835. すべての曖昧


 何度目かの快速電車が肩を通り過ぎる。早くも元の長さまで戻り掛けている鬱陶しい前髪が風圧でぱらぱらと靡いて、克真の驚く顔を綺麗に隠した。


 彼女と出逢ったのはちょうどこれくらいの長さの頃だ。少し遠くで鳴る踏切の警笛は、丸一年間の思い出を走馬灯のように思い起こさせる。



「……先輩も、なんですね」

「意外か」

「ちょっとだけ……でも、分かる気がします」

「分かる?」

「偶に練習混ぜて貰うとき、なんとなく思ってたんです。先輩の、早坂さんに対する視線って言うか、態度と言うか……やっぱり特別なものがあるのかなって」

「……まぁ、そうなんだろうな」


 体育祭のお昼休み。二人きりで倉庫に忍ぶ有希を前に悶々としていた俺へ、比奈はこう言った。理由はともかく、彼女に何らかの壁を作っていると。


 そして俺はこう結論付けた。家庭教師と教え子という元々の関係性。妹のような距離感。二つの歳の差。有希の言う『子ども扱い』はこれらに起因する遠慮から来るもので、有希を異性として意識していない裏付けでもあると。


 だが、違った。遠慮しているように見えるのは、あくまでも当事者たる有希や女性的感性に長ける比奈の主張である。

 拭い切れない違和感、心のつっかえがずっと残っていた。頭で理解していても、心が追い付いていなかった。



「そろそろ戻るか」

「……起きてますかね?」

「さあ。顔出すのか?」

「……いや、やめときます。変な気起こして怖がらせるのも嫌なんで」

「分からねえよな。その辺の距離感って。俺も初めは手探りで大変やったわ」

「あはは……先輩と言えどもそこはそうなっちゃうんですね。いやマジで、ホント難しいですよ。女の子って……っ」


 克真の気持ちが染みるように分かるのだ。当時の俺も同じだった。中学生のただただ可愛い女の子、早坂有希に対しどのようなアプローチを取るのが正解か、初めの数週は酷く苦心した。


 取って食おうという気は一切無かったが、理解する努力だけはしようと思ったのだ。大家さん伝手に貰った望外の仕事、それも最初のコンビニバイトで大失敗していた分、次こそ上手くやってやろうと気を張っていた面もある。


 他人に一切興味関心の無い皮肉屋気取りの性悪野郎、廣瀬陽翔が史上初めて『せめて嫌われないようにしよう』と意識し、能動的にコミュニケーションを取ろうとした存在。それが有希だったのかもしれない。



(食われたのは俺の方やけどな)


 自分でも驚くほど簡単に、あっさりと心を許してしまったのは、なにも彼女の積極的なアプローチだけが理由では無い。俺は俺なりに人間を、女性を、早坂有希を理解しようとして。受け入れようとして。


 その過程で、俺に無いものを沢山持った子だと痛いほど突き付けられて。それが羨ましくて。憧れて。もっともっと、彼女を知ってみたくなって。



「俺も有希が初めてなんだよ。色々と」

「……どこが、好きだったんですか?」

「なんかこう、暖ったけえんだよな。居心地良いんだよ一緒にいると。凄い伝わって来るんだわ。人に対する愛情って言うか」

「……それ、すっげえ分かります」

「なのによ。なのに、二人っきりになると急に女っぽい顔するんだよな。アイツ。あれか、ギャップってやつ?」

「それもメッチャ分かります……っ」


 上ずった声を鳴らし克真は何度も頷く。


 彼女の暖かさや優しさに救われ、心を奪われたのは俺だけではない。真琴もきっとそうだったのだろう。

 良くも悪くも有希はいつも有希。だから安心する。隣にいると落ち着く。ところが、偶に刺激的で目を離せない。


 克真の気持ちも、あと一歩勇気の出ない現状も。凄く分かる。共感する。上手く言葉に出来ないけれど、早坂有希を前にすれば男は皆こうなるのだ。


 これ以上の深入りや狼藉が許されるのか。普遍的な優しさに甘えて、結果的に傷付けるだけなのではないか。無意識のうちにブレーキが働き、最後の壁を越えられない。



「今はもう……違うんですか?」

「いや。今も好きだよ。でも多分、恋ではなくなったんだと思う」

「……どういうことですか?」

「オレ、ずっと家族が欲しかったからさ。大事にし過ぎたんだよ。有希のこと。絶対に手放したくないから……だから、恋から逃げた。向き合ったら、結論を出さなきゃいけないから。曖昧なままにしていた。アイツが一番嫌いなことだよ」

