856. 意味なんて無かった
山々にヒビが割って入るような痛々しい悲鳴。あまりに直球な『嫌い』というフレーズに、先に立ち問い質した有希も流石に狼狽える。陰口ならともかく、面と向かって言われるのは初めてだったからだ。
しかし、それ以上に余裕の無い文香のクシャクシャな泣き顔を前に、冷静を取り戻すまでさして時間も掛からなかった。むしろ有難いとも思う。
数日前。そして船上でも彼へ投げ掛けた一つのキーワード。世良文香が二か月弱。いや十六年間求め続けて来たものが、自身とさほど変わらないことを有希も気付いていた。
「……好き、なんですね。やっぱり」
「堪忍したってや……! ウチ、はーくんしかおらへんねん……はーくん抜きの自分なん、いくら考えても分からへんって……なぁ、頼むわ……ウチからはーくん取らへんといてやぁ……っ!!」
溢れ返った涙が芝生をぽつぽつと濡らした。夕陽に照らされる広場はそれなりの気温を保っていたが、彼女だけは真冬のように打ち震えている。
好きとかそうじゃないとか、なんでもいい。切り取り次第ではどこか投げやりにも聞こえる台詞だが、これ以上の真意は無いと有希も姉妹もようやく腑に落ちる。一連の逃避行に及んだ理由も大方説明が付いた。
「深い意味なんて無かったんですよね……心配して欲しかった、気に掛けて欲しかった。だから一人で旅に出て……探して欲しかったんですよね?」
曖昧な相槌を挟み、文香は人目も憚らず泣きじゃくった。彼女にとっての彼はもはや幼馴染や気になる異性という、その程度の括りで表せる存在ではなく。
物心ついた頃からあって然るべきもの。それをいよいよ失うかもしれないという恐怖が、今日の逃避行や大阪からの突飛な来訪にも透けている。
彼を失えば自分はいよいよ空っぽだ。地元大阪で出逢った部分的には頼れる先輩の助言が、今の文香には何より強く響いた。それ抜きでも誇れる自分を、アイデンティティーを見つければ良い。だから行動に出た。
それまでは良かったのだ。打ち合わせ通りに事は進んだ。だが文香は、一つだけ例の先輩から受けた助言を無視してしまった。
「随分と細かく指示されたのね。行先からなにまで全部……でも、一つだけ予定と違うわ。書置きは残すなって、しっかり言われてるじゃない」
失くしたことさえ忘れていたスマートフォン。文香はついぞ受け取れなかった。芝生へ置き直し愛莉は深くため息を溢す。
愛莉は物思いに耽る。恐らく日比野栞にとっての大きな誤算は、彼への強い執着を見誤ったことだ。これだけ彼に振り回され悩み苦しむくらいなら、一度距離を置いて違うことを考えるべきだと提案したのだろう。
チグハグで目的の見えない逃避行の原因はここにある。結局、文香は彼ありきのマインドを抜け出せなかった。
いや、抜け出せる筈が無いのだ。幼馴染という強力な縛りは、良くも悪くも彼女のアイデンティティーとして確立され過ぎている。
「なんとなく分かります。文香さん、本当は幼馴染、辞めたいんですよね。ちゃんと女の子として見て欲しいのに……方法が分からないんです」
「だから気持ちが着いて来ないんだ。姉さんやみんなを見て、自分一人だけ置いてかれた気になる……プライドが邪魔するんだ」
「プライド?」
「そう。自分たちには無いものさ、有希」
ホント怠いなあ。と軽薄な台詞を口ずさみ、真琴は文香のすぐ隣で膝を折りしゃがんだ。芝居掛かった盛大なため息を一つ拵え、続けてこのように語り掛ける。
「まぁ、自分が言えた口じゃないと思うケド……気持ちは凄く分かるんだ。楽だよね。幼馴染ポジション。どれだけ悩んでもそこに戻って来れば、あの人はちゃんと見てくれるから。妥協したくなるよね」
自身が、そして有希がそうであったように。彼女も幼馴染というある種の縛りから脱却しなければならない。勿論当人も分かっていて。
それ故の逃避行だった。だが心が幼馴染のままでは意味が無い。愛莉が言うような逃げているだけの現状に落ち着いてしまう。
ならば殻を破るための一押しは、やはり自分たちでなければならない。自ら撒いた大言壮語の後片付けが必要だ。真琴は更に口を開いた。
「誰も取ったりしないよ。あの人のこと。そもそも誰のモノでもない……いや、それもちょっと違うな。あの人の色んな一面を、みんなが少しずつ持ち合わせているんだ。先輩だってそのうちの一人でしょ?」
