827. 気が済むまで


 シルヴィアの自宅最寄り駅まで戻って来た。改札を抜けると雨も上がっていて、雲間から青い光が細々と垂れ込んで来る。


 時刻は十時半過ぎ。二限もそろそろ終わる。本当は三限まで出て、それから有希と学校で合流する予定だったが……逢うためだけに学校へ行くことになりそうだな。もう山嵜の最寄りまで来て貰おうか。


 いやいや、そんなことをしたら『いつまで一緒だったんですか!?』と赤面交じりに非難されるのが目に見えている。

 彼女とて無知ではない。仮にもお隣さんだ。俺の生活ぶりはよく知っている……。



『で、どうした?』

『……なんでもないわ』


 自宅マンションのすぐ前までやって来たのだが、ホテルを離れてから電車の中、降りて今に至るまで一度も腕を離してくれないシルヴィア。


 途中まで元気だったのに、家が近付くに連れて段々と口数が減っていた。

 極めつけはこの寂しそうな顔。見知らぬ土地で迷子になったみたいに、やり場の無い焦燥を溜め込みシュンと肩を落としている。



『どうしたよ。ちゃんと教えろって』

『……変に思わない?』

『内容次第やな……ほらっ、さっきの続き。日本語で言うてみい』


 電車での移動中、バレンシア語を使わず会話をする遊びをしていた。まさか日本語のレパートリーが底を尽いたわけでもあるまい。


 腕を離し硝子細工みたいに細い人差し指をスーッと手元まで落として、力無く手を絡め取る。なんともいじらしい儚げな姿に、思わず息を呑んだ。



「……ヤダ。イッショ」

「シルヴィア……?」

「ハナレタク、ナイ……っ」


 幼子のような拙い発音、それに違わぬ甘えた態度に、いよいよ唾の飲み方を忘れ掛ける。胸がときめくって、まさにこういうことだ。


 か、かっ……可愛いぃぃ~~……!!



「そ、そっか、まだ一緒にいたいのか……っ」

「行か……ない、で……?」

「おうっふ……!?」


 更に指を絡ませギュッと握り締める。日本語が故の破壊力。限られた選択肢、知識がすべてにおいてプラスへ作用し、シルヴィア・トラショーラスだけに許される、最強の殺し文句が生まれたのだ。


 ……はああああぁぁぁぁああああ無理いいいい可愛すぎるゥゥううううぅぅうううう~~!!



『ええよ、ええよ! 一緒にいよう! まだちょっと時間あるしな! お家でも、そこの公園でもええからなっ! なっ!』

『ちょっ……日本語縛りはどうしたの!?』

『愛してるぞシルヴィアァァ!!』

『ビャァァ゛ッ!?』


 思わず抱き締めて高い高い。小柄とはいえ諸々子どもサイズとは言えない彼女を抱き上げるのは結構な労力だが、そんなの関係無い。誰に見られようと些細な問題。羞恥心を他界他界するだけ。



「いヨイショォォ!!」

『ヴぇあァァ゛アアア゛ア゛ーーッ!?』


 お姫様抱っこに持ち替えてえっさほいさと運び出す。目的地は彼女の自室。

 大声を挙げ酷く狼狽するシルヴィアは必死に身体を揺すり抵抗するが、強引に押さえ付ける。絶対に離さない! ギューってする!! 今すぐにッ!!



『待って、待って! 待ちなさいってばヒロっ!! パパが見てるからぁぁ!?』

『…………えっ?』


 そのままエントランスをブチ破る勢いだったが、青褪めた顔でドアを見つめる彼女に釣られ、前方確認。


 ちょうどエレベーターから出たばかりのチェコが、真っ直ぐこちらへ歩いて来る。

 今日は水曜でカップ戦があるので、クラブの公式スーツを着ていた。英国紳士の名に相応しい威厳に満ち溢れた装いだ。


 ……え、待って。

 この状況、不味過ぎない?



『そんなことだろうと思っていた。いくらスポンサーの手立てがあるとはいえ、日本語の不自由なお前が一人で外泊など出来る筈が無い』

『ひいぃっ……!?』

『そう恐れるな。どこの馬の骨にも足りぬ下郎ならともかく、この男だ。さして不満も無い……だが、その歳で権力に溺れる恐ろしさを少しは知るべきだな』

『ごめんなさいっ、ごめんなさいッ!! 勝手にパパの名前を使ってごめんなさいッ!! 急に外泊してごめんなさああああいっ!!』


 大慌てで腕から降りタイルの床へ座る。赤子のようなギャン泣きだ。ここまで取り乱す彼女は昨日も見れなかった……娘相手でも怒ると怖いんだろうな。


 って、人の粗相を見て喜んでいる場合じゃない。よもや朝帰りの瞬間を父親に、よりによってチェコに見られるなんて……お、オワッタ……ッ!!



『近頃よく顔を合わせるな。古い友人よ』

『一昨日ぶりですね、ミスター……』

『珍しく歳早々の装いだな。実に新鮮だ…………何か釈明は?』

『一寸の余地もございません……ッ!』


 二人揃って堅いタイルの上に頭を並べる。

 久しぶりの土下座だ。冷やし土下座。



『さぞ気分が悪いだろう。君と私では孫と祖父ほどの歳の差だ』

『……へっ?』

『頭を上げなさい。君の愉快な様はフィールドの上だけで事足りる。それとも、血の繋がりの無い人間に気を遣うだけの貧しい生活がお望みかね。嫌いでもないが私の肩が凝るよ。堅苦しい御迎の挨拶は飽き飽きしている』


 恐る恐る顔を上げると、予想外の光景が飛び込んで来た。チェコは顎髭を擦り楽しそうに笑っている。えっ、怒ってない……?



