831. 最低
半分は寝ぼけ眼の彼女に『廣瀬さんっ?』なんて甘ったるい言葉を掛けられてようやく我に返ったのだから、一体どれほどの長い時間、年相応の醜態を晒していたかいよいよ見当も付かない。
何もかも先走った気色悪い声で『なんかご飯探すわ』と誤魔化しにも足りない言葉を残し、俺はキッチンへと逃げ出した。たかがドア一枚の隔たりでは何の意味も無い徒労であると、屈んで冷蔵庫を開けた瞬間に気付いた。
(分っ……かんねえ……ッ)
有希の言う『同じ』が果たして如何ほどの信ぴょう性を持つのか、今の俺には到底理解へ及ばなかった。
この一年間ずっと隣にいた、変わらない真っすぐで純真な笑顔と、体育祭で見せた出来損ないの笑顔が。どうしても重ならなかったのだ。
『メチャクチャ浮気されてるんだケド。大丈夫?』
顔いっぱいに見えないしこりを膨らませた真琴の顔と、ふわふわと浮いたまま現実味に欠けるフレーズが脳内を埋め尽くしていく。
俺の見聞きせぬところで克真と逢瀬を重ねたのは疑いようの無い事実。昨日一日でどこまで進んだかは定かでないが、なんの感情も無い男と二人で出掛けるほど、有希は愚かな女じゃない。もう高校生だ。それくらいの分別は付く。
だったら、何故だ?
どうして彼女は、俺を受け入れる?
何もかも俺の勘違いで、お前の笑顔は誰に対しても向けられる普遍的なもので。勝手に一人のモノと決め付け胡坐を掻いていた、俺が悪いのか?
「……っ……」
電子レンジが止まる。今どき珍しいダイヤル式で、飛び切りのアイデアを思い付いたみたいな小気味良い音が鳴った。けれど、鳴っただけ。レンジの中でグラタンがぐつぐつと噴き出ている。やはり噴き出ているだけだ。
幾ら考えれど答えは闇の中。問題集に回答は載っていない。ならばもう一冊開いて正しい解を知るべきだ。やることはとっくに一つだった。
でも、怖い。知りたくない。
自分を棚に上げて良く言うものだ。俺の煮え切らない態度が原因で、有希も少なからず不満を持っていた。だからこうなったんじゃないか。いざ自分がその立場に置かれたら、見るに堪えないこの有様。
「……グラタン、ですかっ?」
「冷蔵庫に入ってた。お粥の作り方、分からなくてさ。まぁ食べやすいかなって……お母さんの差し入れ?」
「だと思いますっ。えへへ、最近あんまりお料理してなくてっ……文香さんの持って来てくれるお弁当が美味しくてつい……」
鼻をひくひくと動かし、うっとりと目を細めテーブルへ置かれたそれを眺める有希。少し喋っている間にだいぶ落ち着いて来たようだ。なんとも惚けた可愛らしい顔に、気も緩む。
彼女を前にするとどうにも油断してしまいがちだ。一点の曇りも無い眩い笑顔は、当時の冷め切った俺の心さえ暖めてしまうほど。
そんな彼女を真っすぐ見つめられない今の俺に、腹が立って仕方が無かった。油断していたんじゃない。実は。気を遣わなかっただけだ。最初から。舐めて掛かっていたんだ……。
「……食べさせて、くれませんか?」
期待混じりのか細い声。まただ。またこんなことを言って、俺を困らせる。
見切りを付けたんだろう。俺じゃない誰かから与えられた愛情が、盲目の恋から目覚めさせてくれたんじゃないのか。
これ以上期待させないで欲しい。見せ掛けの薄っぺらい愛情は、お前を失望させるだけ。今までもずっとそうだったんだろう―――?
