820. 今じゃないかぁ~
傘も差さず渡ったばかりの桟橋を手を繋いで逆走した。楽しかった。なんか、こう、青春って感じで。楽しかった。謎にエモかった。
「……あぁ~~勝ったぁぁ~~……っ」
何に、とか野暮なこと聞くんじゃない。
俺は人生の勝者だ。異論は認めない。
さらさらの熱湯が冷え切った芯まで染み渡る。温泉水特有の硬さが身体の凝りをほぐしてくれて、背中と肩の筋肉がぐでんぐでんに緩む。
平日ド真ん中、遅い時間帯。他に誰もいない。一向に止む気配の無い大雨のせいで露天風呂こそ使えないが、極めて些細な問題だ。すべてはこの瞬間のためにあった。俺は今、人生のピークにいる――。
『見ろルビー! 二十四時間営業だ! サウナもいっぱいあるぞ!』
『それは別にどうでも良いけどよくやったわ!』
この街はあちこちに銭湯があってお風呂好きの俺はまったく困らないのだが、数ある温泉商業施設の中でもトップクラスの充実度を誇るのがここ。
サッカー部合同のサ活でも度々話題に挙がるのだが、あまりのお値段の高さ故『高校生の間はまぁ行けねえよな』でだいたい話が終わる。風呂好き、サウナーによって永遠の憧れ。桃源郷。
偏にルビーのおかげだ。来月のシフト数を脳内で捏ね繰り回しながら財布を取り出したところ、とんでもないことを言い出した。
『あらっ? ここってブランコスのスポンサーなのね。だったら確か…………あったわ! 優待券!』
『はい?』
『ちょっと通訳しなさい! 何を隠そうセルヒオ・トラショーラスの一人娘だもの、1ユーロどころかペソも払ってあげないわ!』
『神様?』
頭からつま先まで恩恵に預かったわけである。お金を払うどころかマネージャーっぽい偉そうな人が出て来てお礼まで言われた。スポンサーって凄い。
また、びしょ濡れで着替えが無い旨を伝えると『お世話になってますから!!』と結構な念押しと共にグッズTシャツをプレゼントして貰った。二人分。帰りの服も解決というわけだ。至れり尽くせり過ぎる。反動が怖い。
(甲斐性もなんも無えなぁ~)
風呂に浸かりながら金持ち金髪女のことについて考えたのは生涯二度目。二度目があるとは思わなかった。摩訶不思議な人生だ。
一声掛ければ支配人が飛んで来てタダ風呂にありつけるのだから恐ろしい身の上である。金にはさして困っていないが、こうも金銭感覚の差異を見せ付けられると思うところもあり。
(ずっと日本におるんかな。アイツ)
チェコはこの街に長いこと留まる予定は無い筈だ。三年以上同じクラブで続けないし。あの人。
もし彼女が俺と、俺たちとの将来を本気で考えているとして……チェコのもとを離れてでも一緒にと、いつか言ってくれるのだろうか。
親元を離れたら、今のような何でもアリの不自由ない生活は送れなくなる。一度身に付いた金銭面のハードルを下げるのは大変だ。
そしてすべての皺寄せは俺へ集まる……仕送り六割で生活して、隙さえあればプレゼントを買い与える感覚麻痺人間の俺に。
(都合の良いこと言ってばっかや……)
風呂敷を広げるだけ広げて、責任も取らず逃げるような未来だけは断固拒否。気付けば三年生も四分の一が終わる。
将来のこと、しっかり考えないと。ルビーだけではない。みんなが納得出来る未来を、今のうちから……。
「まぁでも、今じゃないかぁ~……」
まだサウナを全制覇していない。それとこれとは別の話だ。入って良いんだからちゃんと入らなきゃ。貰えるものは貰っておくんだ。
何も分からない。考えたくない。
お風呂とルビーが最高だってことだけは分かる。
長旅から戻り更衣室のロッカーを開けるとスマホが喧しく転倒していた。すべてルビーからの連絡だ。さっさと出て来いとスタンプが連打されている。
(めんどくせえ。帰るの)
そんな気にもなる。観光ホテルとしても非常に評判が高く、更にマッサージや岩盤浴、最上階には馬鹿広いゲームコーナーや読書処もある。本当なら丸一日使って堪能したい。
が、本来なら予定外の滞在だ。明日も大切な予定があるし、ルビーを朝帰りさせようものならチェコになんて言われるか。
仕方ない。今回はあくまでラッキーだっただけ。今度はしっかりとプランを立てて、もう一度ルビーと一緒に来よう。
というかルビーがいないと来れないし。なんだか立場を利用するみたいで嫌だけど、でも誘おう。
『やっと来たわね』
『修学旅行ぶりやな。着せてもらったのか?』
『自分でやったわよ。まぁ適当だけど。あとはゆっくりするだけだし、なんでもいいわ……そういうシャツ、似合わないわね』
『ホンマにな』
着替えを済ませ待合場所へ向かうと既にルビーがいた。ちゃっかり浴衣姿。
金髪の外国人が着るとこれはこれでまた風流があるというかなんというか。適切な誉め言葉が見当たらない。頭も回らない。ふわふわしてる。
って、ちょっと待て。
ゆっくりするだけ?
