809. 口答えするな


 まずは慧ちゃんを自宅まで送り、疲れて眠ってしまったミクルを背負いながら続いて小谷松家を目指す。何度か送ったことがあるが、結構良い感じのマンションだ。こういうところに住みたい。安アパートへ帰りたくない。



「ほんじゃあ、また学校でな……にぃに!」

「おやすみ、聖来」

「えへへへへへっ……!」


 帰りの電車で一番元気だったのは、他でもない小谷松さんもとい聖来だ。慧ちゃんを前にしても一切隠そうとしないので、ついぞ言及されることも無かった。諦めの境地だ。或いは気付いていないという可能性も。慧ちゃんだし。



「というわけで、聖来のにぃにです」

「意味分からん。キショ」


 ここからアパートへは十五分ほどの道のり。先のやり取りを一字一句漏らさず文香にぶち撒けたところ、バッサリ切られる。


 俺が一番説明して欲しいんだよ。心の整理をしたかったんだよ。下半身事情丸裸にされて、それを『怖い』とか言われてしまった俺の気持ちを、お前なら分かってくれると思っていたんだよ。頼むよ文香。助けてよ。



「ええやん取りあえずは。じゃじゃ丸相手に余計なこと考えんと済むようなって」

「ねえ分かる? 俺さっきからずっと泣きそうなんだけど? 分かる?」

「知らんわ」


 文香も文香でストーキング行為の根源とにぃに呼びの謎を知りたがってはいたようで、最初は興味津々で聞いてくれていたのだが。

 段々と不機嫌というか呆れ顔になり、真面目に返さなくなった。理由を聞く気にもならない。もう傷付きたくない。



「言うてアレや。ホンマはまだ信頼してへんねん。ウチらに対しては。一年共はアプリで監視。ほんではーくんが兄貴……形はちゃうけど、どれもこれも言うところの『保険』やさかいに」


 いつまでもメソメソしている俺の相手も億劫になって来たのか、欠伸を皮切りにさっさと話を纏めに掛かる文香。



 しかし、言われてみれば確かにそうだ。俺の常套手段でもある。聞こえの良い台詞を使って互いの関係をそれらしく補完する。言い表しようの無い複雑怪奇な感情を、分かり易い言葉で縛っただけ。


 俺とみんなの秘められた関係は、それこそ文言に尽くし難い愛情あって初めて成り立っているもの。言葉は後付けに過ぎない。


 春休みに琴音との一件があったように、それはそれで大切なものなのだが。やはりどうしたって優先順位が違う。

 まず何よりも心だ。薄っぺらい言葉だけで繋いだ関係がどれほど脆いものか、痛いほど知っている。



 と考えると、立場や物だけに頼ってしまう聖来は、まだまだ解決しなければならない問題が沢山あるわけだ。引っ込み思案な性格もそうだし。


 これからの関わり方次第で、俺が『にぃに』じゃなくなる可能性だって十分にある。まぁ、限りなく低い可能性だが。性の不一致って男女の関係で一番ダメなパターンでしょ。暫く引き摺りそうで辛い。



「暫く様子見るしかないんちゃうん。いっぺん『にぃに』で纏まったんやから、そっからどうなるかは今後次第やな」

「……せやな」

「じゃじゃ丸がどこまで自分を曝け出して素直に正直になれるか、これに尽きるわな。アプリに頼らんなってからホンマのスタートっちゅうわけや」


 これも文香の言う通り。聖来の性格上、今すぐストーカーアプリを手放すことは出来ないだろう。だが心から皆のことを信頼しているのもまた事実。


 勿論、彼女のらしさや個性でもあるのだが。本物の『安心』を得たいのなら、もっと生身の自分を曝け出して、同じくらい自分が誰かにとって安心出来る存在にならないとな。きっとこれからの長い高校生活で、少しずつ培っていける筈だ。



「むぅっ……揺らすなぁ……っ」

「わざわざ背負ってやってんだよ。贅沢言うな」

「んぅ、愚兄が口答えするなぁ……!」

「お前の兄貴だけは死んでも御免や」


 どうやら寝言のようだ。俺を弘毅と勘違いしているのか。黙っている分にはこちらも甘えん坊の妹みたいで、ちょっとくすぐったい気分になる。癒される。ミクルの癖に可愛いことを言うものだ。