「ごめん、ごめんな有希っ……」
「えっ……なっ、なんで泣いてるんですか!? どこか痛いんですかっ!? まさかっ、もう風邪が移っちゃったとか!?」
大の男が突然泣き出すのだから驚くのも無理はない。おろおろと差し出した両腕を遊ばせ酷く困惑している。
様々な感情が一気に押し寄せて来て、ついぞ堪え切れなかった。なんでお前が泣くんだよ、泣きたいのは有希の方だろ。傷付いているのは有希で、俺にその資格は無い。分かってはいたけど、どうしても止められなかった。
「わわわっ、ティッシュティッシュ……! ええと、どこに置いたっけ……!?」
立ち上がろうとした彼女の手を反射的に抑えた。許される最後の我が儘だ。これ以上迷惑は掛けたくなかった。
「廣瀬、さん……っ?」
「…………必要なものは、全部伝えておく。アイツも気が気じゃないだろうし……もう、帰るからさ」
「……ふぇっ?」
「ごめんなホンマ気ィ遣えんくて。俺やないもんな、こういうの……彼氏面されても困るよな……っ」
「えっ、えっ……!?」
「グラタン、まだ熱いから。冷まして食えよ。じゃあ、また部活で……」
いっぱいいっぱいの筈なのに、口だけは良く回る。毎度お馴染みの悪い癖。この手の甘え切った態度が彼女を困らせて来たのに、結局最後まで変わらなかった。
有希がずっと欲しがっていたのは、こういう優しさじゃない。他のみんなは許してくれても、彼女は、早坂有希は違う……。
「まっ、待ってくださいっ! どういうことですか!? アイツって……マコくんのことですか……っ?」
「明日仲直りしろよ。怒ってるわけじゃねえけど、説明も無しじゃ納得出来ないって、そんな感じやったわ」
「……へっ?」
「ちゃんと話せば分かってくれるよ。なにも親友辞めたいわけじゃねえだろうし、大事に想ってくれてるんだから。色恋沙汰で友達失くすとか、最悪やで」
「い、色恋沙汰……?」
「…………わざわざ言わせんなよ」
さっさと出ていけば良いものを立ち止まるからいけない。別れ際に今までの不平不満をぶち撒けるような、最低の所業だけは避けたかった。けれど、どうしても言いたくなった。また傷付けるだけだと分かっていたのに。
「あのっ、もしかして……昨日のこと、聞いたんですか……っ?」
「……無理にご褒美とか、言い出さなくても良かったんだぜ。みんなを焚き付けるつもりだったのか知らねえけどよ」
「ちっ、違います、違うんですっ!? そうじゃなくてっ、本当にっ、偶然だったんです!?」
これだけあからさまに匂わせれば流石に気付いたようだ。重い腰を上げテーブル上のスマホを手に取ると、ふらふらと近付いて来る。
「サッカー部の練習が無くて暇だから、どこか遊びに行こうって誘われて……! 最初はクラスのお友達も一緒の予定だったんです! そしたら急に、みんな来れなくなっちゃって……!」
「……結果的に二人になったと?」
「本当なんですっ! 柴崎さんと今野さんに聞けば分かる筈ですっ! 嘘じゃないんですっ、信じてください……っ!!」
ラインのトーク履歴を見せて来る。確かに二人分の『急用で来れなくなった』という文面が残っているが……。
「最初からそのつもりだったんやろ。有希と克真を二人にさせるために、一芝居打ったっちゅうわけや」
「でもっ、本当になにも無かったんです! シーワールドに行って、普通に遊んだだけでっ……怒ってるんですよね? 何も言わないで克真くんと二人でお出掛けしたから、だからっ……!」
今度は有希の方が泣きそうだった。絶対に部屋から出すまいと、腕を掴んで縋るような態度を見せる。
結局こうなるんだ。俺が意地を張ったせいで、結果的に彼女を困らせる。もう良いんだって、無理しなくて。ハッキリさせよう。
「写真、見たよ。なんつったっけな。幸せの鐘やっけ。馬鹿にええ顔しとってよ」
「……あっ、あれは、そのっ……最後に一枚だけって、お願いされて……っ!」
「正直に言えよ。克真のこと、気になってるんだろ。ええ奴やしな……変に気を遣わなくて良い。お前が克真を選んだなら、俺はなにも……っ」
と、ここまで言い掛けてようやく気付いた。泣きそうとかそんな段階じゃない。とっくにボロ泣きなのだ。親の死に目にでも遭ったかのように顔がぐしゃぐしゃになっていて、流石にそれ以上は言い淀んだ。
「違うんです、違うんですっ……ッ!! お願いしますっ、ちゃんと聞いてください……っ!」
「ちょっ……わ、分かったって!? そんな泣くなよ……!?」
「だって……だってぇぇ……!!」
有希はスマホを床に落とし、膝下へ崩れ落ちてしまった。あまりの狼狽ぶりに中途半端な優しさも顔を出す。
ただでさえ高熱で苦しんでいるのに心労まで募るようではあまりに可哀そうだ。俺とて望んではいない。
身体ごと持ち上げてベッドへ運び直すと、腰回りにしがみ付いて離そうとしてくれない。薄着の弱りに弱った可憐な少女を前に、意地も強がりもまともに機能しなかった。だが、今ばかりは程良い塩梅にも思う。
「分かった、分かったから……ちゃんと聞くからさ。ごめんな変に突き放したりして……だから、全部教えてくれよ」
「…………ごめんなさい……っ」
この一時間弱で何度も使い古されたフレーズが、少しだけ違って聞こえて来る。いや、分かるようになった。微妙なニュアンスの違いが、今なら分かる。
そうだ。彼女は悩んでいた。苦しんでいた。曖昧なものに縋りやり過ごしていたのは俺だけじゃなかった。ずっと前から気付いていた……。
「……わたし、調子に乗りました。最低です。最低の女なんですっ……! 廣瀬さんも、克真くんのことも馬鹿にして……あんな酷いことを……っ!」
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