「……なる、ほど」


 肩を竦め、咀嚼するように頷く克真。彼に分かるのは言葉の意味だけだろう。同じ気持ちこそ共有しているが、求めるものは似ているようで異なる。


 ちんたら歩いていても進めば近付く。アパートが見えて来た。これくらい単純な話なら悩みもしなかったが、現実は違う。ただ一緒にいるだけでは、想い合うだけでは重ならず、ここまで来てしまった俺と有希。


 変化が必要だ。変わったもの、変わらずにいたものを認め、前に進まなければならない。伝えなければならない言葉がある。



「……明日。明日、早坂さんが学校に来れたら……ちゃんと告白します。正直、結果は見えてますけど……」

「時間を掛けるんじゃなかったのか?」

「それは、オレの都合ですから。変に困らせたり、悩ませるのも嫌なんで……結果的に困らせちゃいましたけどね」

「かもな。お前のせいや。ほとんど」

「否定してくれると嬉しいです……ッ」

「折り畳み傘くらい常備しとけよ」

「ですねっ……」


 お決まりの苦笑いがどこまで素面かは分かり兼ねたが、こればかりは彼の気持ち次第だ。俺がとやかく言う筋合いも無い。自分に気持ちが向いていないことを知ったまま片思いを続けるのは克真も辛いのだろう。


 一方、勝算が見えないからと試合を放棄したわけではない。彼も同様、現実と折り合いを付け前に進む必要がある。為すべきことをするだけだ。



「今から十秒間、治外法権だから。ここ」

「は?」

「好きなだけ罵倒しろ。文句は言わん」

「……い、いやいやいやっ」

「ええから、言え。なんでも」


 とはいえ頭だけでは追い付かないものもある。彼の悩みは俺さえ居なくなれば99パーセント解決するのだ。サンドバッグ役くらい担ってやりたい。一度の非難で許された気になろうとは愚かな腹の内だが。



「…………いや、ホントにマジで、先輩に悪い感情とか全然無いですよ」

「んだよ。優し過ぎかお前」

「すいませんっ……でも、本当にそうなんです。それに、早坂さんのことを好きになれたのは、廣瀬先輩のおかげでもありますから」

「俺の?」

「顔がタイプとか性格が合うとか、それだけじゃ好きになれなかったと思います。きっと、先輩のことを見ている早坂さんが……すっごく幸せそうで、キラキラ輝いていたから、だから惹かれたのかなって」

「……そっか」


 馬鹿にスッキリした顔で唇を噛む。悪どい企みも無に帰してしまった。本当に出来た奴だ。俺の性根の悪さが対比で浮き出るからやめてほしい。



「むしろ感謝してるくらいです。この二か月くらい、オレもすげえ楽しくて、幸せでした。出逢ったキッカケも何だかんだで先輩ですし……ホントに、ありがとうございます」

「アホ。よせや。惨めになるわ。あれか、逆にそういう戦略か? 性格悪いな」

「違いますって、勘弁してくださいッ…………だから、その。一個だけ言うとしたら……全然、罵倒じゃないですけど。でも、お願いならあります」

「もう十秒経ったぞ」

「いえ。やっぱり言いたいことあったんで。これだけは言わせてください」


 立ち止まり一つ深呼吸。生真面目な彼の中でも指折りの真っ直ぐで強い視線をぶつけられ、足元が少し揺れる。


 上手く言えないけれど。とても良い表情をしていると、そう思った。すべてを受け入れ、前に進もうとしている。いや、今この瞬間から進み出した男の顔だ。



「早坂さんの、笑っている顔が好きです。大好きです。オレに向けられたものじゃないけど……でも、好きです」

「……それ、明日本人に言ってやれよ」

「はい。勿論言います。だから先輩は、オレに出来ないことをしてください。泣かせるなとか、幸せにしろとか、そんな大したことじゃないんです。ただ……これからも早坂さんが、笑顔でいられるように……」

「やることやれ、って?」

「……はい。お願いします」


 深く頭を下げると『宜しく言っといてください』と一言、角を曲がりアパートから離れていく克真。やけに整った姿勢の良い背中を、暫く見つめていた。


 一本取られてしまった。まったく、どっちが先輩が分かったモンじゃない。もし立場が反対だったらとても言えねえや。あんな台詞。



「ありがとな。克真。ごめんな」


 消え入るような呟きは、きっと彼には届かない。聞きたくもないだろう。だから十分だ。謝るのも、力を借りるのもこれでおしまい。


 さて。戻って来たわけだが。

 あともう一歩だけ、戻るか。


 終わらせよう。すべての曖昧を。

 そして、もう一度始めるんだ。


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