833. クロッシング・ポイント
「……対等に」
「分かってます! 認めますよ! わたしはずっと、廣瀬さんの後輩でしかなかったんです! 年下だったんです! 甘えていたんですっ!」
息を切らしわなわなと肩を震わせる有希。その言葉の真意を咀嚼する暇も無く、彼女は更にこう続けた。
「年下も、妹扱いもイヤだって、わたしが言ったのに……慣れちゃったんです。甘やかしてくれるのが嬉しくて、心地良くて……変われなかったんです。変わるのが怖かったんです……っ!」
「……そうですよ。廣瀬さんの言う通りです。克真くんのこと、ちょっと気になってました。みんなに応援されて、克真くんの気持ちを知って……これが本当の恋愛なのかなって、思いました。思ってました!」
「でも、やっぱり違うんですっ! 好きでいてくれるから、わたしも好きになるんじゃ、ただの甘えなんですっ! だったら、わたしの気持ちはどうなるんですか!? また与えられて、甘えるだけなんですっ! それじゃダメなんですっ!!」
「なのに、なのにっ……! わたし、また甘えちゃったんですっ! みんなに優しくされて、自分の気持ちに噓ついて……楽な方に流れて!! 一番大事な気持ちも、全部ぜんぶ無視して……!」
「…………もう、なんにも分かんないです。めちゃくちゃなんです……! どうすれば良いのか、分からないんですよぉぉ……っ!!」
嗚咽が止まらない。暴れ狂っていた両腕もいつの間にか胸元へ収まり、襟元をギュッと掴んで顔が見えないよう俯いている。
自分以上に取り乱した彼女を目の当たりにし、少しだけ冷静になっている。だがあまり効果は無い。正直なところ、彼女の言い分はしっくり来ない。
なにも分からない。つまるところこれが正解だろう。この一週間で起きた出来事と彼女の心境がすべてリンクするかと言えばそんなことはなく。様々な情動が揺れ動き理路整然に解釈するのは当人であっても難しい。
(対等……か)
唯一手掛かりがあるとすれば、これだ。俺と有希の現在地は、まさにこの一言をぞんざいに扱って来たが故の結果である。
結局、俺は有希を可愛い後輩としか扱っていなかったし、同様に有希も単なる後輩でいることが心地良く、その地位に甘んじていた。
それで収まれば良いものを、恋愛感情が絡んで来たばかりにこじれている。
曰く、克真に好意を寄せられ気持ちがグラついたのは『甘え』であるらしい。
恐らくそれは、努力するまでもなく彼が『対等な存在』だったからに他ならない。
仲の良い同級生、一緒に過ごす時間の多さ、サッカー部との試合で培った信頼関係……要因は多々あるだろうが。
「体育祭のときも言ってたな。与えられてるだけじゃ駄目だ、自分で勝ち取らないとって……だからわざわざ個人賞に拘ったのか」
声にならない声を挙げ神妙に頷く。
そう、そこまでは良かった。愛莉にタイマンで勝ってクラス選抜リレーを優勝へ導き、目当ての個人賞も手に入れた。克真との仲を見せ付け俺を嫉妬させる……すべて予定通りに進んでいた。
ところが例のクラスメイトたちに、その姿勢を酷く糾弾されたという。
言いたいことはハッキリ言う性格だが、流され易い一面もある有希。恐らく彼女たちに『あの先輩じゃ駄目だ』と相当強く念を押されたのだろう。
有希の気持ちは一つ。俺を異性として好いている。とにかく一緒にいたい。あわよくば恋人になりたい……伝えてくれた通りだ。ずっと変わっていない。
その一方、周囲の圧力に翻弄され、楽な方へと流れてしまう弱い自分がいる。気持ちを貫き通せない悔しさと、克真の気持ちを利用するような形になってしまった現状がごっちゃになり、自己嫌悪と罪悪感でいっぱいになっている。
(……で、俺にどうしろってんだよ)
酷く無責任なフレーズにも聞こえるが、本当に分からなかった。こればかりは有希の問題だ。彼女自ら殻を破るしかない。
それに、もう気付いてしまった。有希に対する感情は、他のみんなと同じようでちょっと違う。