『君とコレの関係について、私が何も知らない筈が無いだろう。聞かなくとも勝手に喋るのだから、当然だ。補聴器の世話になるのは早過ぎる』

『そう、でしたか……っ』

『その逞しい腕がいっぱいの華で溢れていることもな。下世話な詮索は控えておくが……まぁ、君もまだ若い。おおよその見当は付く。私も人のことは言えないものでな。勇気と無謀を履き違え、多くの女性を傷付けた』

『は、はぁ……?』

『誰も等しく政治家だ。立場が変われば意見も変わる。君が彼女をどう扱っているのか、何も思わないと言えば嘘になるが……腰が悪くてね。肩車の一つもしてやれなかった』

『あの、ミスター?』

『妻にはなんの不満も無いが、やはり晩婚の高齢出産ともなると……娘というよりもう孫だ。美しい宝石に違いは無いがな。ただ、丁寧に磨き過ぎたとも言える。気付けば年頃、酸いも甘いも嚙み分ける逞しい女に育った……』


 エライ饒舌である。セレゾン時代だってここまで長々とお喋りをした記憶は無い……まさかチェコ、ちょっと機嫌良いのか? 何故?



『立ちなさい、ヒロ。お前もだ。あまり暇ではないのでね。気の早い残留争いでファンも苛立っている。せめてリーグカップでは結果を残さなければ……もっとこっちへ来なさい。心配するな。ファッションセンスは人それぞれだ』

『いや別にそういうことではなく……』


 ダサいグッズTシャツを貶される心配など一切していない。すぐ近くまで呼び寄せると、俺の右腕をペタペタ触り感心気に呟くチェコ。



『春先とは見違えたな。ミスター・アレクの指導はどうだった?』

『大変親身に協力していただいています……あの、ミスター?』

『鍛錬を怠るな。夏の大会について彼から詳しく聞いた、期待しているよ。だがアスリートにはよくある話だ。特にフットボールではな。練習時間の短さを理由に、酒と女に溺れる者も多い』


 鋭い眼光をギラリと尖らせ不敵に笑う。

 や、やっぱり怒ってる……?



『親は親だ。同じ人格ではない。彼女にも彼女の人生がある。その決断は尊重すべきだ……しかし、目に見えた不幸を前に無関心を装うことは出来ない』

『…………はい』

『これから君がどのような人生を歩むのか。誰も分からないし、私も介入する気は更々無い。文句を付ける筋合いも無い。もはや絶滅危惧種の、生まれながらにしてのクラッキだ。我々の想像もつかない美しい絵を描いているのだろう』

『……責任は取ります。必ず。皆と、彼女のことを愛しています』

『興味深い台詞だな。まぁ嫌いでもない…………君とよく似た顔をした、大言壮語の夢想家を一人知っている。故郷を捨て遠い日本へやって来た、顎髭の似合う百戦錬磨の名将だよ』


 俺とシルヴィアの肩を優しく叩き、ニヒルな笑みを浮かべ鼻を吹かしたチェコ。

 朝帰りの件と、俺たちの関係について咎めるつもりは無い様子。それはそれで違和感だが。ここまで来たらむしろ怒って欲しいまである。


 まぁでも、取りあえず機嫌は良さそう。これ以上余計なことを言う必要も無いだろう。ネクタイを締め直し、チェコは最後にこう続けた。



『困らせて悪かったな。もう口を挟むつもりは無い。唯一例外があるとすれば、彼女がキャリーケース片手に私の元へ帰って来たときだ』

『……必ず、幸せにします』

『そうしてくれ。どうしようもないお転婆のじゃじゃ馬だ。初めから扱えるのも君だけだったのだろう…………暇なら観に来たまえ。チケットは手配してやる』


 呆気に取られる俺たちを置いて、チェコはエントランスの外へと向かう。既にタクシーが用意されていた。



『ミツザワのピッチは素晴らしい。フットボールに恋した少年の頃を思い出すよ。美しい初恋だった……今も片思いのままだ。気紛れでどうしようもない奴だが、偶に振り向いてくれる』


『手に入れたいのなら、絶やさず思い続け、そして努力することだ。主は等しく与えてくださる……気が済むまで踊ると良い』


『後片付けは子どもでも出来るが、玩具箱をひっくり返すのもまた子どもの仕事だ……では近いうちに。友人よ』



『……結局なにが言いたかったんだ……?』

『まぁ、認めてはくれたんじゃない……?』

『本当にそう思う?』

『たぶん……わたしも偶に分からないわ』

『苦労してるんだな……』


 タクシーに消えた彼を見送り、俺たちは顔を見合わせ首を傾げた。

 実感が沸かない。唐突とはいえ交際の挨拶って、絶対にこんなもんじゃ終わらない筈なんだけど……チェコが特別過ぎるのか……?



『……スマホ、鳴ってる』

『あ、うん。たぶん有希』

『……もう我が儘言わないわ。今日はわたしの日じゃないから』

『ちょっと萎えてるよね?』

『色々怖くなって来たのよ……っ』

『あ、はい』


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る