「…………せやかて、ウチは……っ!」
「分かってる。幼馴染じゃ、もう駄目なんだよね。それは先輩が自分で証明したこと。嫌いなんでしょ、イライラするんでしょ。みんなを見てると。それって、幼馴染じゃ自分たちに勝てないって、証明しちゃってるじゃん」
分かったような口を、と文香は一瞬だけ凄んで、すぐにその気を削がれてしまった。姉譲りの勝ち気な憎たらしい笑顔は、身に起こるすべてのしがらみを見抜いてしまっている。
「幼馴染であることは、先輩にしかない強みだから。自分たちは敵わないし。だから辞めないで良い。好きなだけ続ければ良いさ……でも、それだけじゃ駄目なんでしょ? じゃあどうするのって話」
「……分からへん、んなの……」
「嘘吐き。さっき自分で言ったじゃん。あの人しかいないんでしょ。だったらそれを正直に伝えなよ。変に着飾ったりしないで、ストレートに、そのままだよ……二人だけの話でしょ。他のみんなは関係無いさ」
「……せやけど、怖い……っ!!」
「怖くないッ! 逃げてたらなんも変わんないよ! 今まで辛かったことと、いま先輩が苦しんでいる理由は、同じようで全然違う! 言ったでしょ! ここが先輩のターニングポイントなんだよっ!!」
ほっぽり出された左手を掴み、真琴は強い口調で檄を飛ばした。息を呑む文香。ぐらぐらと揺れ動く曖昧な瞳と心は、少しずつ色味を取り戻していく。
「文香さん。勇気を出してください。怖いのは当たり前です。何かを変えようとしたら、その分傷付くし、痛い思いもします……でも、曖昧なままで居続けるのは、もっと痛いし辛いんですっ!」
空いた右手は有希が掴み取る。彼女にしても一人で立ち上がったわけではない。親友から向けられる時に厳しい言葉や態度が、彼と向き合う勇気の、強さの一片となり。ようやく前を向けた。変化を許容出来たのだ。
一方、文香はまだ一人で闘っていた。有希に出来ることは一つ。ただ救いの手を差し伸べるのではない。彼女の強い執着を、想いを受け止めて、より良い方向へ。同じ場所へ共に進むだけ。
「文香さんなら、絶対に出来ますっ! 逃げちゃダメです、向き合うんです! 前に進むには、対等になるには……勝負しないといけないんです! 闘わないといけないんですっ!」
「そーゆうこと! 負けっぱなしで終わんなって、さっきからそう言ってるんだ! 勝ちに来なよ! 自分たちにも、先輩自身にも! あの人にだって!」
彼に対してだけではない。有希も、文香も。そして姉妹も。年齢や生まれ育ち、立場に関わらず、同じ世界を見据える必要がある。
それこそが真のチームで、対等な関係。ターニングポイントだったのは文香だけではない。フットサル部という様々な面で肥大した集団が、再び一つになれるか。その結末、行く末が、世良文香に委ねられたのだ。
「…………タイムアップね。来たわよ」
淡々と呟いた愛莉の背後から、それはもう恐ろしい、試合や練習でさえここまで本気で走ることは無いだろうという全速力で忍び寄る影が一つ。
伸びているのは夕陽に当てられた影の筈だが、彼女には光に見えた。真っ暗だった世界に差したソレは、あまりに眩く直視するにも危うい。考えも無しに飛び込むべきかついぞ分からず、文香はまだ二の足を踏んでいた。
それを合図に、二人はいちにのさんで文香の両腕を抱え上げ、無理やり前へ競り出した。まだ渋っているようなら、無理やりでも一歩進ませてやる。意識せずとも固く誓われた覚悟が、二人を突き動かした。
「――――文香ッ!!」
なんて必死な顔なのだろう。自分のことなんて見えていないかのようだ。とんでもなくシリアスな場面だというのに、愛莉は思わず笑いそうになる。
あっという間に背中しか見えなくなった彼を見つめ、愛莉はようやく肩の荷を下ろした。まぁなんとかなる。だってハルトだから。という具合で。
要するに、なにも起こっていない。始まってもいなかったのだ。取りあえずこの助長で、笑いどころの無い失踪劇だけが終わる。それだけは分かった。
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