837. 好きだったんだ
「前に進みたいんです。わたし」
まっさらで穏やかな笑みに涙の影は無い。憑き物が取れた、とはまさにこのようなことを言うのだろう。一拍だけ置いて、有希は語り出した。
「廣瀬さんが、他のみんなと仲良くしていること。ちゃんと恋人になったこと。本当は、すっごく嫌でした。不満でした。一番昔から廣瀬さんを知っているのはわたしなのに、どうしてこうなったんだろうって……」
「……でも、当然のことなんです。だってわたしは、廣瀬さんに恋をして貰えるほど、正直になれませんでしたから。努力もして来なかったんです。一緒にいるだけで満足して……ずっと廣瀬さんの後輩の、年下のままでした」
「そういう自分が嫌で、ママにお願いして家も借りて貰って、もっともっとアピールしなきゃって思って……でも、それじゃ意味が無かったんです」
「だって、恋愛は一対一じゃないですか。どっちかが上で下とかじゃないんです。なのにわたしは、結果的に下でいることを認めるような、そういうことばかりして来たんだなって……気付きました」
「……対等じゃないことを望んだのは、わたしの方なんです。一番嫌なことの筈なのに、そっちの方が楽だからって、どんどん流されて行って……廣瀬さんも克真くんも、マコくんのことだって傷付けちゃって……っ」
「…………だから、一旦終わりにします。今の自分が好きじゃないのに、誰かに好きだって言って欲しいなんて……そんなの、甘えています。卑怯です。ズルいんです……ッ」
真っ直ぐ差し向けられた熱い瞳。二人きりの空間には到底似合わぬ、恐ろしく鋭利な言葉。その節々を噛み締めるように、有希は息を呑み喉をしならせる。
散々覚悟がどうこう捏ね繰り回して、結局先手を取られてしまった。もう諦めよう。いつまで経っても俺は俺。受け身に回るのが常なのだ。早坂有希を前にしては尚更。一人落ち込んでいる場合ではない。
「……ごめんな。言わせちゃって」
「良いんです。順番は関係ありませんからっ……廣瀬さんも、同じなんですよね」
「たぶん。ほとんどな」
はぐらかすように言ってはみたが、もはや彼女を前に一切のフィルターは機能しない。自ら望んだのだから。
ならば正直に伝えよう。もう言葉を濁すことも無い。数時間前まで欠けていた勇気は、彼女と、克真と、そして真琴と。何より自分自身に与えて貰った。
「……好きだった。本当に、好きだったんだよ。初恋だった。実は部のみんなより先に、俺のことをサッカー抜きで見てくれて、男として扱ってくれて……可愛い子だから恥ずかしがってただけで、すっごく嬉しかった」
「…………はいっ」
「妹みたいだっていうのも、確かにあったけど……それ以上に有希は俺にとって、本当にただただ可愛くて、魅力的で、女の子だったよ。これだけは本当だから」
「……はいっ、はい……! 分かってます、分かってます……っ!」
すべての結末を悟り、ついに溜め込んでいた涙が溢れ返った。どれだけ毅然と構えていても、まだ十五歳の少女だ。受け入れられるものではない。
しかし、少女のままではいられない。そして俺も、少年のままではいられなかった。二人が男と女になるために、避けては通れない道。
拗れた結果とは思わない。最初からこうなると決まっていたのだ。恋の寿命が尽きていたことを認め、今この瞬間、ようやくたどり着いた。
「……俺も一緒や。年上で、先輩で、兄貴みたいな存在でいることを……今日まで辞めようとしなかった。恋だと認めたら、何かが壊れるんじゃないかって、ずっと恐れていた。その何かが分からない癖にさ」
「そんなもの一つも無かったって、最近やっと気付いたんだ。みんなのおかげで。でも……気付いた頃には、もう恋ではなかったんだなって。家族みたいに大切で、大事な存在で……気付いたら収まって、そこから逸脱出来なくなった」
初恋は初恋だ。
恋とは、愛とは違う。
憧れや渇望、醜い欲求すら一纏めになる。
有希が弱い自分を受け入れられないのと同様に、俺もまた、過保護な接し方や独占欲を捨てなければならない。それは彼女を下に見ていると同義だから。
あの日の比奈の言葉を借りるのなら、暗闇の中をドライブするのは俺一人で、有希は後部座席に乗っているだけだった。
いや、乗せているつもりなだけで、実際は誰も居なくて。空っぽの席を堅いシートベルトで縛っていただけ。
だから、終わらせる。
一年に及ぶ長い保留に、結論を出す。そうすることで俺たちは、初めて前を向ける。初恋を終わらせられる。対等になれる。
「ごめん。有希。今の俺は、有希のことを好きだって、自信を持って言えない。一年も保留にして、本当に申し訳ない。けど…………でも、ごめん」
「…………はいっ」
泣いているのに、有希は何故か嬉しそうだった。そう見えるだけ、俺の勝手な解釈かもしれないが、不思議と思わずにいられなかった。
俺も俺で妙にスッキリしている。肩の荷が下りた、ともまた違くて、ただなんとなくポジティブな気分だった。
きっと、お互いに分かっていたからだ。これが後退でなく前進であることを。そして、終わったからこそ始まるものがあると、やはり分かっていたから。
