822. 大人じゃないけど
嘘みたいに柔らかい。
あちこち、至る所、柔らかい。
年端に違わぬ瑞々しい肌。アニメ漫画みたいなロリ巨乳のノノや琴音と比べるのは酷だが、決して貧相ではない。模範的なボディの持ち主である。
それ故に問題だった。揺れに気付いて慌てて湯舟を飛び出したのだろう。しっとりと濡れた柔肌が脳と神経を刺激する。
薄っぺらい浴衣一枚では到底抗えない何かがあった。軽率な判断がまたも仇となる。
スマホのライトが斜め前方にある鏡面台を照らしていた。真っ白な背中が見え隠れしている。
一抹の申し訳なさか、或いは手の力が抜けてしまったのか。スマホをぽとりと地面に落として、彼女の姿は見えなくなった。
『ヒロっ……ちゃんといるわよね? ここにいるのよね……っ?』
『……そうじゃなかったら、誰にしがみ付いているんだよ。幽霊か何かか』
『……ゾンビみたいな目ではあるわ。確かに』
『好きなだけほざいてろ。もう言われ慣れたよ……落ち着いたか?』
『……ごめんなさい。もうちょっと……っ』
まだ肩は震えていた。腕に一層力を込めてきつく抱き締められる。落したせいでライトは地面ばっかり照らしていて、部屋は真っ暗なまま。
そう。見えていない、というのが本当に宜しくない。柔らかな感触ばかりに意識が向いてしまって、戯言の一つでも織り交ぜなければ、とても冷静ではいられなかった。
思考を停止しようにも、既に支配されていては手の施しようが無い。後の祭り。
なんて華奢で柔らかい。鼻先をくすぐるのは石鹸の匂いだけではなく、きっと彼女生来のものだ。
『あの……ルビー? だいぶ時間も経ったし、そろそろ大丈夫かなと……』
『……イヤ』
『そうは言いますけれども、いくら真っ暗とはいえこの状況は非常に宜しくないわけでしてね?』
『……えっ?』
段々と目が慣れて来た。暗順応というやつだ。例を見ない近さまで接近したルビーの顔が少しずつ露わとなる。
頬と目の縁には涙の跡が窺え、色素の薄い唇が熱っぽく爛れぷっくりと浮き出て見える。どことなくか弱さを強調する姿は、迷子の幼子を想起させた。
かと思ったら、慎ましくも強気な双丘がぐにゅぐにゅと形を変え心臓を叩き付けて。
もう何が何だか分からない。騙し絵でも見ているような気分になる。
……不味い。完全に慣れて来た。
わざわざ評するまでもない。綺麗なサーモンピンクだ。まだ誰の手も赦していない。穢れを知らぬ未成熟な膨らみ。
いや、むしろちょうど良い塩梅なのかもしれない。云うならば食べ頃。年の差、目の色の違いも障害へは至らない。
綺麗だ。美し過ぎる。あまりにも。
こんなの反則だって――――。
『…………あ』
よほどパニック状態だったのか、どうやら本当に忘れていたらしい。自身が一糸纏わぬ生まれたままの姿であることを。
いくら気が動転していたからって、そんな都合の良いことあるのかよ。と疑問を投げ掛ける暇も無かった。暗闇の中でも分かるくらいに頬を真っ赤に染め、わなわなと震え出すルビー。
『……ビャああアアア゛アアアアアーーッ!?』
「ちょっ、危な!?」
勢い任せに胸板をドンと押し、大慌てで距離を取ろうとする。ギリギリのところで右腕をキャッチ。
こんな視界の悪い、それも滑りやすい地面で取り乱そうものなら怪我に直結してしまう。頭を打つのだけは避けなければ。
『やだぁっ、離して、離してええぇぇーー!! 見ないでよぉぉおおっ!!』
「だから見えてねえって!!」
が、そんな俺の思惑など一切気に留めず大声を挙げ暴れ狂うルビー。半狂乱の三文字が何より相応しい。
日頃の距離感はバグレベルで近い癖に、貞操観念は一丁前である。よしんば相手が瑞希か比奈だったら停電になった瞬間襲われるんだろうな、とか余計なことも考えつつ、一先ず宥めに掛かるのだが。
「暴れるなって! ホンマに怪我すっから! 止めろ馬鹿、引っ張るな!」
『貴方が離さないからでしょぉぉッ!?』
その後も聞き取れないバレンシア語で二つか三つ大いに叫び散らし、暫しの押し問答。命を懸けた暗中綱引きが続く。
『痛っ゛た!? ううぉっ、ちょっ!?』
『ギャああアアァァ゛アアアアッ!?』
足の指に激痛が走り、危うくバランスを崩し掛ける。正体はすぐに分かった。タイルの地面と檜風呂のある木の床が段差になっていて、躓いたのだ。
揃ってゾンビでも目の当たりにしたかと思うほどの絶叫を挙げ、スケートリンクに裸足で放り出されたみたいな、たどたどしいステップを踏み。
檜風呂の縁に身体が引っ掛かり、同時に湯舟へ頭からダイブ。激しい濁流に呑まれ温水は外へと溢れ返る。
まぁ、そうなるように上手いこと仕向けたんだけど。これが最善の策だった。つるつる滑る床で暴れるよりマシだ。
かといって浴衣のままびしょ濡れになりたかったと言えば、決してそんなことは無いけれど。妥協の産物。
