830. 同じですね


「……ごめんなさい、廣瀬さん……」

「だから、謝るなよ。帰って欲しいってなら話は別やけど……どうする? 自分で拭くか?」


 曖昧な言葉尻とは対称に目線はハッキリとテーブルを向いていた。自分でやる、ということだろう。唯の恥ずかしさが理由か、他に思うところがあったのかは定かでない。前者である方が気は楽だが。


 寝苦しそうに度々姿勢を変え、時折声にならない声を漏らす。やけに色っぽく聞こえる。洗濯籠の中身を思い出しそうで、慌てて目線を逸らした。



(参ったな……っ)


 胸元が少しはだけていて危なっかしい。有希の身体つきなんて今まで気にしたことも無かった。結構ある。意外にも。


 目視で推し量れるほど経験豊富ではないが、たぶん比奈と同じくらい……いや、少し小さいくらいだろうか。第二次性徴真っ只中の女性の身体を無防備に晒されては意識するなという方が無理な相談。


 恐らく。いや間違いなく、昨晩の影響が残っていた。言い方は悪いがシルヴィアからは何もして貰っていない。悶々とした正とも負とも呼び難いエネルギーが今も奥底に溜まっている。


 こんなことなら檜風呂なんて入らず素直に相手をさせれば良かった。過ぎたことを悔やんでも仕方ないが、こうなると分かっていれば……。



「約束、守れなくて……ごめんなさい」

「えっ。あぁ、デートのこと?」

「……本当に、楽しみにしてたんですっ……」


 申し訳なさも一入に虚ろな目を漂わせる。さっきからやたらと謝罪の言葉を並べていたのは、約束を果たせなかった後ろめたさによるものか。


 当初の予定では学校で合流しすぐ近くの海浜公園へ行くプランだった。特に何があるわけでもないが、海沿いを散歩したり、バーベキュー用のベンチがあるからそこでご飯を食べてゆっくりしたいのだとラインで話していた。



