829. 少しだけ知っている


 同じアパート。同じ階。お隣さん。幾度となく上った今にもポッキリ折れてしまいそうな錆び錆びの階段と頼りなさ過ぎる柵。

 気付けば実家よりよっぽど馴染んでしまった、代わり映えしない光景だ。


 なのにどうして、インターホンを押す手は微かに震えている。思えば触ったことが無かった。

 自宅のピンポンを押す機会が無いなんてそりゃ当たり前だ。壁の色にしたって同じなのだから妙な気分にもなる。



「……寝てるんかな」


 反応が無い。真琴の言う通り風邪で寝込んでいるのなら、インターホン越しに返事するのも鍵を開けるのも苦労が伴うだろう。少し待つか。



(そう言えば……の部屋はあんまり入ったことねえなあ……)


 引っ越し初日と、春休みの間と……あとは聖来の歓迎会をやり直したときくらいか。

 練習後の晩飯は俺と有希の部屋で部員が二分されるから、俺がそちらへ出向く機会は案外少なかったりする。


 対照的に文香の部屋はしょっちゅうお邪魔していて、好き勝手にマンガ読んだりゲームしたりはよくあるのだが……有希は俺の部屋へ来るばっかりで、招かれた記憶がほとんど無い。


 体育祭で比奈が言っていた。元々は家庭教師と教え子の関係だった有希には、無意識のうちに年下というフィルターが働いてしまい、変に遠慮してしまっている……些細なところにも傾向が表れているということか。



「んっ?」


 ドアノブがガチャガチャ動いている。玄関前までやって来たのだろう。が、動くだけでドアが開く様子は無い。


 暫くして内側のロックを外す音が聞こえた。鍵の他に申し訳程度のレバーがあって、それを上げるのを忘れていたようだ。


 …………物音が止んだ。

 あれ? 開けてくれないの?


 さっさと入ってこい的な? だとしたら危なくない? ちゃんと俺だって確認したの? 確認したとしても、年頃の女の子が無警戒でドア開けるな?



「ゆきぃー、入るぞ……おォ゛!?」


 開けてすぐに彼女の姿が飛び込んで来た。しかし正常ではない。玄関と一体のキッチン、正確には小型冷蔵庫へ背を預けるよう尻餅を付いていたのだ。



「おいっ、大丈夫かッ!?」

「……ふぇ……ひおせ、さん……っ?」

「ああもう、やっぱり誰か確認しないで開けたな……! 悪かった無理させて、ほらベッド戻ろうな! ごめんなっ!?」


 真っ白のレースが付いている、部屋着にしてはちょっと可愛らし過ぎるパジャマで身を包んだ有希。一国城のお姫様か白雪姫にも見間違う。


 ともすればやはり毒リンゴが付き物か。頬は腫れ上がったように真っ赤に染まっていて、目線も実に覚束ない。

 持ち上げた軽い身体は酷く熱を孕んでいた。結構な重症と思われる。一人暮らし初心者の女の子が耐え忍ぶには辛いものがあろう。



(生活感ねえなぁ……)


 ピンクを基調とした可愛らしい小物で溢れる、いかにも女子高生らしいお部屋。しっかり整理整頓されている。琴音の部屋もこんな感じだった。


 何が違和感って、一人暮らしの環境じゃないんだよな。ゴミ箱にはなんのゴミも入っていないし、テーブルにティッシュもご飯の残りも置かれていない。幼児向けのドールハウスとでも称すべきか。


 練習後はラーメン屋のバイトに勤しみ、土日は実家へ帰り生活状況をチェックして貰うという有希。本当に寝て起きるだけの部屋になっているのだろう。こんな環境じゃ逆に治る病気も治らない。



「体温計は?」

「……そこ、れすっ……」

「冷え○タ、もうグッツグツやな……替えはあるか? 冷蔵庫?」


 力無く頷き息苦しそうに悶える有希。かなり辛そうだ。これ救急車呼んだ方が良いんじゃ……どんだけ雨に打たれてたんだよ。仮にもフットサル部の厳しい練習に耐えている子なのに、一体どうした。