「ブハァっ……! はぁっ、ハァ…………あー、暖ったけぇ~……」
『もうっ、なんなのよぉぉ……!』
元々入る予定ではあったがまさかこんなタイミングとは。しかも数か月ぶりに混浴ドッキリが成就するという。絶妙に嬉しくない。
二人で入っても余裕がある程度には広い。底も深く頭を打つことも無かった。もうなんでも良くなって来る。このままゆっくり浸かろう。
『ちょっと、なんで脱いでるの!?』
『浴衣着ながら風呂に入る馬鹿がどこにいるんだよ。そっち向いとるから、暫く大人しくしとけ。見やしねえよ……』
『それって……こっ、このままここに居ろってこと……!?』
『スマホのライトだけで身体拭いて上手に着替えられるのならどうぞ。もう俺は疲れた。一歩たりとも動きたくない』
『えぇぇ~~……』
途端に頼りない気の抜けた男が現れルビーも呆れたご様子。誰のせいで疲れていると思っている。俺は最大限の努力をしたよ。貴様が踏みにじったんだ。諸々。
『……停電、まだ直らないの?』
『さあ。まぁでも、こういうとこってだいたい非常用の電気とかあるし、そう長くは掛からんやろ。仮にも一流ホテルやし』
『…………そ、そう……っ』
取りあえず『暗闇のなかで動くと危ない』という真っ当な事実だけは把握してくれたのか。浴槽へ留まることにしたようだ。
身体の向きを変えたのか水面がぷかぷかと揺れ動く。反対側向いてるから、分からんけど。
それからちょっとの間、ルビーは一言も発さず沈黙を貫いていた。それでいい。こんな暗闇の中でやることと言ったら湯河原の温もりを余すことなく堪能するくらいのものだ。大人しくしていて欲しい。
……いやホンマに。お願いだから。
余計なこと喋らんで欲しい。
黙ったら黙って思い出してしまう。別に混浴そのものは構わない。ただ、目の当たりにしたばかりの綺麗な身体を想像してしまって。
温水を頭から被り気分は落ち着いている筈だが、胸の高鳴りは収まらない。非現実的な状況も相まって、吊り橋効果でも働いているのだろうか。
そうでもなくても全裸のルビーがすぐ後ろに居ると考えたら……駄目だ駄目だ。余計なことを考えているのは俺の方だろうに。
『……まだ?』
『結構掛かっとるな』
『…………ねえ、ヒロ』
湯気と一緒に消えて無くなるくらいのか細い小さな声で、ルビーは呟いた。だから、やめろって。なんだその馬鹿に扇情的な声色は。
『……見た、の?』
『何遍も言わせんな。見えてねえよ』
『でもっ……ちょっと慣れて来てるでしょ?』
『……まぁ、多少は』
『……………………嘘つき』
背中越しにジットリとした視線が突き刺さる。看破されていたようだ。
バレないわけないか。さっき気付いたとき、俺が胸元を直視していたのも一緒に分かっただろうし。
非常に気まずい。なんてったってあのルビーだ。ちょっと抱き寄せて写真を撮るだけでも涙目になってしまうような、実は年相応に初心だった彼女。
伝統あるトラショーラス家の栄えある一人娘が嫁入り前に肌を晒すなんて、とんだ罰当たりだ。そんなことでも考えているのだろうか。
『……ごめん。色々と』
『…………謝らないで。不可抗力だもの。それに……本当ならお礼を言わなきゃいけないわ。でも、その、早く忘れて……っ?』
『ほな、お互い様ってことで……なっ?』
年頃の裸を目撃した罪と、ちょっとしたハプニングを助けてやった義理では釣り合わないだろうが。本人が納得しているのならこう述べる他ない。
すると、背後で動きがあった。
いや、そっぽを向いているからあくまで感覚なのだが。何やらもぞもぞと動いている。縁に溢れ返った温水が唯一の証拠。
振り返ろうにも首を捻れば先ほどの二の舞。黙ってやり過ごそうと口を噤んだ。だが、これは悪手だった。
『…………ルビー?』
『……や、やっぱりダメよ。全然足りない。助けてくれたんだから……ちゃんと、お礼はしないと。日本で一番大切なマナーでしょう?』
『いや別に日本に限らんと思うけど……えっ、ちょ、おいっ。ルビー?』
酷く震える声色に気を取られ、対応は遅れてしまった。腕を掴まれている。なんなら肩に当たっている。非常に柔らかいものが。二つ。
もう片方の腕で頭を抑えられてしまい、ついぞ視線が重なる。青色の大きな瞳とほんのり濡れた唇が、すぐ目の前まで迫っていた。
『ルビーって、子どものあだ名なの』
『……えっ?』
『小さい子はシルヴィアって、舌っ足らずで上手く言えないから。自分をそう呼びなさいって、パパとママに教わったの…………もう、卒業しないといけないのかも。まだ大人じゃないけど……でもわたし、子どもでもないわ……っ!』
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