825. cariño
『ヒロ。チェックアウトの時間よ』
『え~~……やだ~~』
『なに子どもみたいなこと言ってるのよ。予定があるんでしょう?』
『一緒に入ろうよぉ~』
「……コロスゾ!!」
「もっと適した日本語あるって絶対に」
朝食のバイキングから戻って、まだ少し余裕があったので檜風呂を一人ゆっくり漫喫していた。が、もう時間切れのようだ。
乱暴にタオルを投げ入れられる。セコンドの真似か。いつからプロレス部になったんだ俺たちは。
着替えを済ませ部屋に戻ると、見慣れない姿の彼女が待っていた。昨日買ったは良いが忘れてしまった夏服。
俺が風呂に入っている間、一人でポーターズへ取りに行ったらしい。日本語のメモを渡したおかげでやり取りも問題無かったようだ。
『似合っとるな。流石はルビー』
『当然よっ! 服に着させられるほど愚かな女ではないわっ!』
『はいはいすごいすごい』
『適当ね!?』
昨晩の潮らしい姿はどこへやら。ぐっすり眠ったおかげか、自己肯定感モリモリ、顕示欲フルMAXのルビーが戻って来たようだ。これはこれでちょっと安心してしまったり。
『はぁ~……昨日のことが全部夢だったみたい。すっかりいつものヒロね』
『さてどうだろうな?』
『信用ならないわ。もっと証明して…………行きましょう。家に帰るまでがデートなんだから。忘れないでね?』
『ああ。一生忘れないさ』
『ンフフっ♪』
コロコロ表情が変わるのもルビーの可愛いところだ。満面の笑みで腕を絡め取り、くすぐったそうに彼女は微笑んだ。
足並みを揃え部屋を出る。ダブルベッドの片割れは行儀悪く皺が残ったままだった。従業員に見せて困るものも無い。証拠もなにも、犯行自体行われなかったのだから必要の無い施しだ。
そう。必要が無い。これだけゆったりとした朝を過ごせたのは、やはり相応の理由があった。
(まさかあのまま終わるとは……)
ヤれなかった。
未だに信じられないし嘘みたいな話だが、至らなかった。ルビーの身体は綺麗なままだ。
いや、厳密にはちょっと違う。寸前のところまでは行ったのだ。揃ってその気になった俺たちは、互いにタオルで身体を拭き合ったり、偶に悪戯し合ったり。実に恋人らしい、それでいて初々しい時間を暫し堪能し。
生まれたままの姿でベッドに並び、情事の前段階を俺主導で一通りこなした。彼女の女性らしい部分はすべて見尽くしたと言って良い。
『……明後日、空いてるか?』
『明後日? フットサル部の練習日でしょう? それもフィジカルトレーニングの日じゃない』
『いや、その後だよ』
『交流センターのアルバイトは?』
『休もうかなって……だって、焦れったくないのか? あそこまで進んだのに結局……』
『……そう、ね。わたしもどうしようかなって、ちょっと考えてた……っ』
従業員総出で見送られホテルを後にする。雨はまだ少し降っていたが気にするほどでもない。深夜の地震も一晩経てば世間から忘れ去られたようだ。
周りに人が居ないことを確認し話を切り出すと、途端にルビーは顔を赤らめ俯いてしまう。
バレンシア語の密談を誰が解読出来るのかという話で、まったく不要な警戒である。途中でようやく気付いた。それくらい俺も浮ついていた。
いや、そんな気取った言い方は正しくない。盛っていた。先ほどまでヘラヘラしていたのは、昂ぶりを勘付かれたくなかったからだ。
『ごめんなさい、本当に……』
『いや、ルビーは悪くないって。一日中動き回って、風呂浸かって身体も解れて、しかもあんな状況で……いっぱいいっぱいだったよな』
『でも、辛い思いをさせてしまったわ……』
『ええねん。気にすんなって』
申し訳なさそうに唇を噛む。まぁ言っちゃなんだが、これは強がりだ。他の予定が無ければ家に連れ込む気満々だった。
諸々の準備を終え、いよいよ事を進めようというギリギリのタイミング。本当にギリギリだ。充てがったまさにその瞬間。
部屋の扉を凄まじい勢いでノックされ、二人揃って現実へ戻されてしまった。
鳴り続けていた内線電話を無視したからだ。事故でも起きたのかと、結構な数の従業員が部屋の前に集まっていた。飛び込みとはいえVIPのお客様なのだから相当気を張っていたのだろう。
大慌てで服を着て『寝てました』と見え見えの嘘を吐いたは良いものの、地震の影響で物が落ちていないか、壊れていないかの確認が行われた。
他の部屋が空いていないので、俺たちはベッドで暫し待機。その間に進めるわけにもいかず、お預けを喰らってしまったのである。
(マーージでキツかったァ……ッ)
口ではああ言ったが、三十分弱の清掃待ちで寝落ちされては流石にガッカリだ。
寝ている生娘相手に無理やりするほど無粋じゃないし、なんとか耐えたけど。ガッカリした。一人で処理しなかったのを褒めて欲しいくらい。
とは言えもう過ぎた話。事実、目を覚ましたルビーは涙ながらに謝って来たし、怒っているわけでもなしに俺も受け入れた。それに、これで終わりというわけでもない。
だったら一度仕切り直しと、敢えて今までと同じちゃらんぽらんな空気を作り出し、一先ずルビーにも落ち着いて貰って……このタイミングでようやく切り出すことが出来た。
『……やっぱり、したい?』
『今すぐにでもやり直したいさ』
『うぐっ……!? ……うぅぅぅ~……っ』
