817. 名は体を表す


 ルビーは道を塞ぐように一歩踏み出す。海風に揺れるゴールドの纏いが一面へと広がった。他のものなど見なくても良い、私だけを見ろ。そんな意思さえ感じる。暫くは彼女の思惑通りだった。


 目を離せないのは、なにか言い出そうとしてはむず痒そうに口を噤み、仮面みたいに強張った表情がどうにも珍しかったから。だが思えば、触れ合うほどの近さまで接近した数十分前と同じだ。ちょうどこんな顔をしていた。



『……ヒロと初めて逢ったときのこと、覚えているわ。寒い冬の日だった』

『まだ一月やったな。でももう半年か』

『いいえ。貴方は覚えていないでしょうけれど、わたしたち、ずっと前から顔見知りだった筈よ。まぁ、話だけは聞いていたけれどね。パパから。ちゃんと顔を合わせたのは、アレが初めてだった』

『……大阪?』

『そう。三年半も前から知っているわ。今よりもっと子どもっぽくて、余裕が無くて、女の影一つない貴方のことをね』

『嫌味かよ』

『そうに決まってるでしょ』

『面目ない』


 三年前。ちょうどチェコがセレゾンの監督に就任した年だ。当時中学三年生だった俺は、夏のクラブユース選手権での活躍を機にチェコの指揮するトップチームへ度々招集されていた。


 練習後に自主トレでグラウンドへ出ると、チェコがスタンドを指差して『あれは私の娘だ。どうだ中々の美人だろう』と顎髭を撫でながら楽しそうに自慢していたのを思い出す。


 同期の間でも話題の種だった。いつもスタンドにいる金髪の外国人に手を出したら闇の勢力に殺される、なんて南雲が尾ひれを付けて噂を流していたっけ。じゃんけんに負けた内海が特攻させられていたな。結果は忘れたけど。



『気付いてる? ヒロって練習も試合も、全然スタンドを見ないの。わたし、何度も貴方に手を振ってアピールしていたのよ?』

『見るわけねえやろ。こんなんでも本気でプロ目指してクソ真面目に藻掻いてたんだよ。女に目移りしてる場合じゃねえよ南雲でもあるまいに』

『ンフフフっ! その台詞、当時の貴方に聞かせてあげたいわ! 今じゃ沢山のガールズたちの尻に敷かれて、すっかり怠けてしまったって』

『その件はもう終わった。舞洲でな』

『貴方は良くても、わたしはまだよ!』


 なんだか『今のお前は当時と比べてダメダメだ』みたいなニュアンスで突っ掛かって来る。ムカつく。分かってるけど。ムカつく。


 でも表情は変わらず晴れやかなままで、今一つ真意が読めない。よしんば俺とルビーがフットサル部の皆よりも早く出逢っていて、それがどうしたというのだろう。時間は関係ない。語るべくは中身の濃さだ。



『あーあ! せっかく良い雰囲気になったと思ったのに……やっぱりダメね。何故かふざけたくなっちゃうの。どうしてなのかしら?』

『だから、お前のせいやって』

『違うわよ! ぜーんぶヒロのせいなんだから!』


 俺を置いて一歩歩み出る。拵えた傘を、宙で円を描くように振り回す。さながら舞台に立ちステッキ片手に舞い踊るアクターのよう。


 いつか見た映画にこんなシーンがあった。このまま歌い出せばきっとその通りになる。哀愁漂う中年ではなく美少女では、やや味わいが足りないか。



『楽しそうやな』

『ええ、とっても! 貴方と同じ毎日を過ごしていることが、わたしにとってどれだけ美しくて、幸せで、夢のような時間か、分かるかしら?』

『さあ。想像もつかないな』


 口振りから察するに、彼女は舞洲で俺を追い掛けていた頃から、なにか特別な感情を抱いていたのだろうか。そのような話は聞いたことが無かった。



『わたし、友達が居なかったの。ノノ以外』

『知ってる。なんとなく』

『大阪では特にそうよ。だからいつもパパの仕事場で遊んでいたの。ヒロを見つけるまで時間は掛からなかったわ。誰よりも速くドリブルして、誰よりもゴールを決めていたら、それがヒロだもの』

『なのに声は掛けなかったのか』

『どうしてだと思う?』

『さっさと教えろ』

『もうっ。そういう強引なのは嫌いよ。……でも、良いわ。教えてあげる。自信が無かったのよ。貴方と釣り合うだけの自信が』


 耳を疑った。芝居掛かったシュンと肩を落とす仕草も目に留まらない。部内随一と言っても過言でない自己顕示欲の持ち主である彼女が、自信が無かった?



『ノノと離れ離れになってから、ちょっと腐っていたわ。この街で再会して、日本語でやり取りしようって約束したのに……ロクに勉強もせず漠然と毎日を過ごして、パパの後を着いて回るだけ』

『半年前まではそうやったな。確かに』

『あの子と一緒なら、どんな世界も輝いて見えていたわ。でも気付いたら、見渡す限りグレーの曇り空。先の見えない暗闇……この空みたいにね』


 結局降るんじゃない、もうっ。ルビーは不満げに呟き傘を差し直した。肩袖にひんやりとした感覚が伝う。雨雲が戻って来たようだ。



『それで? 俺ともう一度出逢うまで、ルビーはどうやって過ごして来たんだ?』

『……一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、心のモヤモヤが晴れる瞬間があった。ヒロ、貴方のプレーをスタンドから眺めているとき。そのときだけは少しだけ元気だったわ。ノノと居た頃を思い出せたから』

