?」



 …………なんだって?


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