が、こちらもまだ早計だったようだ。彼女も彼女で思い出さないように気を張っていたのか。プシューっと脳天から湯気が逃げ出していく。
なんともルビーらしいコミカルな絵面だが、笑い話で済ませる時期は終わってしまった。恋人として出来る限りのことはしてやりたい。
『恥ずかしい?』
『一度冷静になったら、どうしても……っ』
『早いとこ決めちまおうぜ。時間掛けるのは逆効果や、俺らに限ってはな』
気付いたら勝手に『友達』へ戻ってしまう俺たち。だったら双方の意識が高まっている今のうちに成し遂げるべきだ。昨日もそうやってゴリ押しで進んで、ギリギリで辿り着いた境地なのだから。
しかしルビー、続く肯定の言葉が出て来ない。まさかやる気が無くなったわけではなかろうが、首を縦に振らずジッとしがみ付いたまま。
『あのね。あのね、ヒロっ……』
『うん。どした』
『……わたしも、同じ気持ちよ。途中までしか出来なかったけど……すごく嬉しかった。とても幸せだったわ。あれよりもっと凄いことが起きるなんて、想像するだけで……っ』
口振りから察するにビビっているとも違う。少し考えるところがあるようだ。
橋の途中で立ち止まり、膝をモジモジ擦り合わせ落ち着かない様子。あまりの可愛らしさに骨も折りたくなる。
『……でも、ダメ。きっと為るようにして為ったのよ。神様が止めてくれたの。わたしたちにはまだ早いんだって……』
『なんか信じてたっけ?』
『一応家族みんなカトリック教徒だけど、そこまで熱心ではないわ……だから、そうじゃなくてっ!』
ダサいグッズTシャツの首元をギュッと掴み、真剣な目で訴える。絵に描いたような上目遣いだ。直視するにも労力が伴う。
『わたしたち、まだまだ理想のカップルには程遠いの。これからもっと、色んなところに行って、一緒の時間を過ごして……誰の目からも納得出来るような、本物の恋人になりたいわ』
『あぁ。チェコにも説明しないとな』
『だから、少し我慢するわ。昨日の出来事が勢い任せの、雰囲気に流された紛い物じゃないって……証明したいの。周りにも、自分に対してもよ』
『……そっか』
『言ったでしょう? 貴方にとっても理想的な、最高のヒロインになりたいの……今のわたしじゃ全然ダメ。まだまだお子様で、周りに助けられてばかりで……日本語だってまともに話せないのに』
俺が理解しているのなら別に構わないみたいなことを前に言っていたけれど、あれも強がりの範疇か。本当はずっと気にしていたんだろうな。
彼女もまた、理想の姿を目指し藻掻いている悩み多き少女の一人。本気で俺と向き合うために必要な、最低限の落し処を模索している。
なら俺に出来るのは、ただ引っ張るのではなくいざという時に助けてみせる、そんな役割だ。恋人らしくて良いじゃないか。
『じゃあ、もっと頑張らないとな。まずはバレンシア語の割合を減らすところから……でも、偶には秘密の会話も良いだろ?』
『ええ。偶にはね。それに、ヒロも同じよ。もっともっと、わたしのことを理解して。良いところも悪いところも……沢山知って欲しい。わたしも貴方のこと、もっと好きになりたい……っ!』
愛と情熱に溢れた飾りの無い言葉に、自然と笑みが零れた。やはり血の色には抗えない。
お前の余りあるパッションを受け止めるのは本当に大変だ。だが埋められないことは無い。同じだけのモノを、俺も返したい。
これも愛莉が言っていた。好き同士であるからこそ、好きでいる、好きでいて貰える努力を欠かしてはいけない。
でもやっぱり、同じようなことになった。まさに運命で結ばれた俺たちは、そんな些細なことさえ気にせず、自然体のまま今日まで辿り着けた。そしてこれからも同じように、同じ歩幅で歩み寄れる筈だ。
『……ほんなら、分かり易いところからやってみるか。呼び方とか。ほら、ルビーって子どもっぽいあだ名なんだろ?』
『うん……シルヴィアって呼んで?』
『シルヴィアは、俺のことなんて呼ぶ?』
『……
『えっ?』
聞き慣れない単語だ。いくら語学力に自信があるとはいえすべての単語を網羅しているわけではない……どういう意味なんだ?
『英語で言うdarlingと一緒よ。これなら日本語でも、みんなにはバレないわ』
『なるほど。ええアイデアやな』
『んふふっ……本当に不思議だわ。呼び方ひとつで、こんなに貴方のこと、近くに感じられるなんて……!』
ますます嬉しそうに微笑んで、人目も憚らず抱き着いて来る。中途半端で終わったレッスンも多少は役に立ったようだ。恥ずかしがる素振りは微塵も無い。
道行く人々が『朝からよくやるわ』と呆れ顔で俺たちを眺めていて、それさえも嬉しく感じる。
なあ、シルヴィア。俺たちと来たら、とっくのとうに恋人らしく見えているみたいだ。
そう時間は掛からない。時期に訪れる。俺たちならきっと、もう世界中が嫉妬するくらいの。仲良しで甘々な、偶にバカやって笑顔の絶えない、そんな最高の恋人になれるよ。
「アイシトルデ! ワタシノ、cariño!」
「ちゃんと勉強しような。標準語を」
そしていつの日か。この何気ないキスと同じくらい、当たり前のように。
然るべき場所へ辿り着く。シルヴィア、お前も俺にとって、本物の――――。
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