「最後に……一つだけワガママがあります」
「……ん。なに?」
「いえっ……そういう言い方も、これからは止めにしますっ。だって、わたしが勝手に始めることで……廣瀬さんの許可は、いちいち要らないですから」
部屋着を捲くってゴシゴシと涙を拭き取る。真っ白なお腹がちらりと見えて、凝りもせずドキッとした。
抜けてはいるがだらしないことをはしない、というか出来ない子だ。あんまり見たことない姿で、余計に意識してしまう。
こんなところもきっと、彼女の変化と成長の表れなのかもしれない。裾をギュッと掴んだまま有希はこう続けた。
「わたし、諦めませんっ。廣瀬さんがそう思っていても、わたしの気持ちは……ずっと変わりませんから。むしろ、今こそ燃えてますっ。何が何でも手に入れてみせるって、そういう気分ですっ」
「……う、うん」
「一回フラれたからって、諦められるような安い恋じゃないんですっ。楽しくて幸せな思い出で片付けられるほど、肝も据わってません……っ!」
「お、おう……?」
力の籠った熱弁にただただ頷くばかり。去年の夏も同じような内容を聞いた。根拠の有無はともかく勢いと推しは強い。こればかりは彼女らしさみたいなもので、多分今後も変わらない。
いや、そうじゃないな。根拠ならある。
自身の力不足を。及ばないものを認め、一度敗れたからこそ。まだまだ底の見えない沢山の伸びしろに賭けることが出来る。自信を、勇気を持てる。
「廣瀬さんが言ったんです。これからも好きでいて良いよって……だからっ、そうします。もうちょっとだけ、好きなままでいますっ!」
「……で、どうすんの?」
「簡単な話ですっ。今度は廣瀬さんの方から告白させますっ! やっぱり好きだから付き合って欲しいって、頭を下げて貰うんですっ!」
興奮のあまりベッドから立ち上がり、鼻息荒くこちらへ振り返る。喜怒哀楽、全部混ざっているようなグシャグシャの顔だ。
ああ、有希らしいなって、思った。
打たれ弱いけど、でも凹たれない。普通にしていればよっぽどただの美少女なのに、変なところで気を張って空回りして。ちょっと優しくするとすぐ元に戻る。愛と幸福と赦しに満ち溢れたポジティブの塊。
こんな彼女に、俺はずっと憧れていた。何もかも眩しくて、魅力的だった。沢山の元気を、勇気を、幸福を与えてくれたんだ。
やっぱり好きだったんだ。有希のことが。
ホントに、本当に好きだったんだ……。
「だって、好きなものは好きなんですっ! 恋に気付いたあの日も、上手く行かなかった一年も、フラれちゃった今だって! このドキドキも、貰ったパワーも、幸せな気持ちも、絶対に噓じゃないからっ!」
「ダメダメなわたしも全部認めて、ちゃんと直して……もう一度戦うんです! 戦い続けるんですっ! それがわたしの理想で、現実なんですっ!!」
「今度こそ大人に、対等になって、廣瀬さんを迎えに行きますっ! 絶対に、絶対に……絶対に諦めませんっ!!」
真正面から啖呵を切る。修学旅行にも似たようなことを話していたが、あのときとはまるで違う。無理に背伸びして、皆に追い縋っていただけの有希とは。
俺たちの初恋は終わった。甘いロマンスには到底事足りない、考え得る限り最悪のバッドエンド。
でも、終わっただけじゃない。
また一つ、新しい恋が始まる。
「じゃあ、待ってるよ。有希」
「いえっ、待たなくて結構ですっ! 勝手に追い付きますからっ! そして抜かしますっ! あっという間ですよ! わたし今、すっごく成長してますからっ!」
「抜かしてどうするんだよ」
「そのときは迎えに行きますっ!」
いつもと同じ流れだ。好き勝手やられてペースを握られる。これといって対策の無い俺は苦笑いで切り抜けるばかり。
こんな日々が暫く続くだろう。
でもきっと、有希の言う通りになる。
いつまで掛かるかは分からない。
でも、予感はある。
俺も頑張るよ。有希。愛想尽かされないようにさ。もっともっと格好良くて、マトモな男でいられるように努力するから。
だから俺も、一つだけ我が儘。
出来るだけ、近くにいて欲しい。
そうしたら、必ず思い出せるから。いや、思い出さなくても良い。今よりずっと成長して、ずっと大人っぽくなって、同じ目線に立っている早坂有希を。
一人の女性として、もう一度好きになれる。
愛していると、心から伝えられるから。
「……また、ですかっ?」
「うん。なんか止まらんわ」
「えへへっ……わたしもですっ。嬉し泣きでもないのに……すっごくスッキリしてるのに、どうしてなんですかねっ……?」
「人体の不思議だよな」
「廣瀬さんの方が、よっぽど不思議ですっ」
「どっちがだよ」
止まっていたシャワーが再び流れ出した。聞かないとか言っておいて、興味津々じゃねえか。まったく。
だったらよ、もっとしっかり流してくれ。おかしいんだ。こんなに暖かくて、幸せな気持ちなのに。
何故だろう。涙だけは零れるんだよ。
笑いながらも、やっぱり、どうしても。
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