「今更言うてもアレやけど、前みたいに中華街とか綺麗な公園とか、そういうところやなくて良かったのか?」

「……色々と考えたんです。行きたいところはいっぱいあるけど……でも、遊びに行くんじゃなくて、デートですからっ……」

「子どもっぽいのは勘弁ってな」

「……それもちょっとあります。って、結局行けませんでしたけどっ……」


 無理やりえくぼを広げ笑ったように繕う様は、いつもの有希に見えて少し違う。痛ましささえ覚える。選抜リレーの前に見せたものとよく似ていた。


 思えば有希らしい無垢な笑顔をもう一週間以上も目の当たりにしていない。

 これが所謂、壁というやつなのだろうか。やはり彼女もどこか遠慮している。



「ごめんな、無理して喋らせて。気の済むまで居てやるから、ゆっくり寝てろ」

「そんなっ、わたしが話し出したんですから……気にしないでくださいっ。廣瀬さんが来てくれて、すっごく安心しました」

「…………そっか。なら良かった」


 多少元気なうちに、さっさと触れておくべきか。本当に見舞いは俺で良かったのか。他に来て欲しい奴が居たんじゃないか、と。


 真琴に乗せられて女々しい文句の一つでも言ってやろうかと思っていた。でもそんな気にはなれない。この弱弱しい姿を前にはとても……。



「……手を……っ」

「ん?」

「手を、握りたいですっ……」

「……ええよ。ほら」


 ベッドに腰掛けると左手を力無く握り、小さく息を吐く有希。

 細い手だ。汗だくなのに指先はサラサラしている。気持ち程度のスキンヘアしか施していない俺の手で握り返すのが申し訳なく思えてくるほど。



「お母さんには連絡したか?」

「まだ、ですっ……」

「土日はしっかり帰る癖に、なんだって遠慮する必要があるかね」

「……昨日と一昨日は実家に戻ったんです。体育祭の前も……それで、元気に頑張ってるから大丈夫だって、言っちゃったから……ちょっと後ろめたくて」


 大見得を切った手前頼るのも心苦しいか。とはいえ何日も長引くようならご両親のどちらかに来て貰うか、一度実家に帰った方が絶対に良い。


 ……昨日も、か。どうやら克真との件を話す気は無さそうだ。秘密にしているのかタイミングを窺っているのか、まぁどっちでも良いけど。



「一人暮らしの病気なんて男でも辛いんだぜ。始めてすぐの女の子なら尚更……ちょっと連絡するから、一回離してくれ」

「……っ! だ、だめっ……!」


 スマホは左のポケット。取り出すには一度離して貰う必要があるが、有希はグッと力を込めそれを拒んだ。



「なんだよ……そんなに嫌なのか?」

「うぅっ……」

「恥ずかしい気持ちは分かるけど、俺も面倒見てくれって頼まれとる立場やし、なにも言わねえわけにはいかねえんだよ。ワガママは駄目だ」

「……あのっ、そう、じゃなくて……!」

「ん?」

「…………離すのが、嫌ですっ……」


 ほんのりと潤んだ瞳、震える唇。甘えたがりの具体例として辞典に載せたいくらいだ。変な声が出そうになって、ギリギリのところで飲み込む。


 他でもない彼女にここまでされて無碍に扱える俺ではない。左腕の力を抜き元の位置へと収まる。有希は安心した様子でホッと息を吐いた。



 それから数分間。

 長い沈黙が部屋を支配する。


 偶に親指を動かして手の甲を擦って来るくらいで、それらしいアクションは一つも見せない。何を期待するわけでもなく、時間の経過を待つ。


 直視するのも忍びなくて盗むように目配せすると、重なった掌を眠たそうな目でジッと見つめ、規則正しく息を漏らす有希の姿。目が開いているだけで実は寝ていたとしても不思議じゃなかった。



 有希と一緒にいるときはたいてい彼女の方から話題を振ってくれて、お喋りに困ったことが無い。大人しそうに見えてよく喋る子だ。


 まるで覚えが無いのに懐かしく感じたのは、きっと出逢った頃の俺たちと似ているから。彼女が問題集と向き合っている間はどうしたって手持ち無沙汰で、後ろ姿をボンヤリと眺めていた。


 あの頃とはすっかり変わった関係性。でも、こうして考える時間ばかり与えられると、やはり疑念は沸き起こる。



 俺たち、なにか変わったのだろうか。


 家庭教師と教え子。年上と年下。結局当時から、ずっと同じ立ち位置で今日まで来てしまっているようにも感じる。


 仮に変わったのだとしたら有希の方で、俺は有希のことを、最初から可愛い後輩としか思ってないんじゃないか……?



「…………懐かしい、ですねっ」

「……えっ?」

「覚えてますか? 廣瀬さんが家庭教師に来て、まだ三日目とか、それくらいのとき……わたし、時間を忘れて部屋で寝ていたんです。気付いたら廣瀬さんがいて、ベッドに腰掛けていて……っ」


 長い沈黙を破ったのは、くすぐったそうに微笑む彼女の吐息だった。思い出話に花を咲かせようにも、昔のこと過ぎてまったく覚えていない。



「あったっけ? そんなこと」

「……やっぱり忘れてた」

「ごめんごめん。思い出すから」

「……あとでママに聞いたら、廣瀬さん、どうすれば良いか分からなくて、困っちゃったみたいで……ママに聞きに行ったそうですよ。そしたらベッドに座っちゃえって言われて、凄い押しの強さで断れなかったって」

「あぁ~……あった気がする~……っ」


 ちょうど一年前だ。靄が掛かりまくりでハッキリとは思い出せないが……確かにそんなことがあった。いつも使わせて貰っている椅子が何故か無くて、どこで待っていればいいか分からなくて。


 で、有希ママに『今日はやめておきますか』みたいなことを言いに行ったら、ドッキリし掛けようとかなんとか言われて……寝ているすぐ横に座らされたんだ。有希ママが見ている前で。そうそう、思い出して来た。



「起きたら目の前に廣瀬さんがいて、わたしっ、ビックリして飛び起きちゃって……廣瀬さん、ベッドから落ちちゃったんですっ」

「……うん。アレな。確かそうだった」

「あの時だと思います。廣瀬さん、自分からは何も話さないから、どういう人なのか良く分からなくて、最初はちょっと怖くて……」


 花火大会の時も同じことを言っていた。

 それから少しずつ心を開いてくれて……。



「……でも、そのとき思ったんですっ。あんなにクールな人でも、驚いたり、ビックリして変な声を出したりする……怖そうに見えるだけで、普通の人なんだなって気付いたんですっ」

「大阪人が故、リアクションだけは無駄に鍛えられているモンでして……」

「本当におかしかったんですっ。わたしが驚いているのに、廣瀬さんの方がお化けでも見たみたいな反応で……わたしもママも笑っちゃって!」


 当時を思い出したのかクスクスと鼻を躍らせ笑う有希。オカルトの類は一切信じないが、急に脅かされると変な声が出てしまうのだ。本当に驚いてはいないんだけど、声だけはしっかり出るという。


 そうか。最初から彼女が好意的だった理由が今一つ分からななかったけど……もしかして、この出来事が理由? いやでも、たったこれだけのこと?



「……あの日と、同じですねっ」

「……手は繋いでなかっただろ?」

「でも、同じなんですっ」


 穏やかな笑みを溢し、左手に一層力を込める有希。あまりに幸せそうな、至福に満ちた暖かな瞳に、暫し言葉を失った。


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