832. 対等になりたい
「酷いこと……?」
「……利用、しちゃったんです。克真くんがわたしのこと、どう思っているのか……ちゃんと分かってたのに、それを利用して……っ!」
慟哭としか言いようのない痛々しい姿。罪悪感に押し潰され、彼女は呼吸すらままならない。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった布団はほんのりと暖かく、湿った空気が部屋中を巻き込むような昂ぶりへと変わりあちこちに蔓延していた。
数分の沈黙を待ち、有希はこの一週間で起きた出来事を事細かに話し出す。きっかけはクラスメイトとの何気ない会話。
「……分からなくなっちゃったんです。あんな風に廣瀬さんのことを言われたの、初めてで……自信が無くなっちゃって……っ」
挙げられた二人の名前には聞き覚えがあった。柴崎さんと今野さん。有希に連れられてフットサル部の体験入部に来てくれた子だ。
ただ、あまり良い印象が残っていない。二人とも部の空気には合わない子で、有希の友達という前評判も眉唾なくらいだった。クラスでどのような関係なのかは知らないけれど……。
(クズ、クズか……まぁ確かに……)
一方、二人の下した俺へ対する評価はそれほど間違ってもいない。フットサル部の、俺たちの関係性はハッキリ言って異常だ。
春休みに橘田から指摘を受けた通り、外部の人間には到底理解出来ないものがある。文香だって同じだ。雰囲気にこそだいぶ慣れて来ているとは思うが、腹の底では納得していないことも多々ある筈。
恐らく有希は、カモフラージュも無く正直に打ち明けてしまったのだろう。そのような指摘を受けるのも当然の流れ。
傍から見れば俺は『有希の気持ちを知りながら他の女に手を出す浮気野郎』以外の何物でもなく。
「そっか。それで克真を……やっぱり分かってはいたんだな」
「……四月の頃から、みんなに言われていました。その先輩より、克真くんの方がお似合いだよって……でもわたし、オリエンテーションまで気付いてなくて……」
ペアダンスで同じペアになったことも流れを加速させ、周囲からのプレッシャーも日に日に強まっていたらしい。事が大きく動いたのは体育祭の一週間前。個人賞云々の話をブチ上げた日の昼休み。
「バレンタインのときのことを思い出したんです。やっぱり二人に話しちゃって……そしたら、同じようにやれば良いんだって。押して駄目なら引いてみろって、そういう作戦だったんです」
「克真と一緒にいるところを見せて、嫉妬させようってわけか」
「……体育祭までは、本当にそれだけのつもりだったんです。ダンスのとき、廣瀬さんがこっちを見ているのも、気付いてました。こうすれば廣瀬さんの気が引けるんだって、答えを見つけた気でいたんです。調子に乗っていたんです……っ!」
当時の考察は七割方当たっていた。事実、ペアダンスに限らず克真と二人でいる姿を目撃した俺は大層焦っていた。彼女の策略にしてやられたというわけである。だが話はそれだけで終わらない。
「でもわたし、気付いてなかったんです……克真くんの気持ちを裏切って、利用していたってことに……っ」
「打ち上げで誘われたんだって?」
「……柴崎さんと今野さんに、すごく怒られたんです。ここまでアシストしてあげたのに、どうしてまだ先輩のことを考えてるんだって……それで……っ」
「罪滅ぼしのつもりでオーケーしたと?」
「はいっ……そしたら、わたしと克真くんしか集合場所にいなくて……廣瀬さんが言った通りです。最初からそのつもりだったんだと思います……」
力無く頷く有希。打ち上げでのやり取りを思い出したのか、面持ちには憔悴が積み重なる。
要するに、有希と友人たちの思惑には最初からズレがあった。単に俺の気を惹きたい有希と、あわよくば克真との関係を進展させたいクラスメイト。互いの意図を汲んだようで、実はまったく嚙み合っていなかった。
初めは俺のことを中心に考えていたが、周囲の圧力に屈した結果、克真の本気度を知り罪悪感を覚えてしまったのだろう。
単なる駆け引きの延長ではなく、やはり相応の理由と裏事情があってのお忍びデートだったのだ。何せ突然のことだったから『克真と出掛けて来る』なんて言い出せなかったのも理解の範疇。
克真の気持ちは俺もよく知っているし、策略込みとはいえクラスメイト同士で遊ぶつもりが結果的に二人になったのなら責めるわけにはいかない。だが、それよりも気になるのは……。
「俺が聞きたいのはさ、有希。有希がどう思っているかってことなんだよ」
「……わたしが?」
「自覚が無くとも克真の気持ちを利用してしまった。反省している。それはそれでええ。ちゃんと反省出来てるんだから。ただ、それだけかって話や」
有希は言った。克真だけでなく、俺のことも馬鹿にしてしまったと。克真に対する罪悪感一つならここまで気を落とすまでには至らない筈だ。
