836. 正直にならないと
階段を上ると玄関脇の給湯器が甲高い悲鳴を挙げていた。ユニットバスは通路側だからシャワーを浴びていたらすぐに分かる。女性の一人暮らしには不用心この上ない。
ということは、こちらが出掛けている間にだいぶ落ち着いたのだろう。釣り合いを取ろうとしたわけでもないが、なるべく平淡でソツの無い声色を意識しユニットバスの扉を叩く。
「部屋で待っとるから。ゆっくりしてな」
「あ?」
「困ったらすぐに言えよ。さっきまでフラフラしとったんやから」
返事は期待していなかったが、有希にしては随分と乱暴というか適当なリアクションだ。あのくぐもった中性的な声はむしろ……。
「まっ、待ってくださいッ!? まだ服が!?」
「おっと!?」
酷く取り乱したその人物が内ドアの先にいたもので、二重の意味で驚かされる。脱ぐ途中だったと思わしき部屋着を胸元にかき集め飛び上がる有希。
慌ててドアを閉め玄関先へ逃げ込む。と、ユニットバスから望外の人物がひょっこり顔を出した。まぁ一連の流れでだいたい分かってはいたが。
「……インターホン押すか、ただいまくらい言ったらどうなのさ。仮にも女子の家なのに」
「それはその通り過ぎるが……なんでいる? そして何故シャワーを?」
「和田と出て行ったのが見えたから、様子見に来た。やっぱどうしても気になっちゃって……そしたら馬鹿みたいに泣いてるから、だいたい話聞いて、落ち着いたからグラタン食べさせて……溢した」
「なるほど」
「火傷とかはしてないから。有希が変に気ィ遣っちゃって……まぁアレだよ。だったら一緒にシャワー浴びちゃおうって、なんかそういう感じになった」
互いに気を遣って『火傷でもしていたら大変だよ』『寝汗掻いてるでしょ』と主張した結果か。で、先に真琴が浴びていたと。
「一応、愚痴っぽいのは全部吐き出させたから。後はやることやってね」
「……悪いな。嫌な役やらせて」
「別に。良いよ気にしないで。半分は興味本位だし……いやでも、マジで感謝して欲しいケドね。最初の方ロクに会話成立してなかったから」
「そんなに?」
「そんなに、だよ。ったく、どうすりゃあそこまで有希を困らせられるのさ。やっぱ性格合ってないんじゃないの? 二人とも」
ぶっきらぼうに言い放ちドアを乱暴に閉める。どうやら出掛けている間に相当骨を折ってくれたようだ。
確かに今さっきの有希、いつもの彼女とさほど変わらない感じだったな。言いたいこと言って元気になったってわけか。
「……めちゃくちゃシャワー流すから。なにも聞かないし聞こえないから」
「ん。分かった」
「すっごい長風呂するから。本当はすぐにでも出て行きたいケド、髪の毛濡らしちゃって出るに出れないだけだから」
「はいはい」
「……どうなっても、絶対に助けてあげないから。全部兄さんの責任だよ」
「分かってる。ありがとな」
「べ、別に……言われる筋合い無いしっ」
給湯器が一層煩くなって、シャワーカーテンが水圧でダバダバと音を立てている。だが少しすると両方とも勢いが収まった。なにも聞かないんじゃないのかよ。まぁ良いけどさ。
これ以上力は借りないつもりが、更にお膳立てされてしまった。とはいえ道筋通りか。二人で何をどこまで話したかは分からないが、俺が克真を必要としたように、有希にも真琴の言葉が必要だったのだろう。
「……入るぞ。有希」
「はいっ、どうぞ」
今度はしっかり声を掛けて再入室。着替えはやめて元の格好に戻っている。とても落ち着いた様子でベッドに腰掛けていた。
なんだか懐かしい光景だ。家庭教師をしていた頃は、実家の部屋に入るときちゃんとノックをしてから入って、そしたら机の前の椅子に彼女が座っていて。
あの頃との違いを。変わらない関係、変わってしまった距離感を改めて突き付けられたようで、酷くもどかしい。
「グラタン、こぼしちゃいました。ごめんなさいせっかく作って貰ったのに」
「ええよそんなの。火傷しなかったか?」
「わたしは大丈夫ですっ。こぼしたのマコくんですから。食べさせるって言って、ふーふーしてたら膝に落ちちゃって……すっごい面白い顔してたんですよっ」