『帰るんじゃねえの?』
『えっ? 部屋押さえて貰ったわよ?』
『は? 泊まるの?』
『わたしは平気よ。パパにはもう連絡したし、一日くらい授業に出なくても差し支えないわ』
『……いやいやいやいや』
宿泊費までタダ乗りしたのか。
ここぞとばかりにVIPの特権を。
粗方の手続きも終わっているようだ。その部屋のモノらしき鍵をクルクルと振り回し、ルビーは得意顔でこう話す。
『専用の部屋があるのよ。わたしみたいな人間だけが泊まれる特別なところ。オオサカに居た頃も一回使ったことがあるわ。他の系列のホテルだけどね』
『……泊まれと?』
『大きな部屋だし大丈夫よ。枕を取り合うようなことにはならないわ。それともなあに? 今から走って駅へ向かうつもり?』
『えっ……あぁ、もうこんな時間か』
ラウンジに飾られた時計は既に日付が変わっている。ゆっくり過ごし過ぎた。ここから施設を出て橋を渡って……とても三十分では無理だろう。
自分で蒔いた種とはいえこれは想定外。別に明日、休みってわけじゃないんだよな。三限まで出て、そこから有希と合流するから…………いや無理だ。昼前に学校へ辿り着ける気がしない。授業は諦めるしかなさそうだ。
まぁでも、そうだな。せっかく寝床があるなら大人しく肖るべきか。そもそもタダで温泉入らせて貰った時点で遠慮もなんも無いわ。身の程を知ろう。
『なあに? 明日のことが心配?』
『それもあるけど……』
『ならさっさと行きましょ。待ち草臥れちゃった。貴方ったら本当に長風呂なんだから。もう一回マッサージに行こうかと思っていたくらいよ』
『行ったんかい。既に』
『岩盤浴もね!』
通りで肌がツルツルなわけだ。ほんのりと朱に火照った身体を身軽に揺らし、エレベーターのボタンを押し到着を待ち侘びる彼女。
生地の薄い浴衣のせいで身体のラインがハッキリと分かる。小ぶりなヒップと細いウエストがこれでもかってくらい強調されていて、目のやり場に困った。ルビー相手にこういうこと考えるのは新鮮だな……。
『……同じ部屋なんだよな?』
『一つしか空いていなかったのよ。と言っても、中も幾つかの部屋に分かれているみたい。それなら気にならないでしょ?』
『……ふむ』
心配しているのはそこ。先のアンパ○マン号の件もそうだし、修学旅行でも同衾を避けようとしていたルビー。
キスの一つで精一杯になるくらいだ。今でこそそういう関係ではあるかもしれないが、肉体的接触には壁があろう。
隣同士で寝るわけでもなしに問題無いでしょ、ってことか。まぁ、ルビーが嫌じゃないのなら別に構わないけれど。
……ハプニング、起こらないだろうか。何なら今の時点で兆候があるのが怖い。湯に当たって無性に色っぽく見えるのだ。後ろ姿も艶があって……。
『今日ばかりはパパに感謝しないと。でもまさか、ここに来て当初のプラン通りになるなんて……お昼の揺り戻しが来たのかしら?』
聞き取れないほどの小声でボソボソ呟いている。中身を問い質す前にエレベーターが来て、中の広さに驚いているうちに機を失した。
頭がぽわぽわしている。分かり切った結末だ。こんな気の抜けたときに限って、とんでもないことは起こる。
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