無断で他の男と出掛けたのが申し訳ない? いや、それだけでは到底足りない。もっと他に理由がある。俺と有希、二人の根柢に関わる問題が……。
「俺もちょっとだけ分かるんだよ。それこそバレンタインのときとか……シルヴィアと一緒にいる時間が楽しくて、みんなのことを忘れ掛けていたりさ。今となっちゃアイツも同じ括りやけど……分かるだろ? 言いたいこと」
「はいっ……克真くんのことが好きなのか……って、ことですよね?」
「……別に怒ったりしねえよ。そりゃ辛いけどさ……でも、有希の気持ちを無視して縛り続けるのは、もっと嫌なんだ」
正直に言うと、真琴に例の写真を見せられたとき『ああ、もう俺じゃないんだな』と、そういう気持ちになった。
花火大会の記憶が蘇ったのだ。あんな風に二人で写真を撮って、有希は本当に楽しそうで、幸せそうで。あれから何度も見返した。
同じだったんだ。その写真に写る有希と、克真の隣にいる有希が。
真琴相手には強がったけど、実はちょっと諦めていた。今し方の態度にも出ていたと思う。
「……それって……どういうことですか? わたしが克真くんのことを好きになっても、廣瀬さんは構わないってことですか……っ?」
「構うさ。構うに決まってんだろ。悔しくて死にそうだよッ……でも、仕方ないだろ。俺にはどうしようも出来ねえよ……ッ」
「……仕方、ない?」
むくりと顔を上げ、ジッと俺を見つめる有希。呆然ってこういうときに使う言葉なんだなって、馬鹿に冷静に物を考えている愚かな自分がいる。
「その友達が言ったこと、全部正解だよ。口ばっかりなんだ。有希のこと、大事に想ってるだけで、全然大事に出来ていない。有希の言う『好き』と、俺が有希に対して思ってる『好き』は、やっぱり違うんだよ……ッ」
純粋たる異性として好いてくれていた有希の気持ちを、俺はずっと無視し続けていた。いや、応えているようで実態はつもりなだけだった。
結局、俺にとっての有希は『家族のように大切な存在』だけで。女の子として、異性としては見ていなかったのだ。
中華街へ出掛けた日、彼女に放った『恋人ごっこ』という言葉がすべてを物語っていた。有希の気持ちを知っても尚、今日に至るまで曖昧な関係を続けて来たのは……俺の覚悟が足りなかったから。想いに応える自信が無かったから。
あぁ、そっか。そういうことか。
オレ、有希のこと好きじゃないんだ……。
「……また、泣いてる」
「ごめん……ごめん有希っ……! 俺やないよな、絶対に……俺が泣いてどうすんだよな……っ! 馬鹿にしてたのは俺の方で、有希は悪くない……なんも悪くないんだよ……ッ!」
物分かりの悪い子どもみたいに泣きじゃくる俺に、有希は酷く困惑していた。何の気なしに差し出された髪の毛を撫でる手は馬鹿に暖かくて。
やめてくれ。優しくするな。俺にそんな資格は無い。口だけの最低野郎をこれ以上甘やかすな。もうお前を裏切りたくない。悲しませたくない。
なんで泣くんだよ。意味分かんねえよ。本当に有希のことを考えているのなら、泣くんじゃなくて、笑ってやれよ。
俺より良い奴を見つけられて良かったな、幸せになれよって、暖かく見送ってやれよ。なんでそれだけのことも出来ねえんだよ。
家族なんだろ。大事なんだろ。恋人にはなれなくても、大切な存在なんだろ。だったら祝えるだろ。何も悲しいことは無いのに。
なんで涙が出るんだよ。
お前、おかしいって――――。
「子ども扱い、なんですね。やっぱり」
恐ろしく平淡な、粛々とした声で。有希は呟いた。聞いたことも無い冷たい声色に、嘘みたいな速度で涙も一瞬で引いてしまった。
「分かってないです。なにも。廣瀬さん、なんにも分かってないですっ……!」
「……有希……っ?」
「言いましたよねっ? あの頃と同じなんです。ずっと変わっていないんです……わたしの気持ちは、あの頃からずっと! ずっと同じなんですっ!!」
怒り任せに腕を突き伸ばして、ベッドに叩き付けられる。薄オレンジの髪を乱雑に降り揺らし、何度も何度も俺の胸板を叩く。
「イヤですっ! 廣瀬さんじゃなきゃダメです、廣瀬さんが良いんですっ! なのに、なのにっ……周りに流されて、ズルいことをして、勝手に勝った気になって……そんなんじゃダメだって、もっと正直になれって、叱ってくださいよぉ!」
溢れる思いの丈を込め、華奢な両腕を幾度となく振るう。彼女の感情的な姿を見るのは、これが二度目だった。一年前と何一つ変わらない、早坂有希がいる。
「……もう嫌なんですっ! 憧れてるだけじゃ、ダメなんです! わたしは廣瀬さんと……ちゃんと、向き合いたいんです! 対等になりたいんですっ!!」
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