 ……いや、むしろそのせいか。元々スポーツには欠片の縁も無い華奢な女の子。

 入部から一か月半が経過し、ついに体力の限界が来たのかもしれない。最近は脳筋デーもよく頑張っていたからな……。



「ほら、測るぞ。ジッとしてな。冷○ピタも替えてやるから。身体は? 拭く?」

「……ごめんなさい……っ」

「謝るの禁止。俺がやりたくてやってるんだよ…………ふむ。38.4度。思ったよりはって感じやな……っし、タオル持って来るわ」


 拗らせた病気ではなさそうだ。一日か二日安静にすれば治る普通の風邪だろう。良かった、これから俺一人でも対処出来る。


 ……一言目が『ごめんなさい』か。


 こういう時は謝罪じゃなくて、いつも『ありがとう』と言ってくれる子なんだけどな……彼女も彼女で募るものがありそうだ。まぁ、今は無理させられないけど。



(……仮にも生活はしているからな。着替えはあるよな……)


 洗濯機の横に置いてある籠の中身が気になった。気になったというか、反射的に見てしまった。抗えなかった。


 まだ洗濯前だというのに綺麗に畳まれた衣類。この辺りは一人暮らし開始前にママさんから徹底的に仕込まれたそうだ。


 その中には部屋着やソックス、タオル類をはじめ……勿論下着も混ざっている。淡い青のちょっと大人びたデザイン……って、なに凝視してるんだ俺は。死体に鞭打つような真似を。



(……初めてやな。意外にも)


 未使用のタオルを水道水で絞り、言ってる傍から余計なことを考える。

 何だかんだで一年近く。いや、フットサル部が出来る前からの関係だから、一年以上だ。気付かぬうちに長い付き合いとなった。


 出逢った頃は若干警戒されていて、こんな風に無防備な姿を晒すような真似はほとんどしなかった。

 当時の俺は週に一度か二度、自宅へ伺う名ばかり家庭教師。最初から仲が良かったかと言えば決してそんなことは無く。


 俺も俺で他人にまったく興味が無い時期だったので、女子中学生を相手取る楽しさなど微塵も感じていなかった。

 けれど有希は、明らかにやる気の無さそうな俺に負けず何度も何度もお喋りを試みてくれて。


 距離が縮んだきっかけは確か、何度目かの模試でかなり良い成績を残して……気紛れで大袈裟に褒めてやったあのときだ。それ以来、本格的に心を開いてくれたと記憶している。


 ……って、あれ。

 最初から好意的だ。よくよく考えると。

 警戒されなくなったのはいつからだっけ?



「……ちょっと溜まってるな。洗濯」


 閑話休題。つまり、有希の女の子らしい姿……より分かり易く言うと、女性的、性的な一面を見たことがほとんど無いという話。


 上京当時の俺は性欲すら皆無に等しい喜怒哀楽ゼロの干物男で、家庭教師の最中に隙を見つけて下着を覗こうとか、ちょっかい掛けてやろうとか、そういうことを一切思い付かなかったのだ。まぁやったらやったでアウトだけど。


 夏休みまでその傾向は変わらなかったのだが……皆とのデートや花火大会を境に意識するようになっても、お目に掛からなかった。不可侵領域。



(って、童貞じゃあるまいし……)


 誤解を恐れず言えば女性の下着姿はだいぶ見慣れて来た。むしろ着ていない姿の方が焼き付いているまである。男として当然の摂理。ノノに至っては服着ているイメージの方が沸きにくい。


 にも関わらず、こうも余計な頭が回るのは……やっぱり、有希だからという他ない。この期に及んで、初めて彼女の性的な一面を目の当たりにして。妙に恥ずかしくなってしまったのだ。


 ショックを受けたのかもしれない。気付けば高校生になって、こんな大人っぽい下着を身に付けていたなんて考えると…………複雑な感情は一つひとつ紐解いても、どれがどれだか分からない。


 ……子ども扱い、していたんだろうな。

 無意識のうちに。それも酷いレベルで。

 比奈の言っていたことが正解なんだ。



「やることやらねえとな、まずは」


 聞かせるつもりは無かったが、独り言にしては煩い。分かり易く揺らぎは現れた。


 二人だけの時間が必要だ。シルヴィアと一緒。男と女として、一対一で腰を据え向き合う機会が。


 それが楽しいデートなら何より最高だったのだが、こうなってしまった以上は仕方ない。しっかり看病して、ちょっとでも評価を取り戻さなければ。


 俺の気持ちは変わっていない。あの頃はまだ分からなかったけれど、今は少しだけ知っている。俺にとって早坂有希という少女は、きっと……。


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