よほどコミカルな絵面だったのか、先の出来事を思い出しクスクスとおかしそうに笑う。ベッドを優しく叩いて『ここに座って』と有希は促す。
数十分前の狼狽ぶりが嘘のよう。目元こそ涙の跡で少し腫れているが、顔付きは実にスッキリしている。真琴の苦労が窺えるというものだ……。
「克真くん、来てたんですね」
「ああ。宜しく言っといてくれってさ」
「じゃあ、宜しく言われましたっ」
唇をキュッと結びこくんと頷く。埃一つ見当たらないカーペットをジッと見つめ、有希はゆっくりと話し出した。
「はじめてマコくんと喧嘩しました。もう仲直りしましたけどっ……すっごい色々言われました。それで、わたしも言い返しちゃって。でも、ちょっとスッキリしたっていうか、楽しかったかもです」
「どんな話を?」
「うーん…………素直になれ、的な?」
「ふんわりやな」
「途中からもう、喧嘩するのが目的みたいになっちゃって……正直あんまり覚えてないんですっ」
照れたように微笑む。真琴の言う素直は長瀬家独特の感性から来るものだから、有希の考えとは相容れないよな。まぁそれはともかく。
聞かなくたって分かる。真琴の言いたいことは一つだ。どうして軽率にデートなんてしたんだと、おおよそそのようなことをぶつけたのだろう。一連の流れに真琴はまったく関与していないから、その辺りも不満だったに違いない。
そして有希も『そう単純な話じゃない』と反発して、先に俺へ話した内容を打ち明けた。互いの事情を知る俺からすると、折り合いを付け仲直りをするのは中々に大変だったようにも思うのだが。
「でも、おかげで色んなことが分かりました。わたしとマコくんでは、廣瀬さんに求めるものが違ったんだなって」
「求めるもの?」
「ずっと不思議だったんです。廣瀬さんのこと、兄さんって呼ぶじゃないですか? 変だなぁって思ってたんです」
「まぁ変ではあるな。赤の他人を兄貴呼ばわりは。間違いなく」
「それもそうかもなんですけどっ……だって、兄さんなんて呼んでいたら、本当にお兄ちゃんになっちゃうかもしれないじゃないですか。マコくんだって、みんなと同じように廣瀬さんのこと……っ」
噛み締めるように深く頷く。そう、これが有希と真琴の違い。あくまでも俺と対等に渡り合いたかった有希と『とにかく距離を縮める』『隣に居られるなら立ち位置でもなんでも使う』というスタンスの真琴。
「実はわたしたち、廣瀬さんのことをどう思っているのかって、ちゃんと話し合ったことなかったんです。お互いに『好きなんだろうなぁ』って察してるだけで……マコくんは全部分かってたと思いますけどね」
「で……納得した?」
「はいっ。マコくんの考え方も、それはそれで全然良いと思います。って、なんだか上から目線ですけどっ…………ただ、やっぱり……」
違いを認めることが出来たからこそ、自身の求めるもの。そしてそれが極めて難しい、現実的ではない道のりであると気付くのだ。
彼女はもう気付いている。どれだけ望もうと叶わないことを。本当は伝えるまでも無い。足りなかったのは俺の覚悟だけだ。
「……明日、克真くんに謝ります。中途半端な気持ちでデートしちゃったことと……付き合うとか、そういうのは出来ないって。クラスのみんなにも、ちゃんと説明します」
「……そっか」
「いつだってわたし自身の問題なんです。マコくん、さっきこう言っていました。心がブレているから、行動もブレるんだよって……だから、一本筋を通さないといけないんだなって。自分の気持ちに、正直にならないとって……ッ」
落ち着いていた筈の声色が震え出した。
何度も息を飲み呼吸を整える有希。
認めた以上、ハッキリと意思表示しなければならない。そうしろなんて誰も言っていないし、人々は皆、必死になって隠し通すものだけれど。
俺たちは違う。伝えなければならない。このこんがらがった関係を正しい場所へ導くために。本当の意味で幸せになるために。笑えるようになるために。
誰も得しない恋人ごっこを。
今この瞬間、終わらせなければならない。
ふりだしへ戻るんだ。
前へ進むために――――。
「廣瀬さん。わたしを、フッてください」
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