『俺とアイツにどんな共通点があると?』

『分からない。言葉で説明しようとしても無理。ただワクワクして、ドキドキして……キラキラと輝いて見えた、それだけのことよ』


 嬉しかねえな。ノノと同じ扱いとは。アイツの顔が浮かんで来た途端シリアスな空気が全部吹っ飛んでしまう。どっか行ってて欲しい。


 ただ、ルビーの言いたいことは。

 実はちょっと、なんとなく分かるのだ。



 ルビーが目の当たりにした当時の俺は、恐らく廣瀬陽翔というプレーヤー史上最も調子に乗っていた時期だった。同期との溝、世代別W杯での挫折と悪いことも多かったが、身体のキレはとにかく良かった。


 チェコの指導を受け、プロへの明確な道筋をイメージ出来た。ネガティブな感情を少しだけ忘れることが出来た。確かに俺は、言うように『キラキラ』していたように見えたのかもしれない。


 同列に語られるノノも、今にも増してファンキーで天真爛漫な少女だった筈だ。なんの悩みも無いポジティブの塊みたいな奴。

 恐れを知らず前だけを向いて生きているノノの姿は、きっと当時のルビーにも大きな影響を与えたのだろう。


 なるほど。余計なモノには目も寄越さず、無我夢中で毎日を生き急いでいた。当時の俺とノノはそんなところで共通項がある。



『そして今年の冬。あの頃とは似ても似つかない貴方と、もう一度出逢ったわ。ねえヒロ、気付いてる? わたしの人生のターニングポイントには、いつも貴方とノノがいるのよ。どうしてなのかしら?』


 差しっぱなしの傘をこちらへ向け、盾代わりに突き付ける。気付けばすぐ近くまで戻って来た。

 橋を渡り切るつもりはまだまだ無いらしい。あまり悠長に構えている場合でもない。雨脚は強まっている。



『……さぁ。運命、とか?』

『ええ。その通り。貴方にとってはなんでもない存在で、取るに足らない日々だったのかもしれない。でもねヒロ。それは貴方の都合よ。貴方だけの都合』

『重いな』

『愛情深い、と言って欲しいところね』


 傘をひっくり返す。余裕があるのか無いのか、なんとも言えない微妙な顔をしたルビーが瞳いっぱいに飛び込んで来た。

 予測は出来た。出来ない筈がなかったのに、左胸が馬鹿に弾んで落ち着かない。心なしか息は荒い。双方、共々。


 過小評価か、或いは見逃していたのかもしれない。俺がこの半年間。いや、もっと前から彼女に与え続けていた影響を。

 そして、シルヴィア・トラショーラスという少女が思いのほか。いや、ある意味予想通りの、非常に諦めの悪い女であることを。


 数時間前に立てた予想は、遠からず的中していた。それがどれだけ不器用で、不格好なものだとしても。彼女は、あくまでも本気だ。全力なのだ。



『……結局こうなるのよ。貴方とのお喋りはいっつもこう。色んなところへ脱線して、一番大事なことを忘れてしまうの』

『そうだったかな』

『でも、嫌いじゃない』


 傘を差し出し濡れないよう中に入れと促して来る。抵抗することも出来たが、流石に許されないと思った。


 なんだか嫌な予感がする。嫌と言うか、ここに来て彼女の目論見通りに事が進み過ぎていて、恐ろしいものを目の当たりにしている気分になった。


 まさか、午前のポンコツぶりもこの瞬間までの前フリだったのか? 何もかも計算済みで、俺が代わりに傘を持つことさえ、既に想定していたとか?



『残念だけどヒロ。オオサカで見つめていた貴方と、この街で出逢った貴方は、ちょっと違うわ。こんなに適当で女癖の悪い人とは思ってなかった』

『俺ってそんな適当か?』

『ばか。そっちより後半の方を否定しなさいよ…………でも、もう良いわ。諦めた。諦めたっていうか、どうでもいい。どうせ誰もわたしに敵わないんだから』

『ハッ……エライ自信やな』

『貴方が思い出させてくれたの。大切な思い出と一緒に…………ねえ、ここまで言っちゃったらもう必要無い気がするんだけど、どう思う?』

『……好きにしろよ。誰も止めん』

『貴方だけよ。止められるのは』


 そんな気が無いことくらい、とっくに分かっているだろう。やられた。罠に嵌められたんだ。最初からこうなるって、それこそ分かっていたのに。



 ……いや、違う。そうじゃない。


 ルビー。お前はそんなに賢い、計算高い女じゃない。その美しいブルーの瞳に吸い込まれていたおかげだ。ギリギリのところで思い直せた。


 お前も同じだ。あの頃の俺やノノと。ただ美しいものを、欲しいものを手に入れたくて、必死に藻掻いて、前だけを向いて。


 髪色も、水面に弾ける宝石のような雨粒も。及びやしない。そんなもの無くたって、お前はいつもキラキラと輝いている。名は体を表すというわけだ。


 こんなに可愛い最高の女に言い寄られたらさ。罠に嵌まるとか、そんなのもう無いんだよ。自然な成り行きだったんだって。



 ……クソ。でも、やっぱり悔しい。

 ルビー相手にこんな気持ちを抱くなんて。


 分かんねえ。幸せかどうかも分からん。とにかく心臓が跳ねて跳ねて、どうにもならないことしか分からねえ。


 この不思議な感覚はちょっと覚えが無い。他の皆とは決定的に違う。安堵でも興奮でもない、謎の高揚感。なんなんだ、これ――――。






『好きよ、ヒロ。愛してるわ』



 もう駄目だ。

 口まで塞がれては逃げ場が無い。


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