もし仮に。本当に仮の話だけれど、皆の中から一人だけを選べと言われたら……きっと俺は、有希を最初に選択肢から外すのだろう。
その程度の気持ちで『好きでいてくれていい』なんて、とてもじゃないが言えなかった。ただでさえ多くの不誠実な関係を持ち続けている身分で、これ以上の狼藉が許される筈も無い。
(子どもなのは俺の方やろ。ホンマに)
なんとなく気付いている。涙が出たのは彼女に対する罪悪感が理由ではない。勝手に有希を『俺のモノ』だと勘違いして、それが事実ではなかったと知って、悔しくて泣いたんだ。
玩具を取り上げられて泣く子どもと一緒。日に日に増していく独占欲の表れに過ぎない。こんなの恋でも、ましてや愛情でもない。ただの執着だ。
色々考えてはみたけれど、結論が出る筈も無かった。俺と有希は最初から対等では無く、様々な壁が、高低差がある。それでいて平行線のまま。
ただ一瞬だけ、家庭教師と教え子という接点。人生のクロッシング・ポイントがあって。そこから一度も重ならない。だから答えなんて出ない。
なのに、どうして。
このモヤモヤは、なんだ。
だったら俺は、どうして有希へ執着していたんだ? 執着していたのに、こうも簡単に『恋ではなかった』と諦めてしまうんだ? 他のみんなとは違ったと、すぐに結論付けた理由はなんだ?
執着しているのは他のみんなにだって同じだろう。家族だなんだと分かり易い言葉で括り、皆の未来を縛っているのに変わりは無い。
それを受け入れているかどうかの違いで、愛莉やシルヴィアみたいに『それでも一番が良い』と言う子もいるし、有希だって俺のことを好いているのは一緒。そこにどんな違いがある?
自分で言っただろう。有希もみんなと同じ、家族のような存在だと。
それはみんなも同じで、一対一の関係に着目したとき、偶々恋愛に発展しているだけ。
駄目だ。分からない。理解するべきか、理解して良いのかも分からない。ただただ無性に気分が悪くて、居ても立っても居られない。
「……誰や?」
その時だった。これ以上の沈黙を時間が嫌ったかのように、それはもう抜群のタイミングで、インターホンが鳴った。
「……ちょっと見て来るな。一回落ち着いて、もっかい話し合おう。グラタン、そろそろ冷めてると思うから」
曖昧に頷いた有希を残しベッドを立つ。これ以上なにを話し合うのかという真っ当な疑問はさておき、他に適した理由も見つからず、こう言うしかなかった。
来客の正体はすぐに分かった。通話ボタンを切り玄関を目指す。一応、内ドアを閉めておこう。
有希のこんな姿を見せられるか、なんて、また不要な独占欲が顔を出していた。そろそろいい加減にするべきだ。でも、開け直す方が意識しているみたいで、そのままにしておいた。
「えっ……廣瀬先輩ッ!?」
「よう克真、おはようさん。なんやエライ顔して。隣に住んどるん知っとるやろ」
「それは……そう、ですけど……っ」
まさか有希の部屋から俺が出て来るとは露にも思わなかったのか。驚きのあまり着けていたマスクもズレてしまう。背後の柵までおろおろと後退り。
「……んな顔するなって。有希のご両親には世話になっとってな。色々助けてやってくれ言われとんねん」
「あぁ……そう、なんですか」
「有希なら寝とる。寝顔でも見とくか?」
「いっ、いやいやいやっ!? そんなこと出来ませんよっ……あ、でもこれを……」
ビニール袋をおずおずと差し出す克真。冷却シートと数本の栄養ドリンクが透けている。制服姿ということは、有希の病欠を知って学校から飛んで来たのだろう。心当たりもある筈だ。
……少し、聞いてみるか。
「克真」
「……は、はいっ?」
「散歩しようぜ」
馬鹿みたいに青褪めている。きっと恐ろしい顔をしているのだろう。
先に鏡でも見ておけばよかった。これだから俺という奴は、矮小な生き物だ。
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