 でもコイツも下の部屋に住んでるから、俺の下半身事情だいたい把握してるんだよな。うわあ。一気に冷めた。叩き落としたい。


 アパートへ到着。鍵が開いたままだったので、未だ山積みの段ボールへミクルを叩き落とし部屋を出る。布団にはちょうど良かろう。



(にぃに……かぁ)


 玄関先には昨日と打って変わり、雲一つない満天の星空。やはりどこを探してもにぃに座は見つからない。ふたご座よりまず兄妹座だろ。親子座でも良いよ。天文学者には常識が無いのか。


 他になにを思うわけでもない。俺の懸念していた事態が起こらなかったこと、彼女の信頼を得続けるための明確な基準が分かったことを一先ず喜ぶだけだ。


 真琴がついぞ妹になってくれなかったから、俺に兄としての才覚が欠片も無いことはとっくに知っている。でも、やらなきゃ。俺だけが出来ることだ。


 聖来もフットサル部の、ファミリーの立派な一員。にぃにでもなんでもなってやるさ……でも、休み明けからみんなの前でにぃに呼びか。怖いな、色々と。



「はぁ、疲れた……明日はルビーか」

「なんやわざわざ口に出して、嫌味かいな」

「んなつもりねえよ」

「ハンッ、どーだか。三日三晩女をとっかえとっかえして、さぞええ気分やろな」

「三日な、三日。三晩は面倒見切れんわ」


 階段を上がる途中、なんの気ない呟きに文香は機敏に反応を見せた。最後の台詞は半分ウソだ。三日三晩相手をしたことはある。

 そうは言うけどさ。辛かったよ。良いことばっかりじゃないんだ。欲望だけでは解決出来ないことが、この世には確かにあるんだ。



「ゲームでもするか?」

「ええよ。今日は。ウチも疲れたし」

「ああ、そう。ほなおやすみ」


 気力回復の特効薬は文香に退けられる。聖来の話を聞いてからちょっと不機嫌なようだ。これ以上ダル絡みしても気を立てるだけ。大人しく明日に備えよう。


 と、思って自室のドアノブに手を掛けた、その瞬間。シャツの裾を後ろからグイっと引っ張られる。無論、岡山発ストーカー系シスターの仕業ではない。寂しそうな目をして唇を尖らせる文香。



「どした? やっぱゲームやるか?」

「……ウチも、年下やもん」

「えっ?」

「ウチもワンチャン妹ある」

「無いよ?」

「……むぅぅ~……ッ!」


 自分でも驚くほどハッキリ否定してしまったせいか、文香はますます不満そうに唇を噛み、声にならない唸り声を挙げた。



「聖来が羨ましくなったか?」

「……なんか、ええなぁ思て」

「いやお前……向こうでも言うたけど、一度でも俺を年上か兄貴扱いしたことあったか? 無いやろ? 自分で言うとったろ、ガキ扱いすんなって」

「覚えてへんわ。んなの」


 文香が俺に敬語を使わない理由は色々とあるのだが、その一つに小学生の頃あった『ガキ』『ガキやない』の問答から生まれた敬語使わない宣言がある。


 その前からもずっとタメ口だったが、あれを機に敢えて年下ぶるような言動を一切しなくなったことを、このやり取りのおかげで思い出したのだ。



「……ウチもなんか欲しい。そーゆうの」

「そーゆうのて、お前だけやろ。はーくんなん呼びにくいあだ名で呼ぶの」

「……変えよっかなぁ~」

「今更ぁ?」

「なんや。案外気に入っとんやろ」

「まぁちょっと」

「……へっ。ほな今日は許したるわ」


 何を持って許す許さないのかサッパリ分からないが、一応納得はしたようだ。裾を離してフラフラと踊るような足取りで、二つ隣の自宅へと向かう。


 聖来の一件は解決出来たが、文香については棚上げのままだ。なにか問題が起こっているかと言えば、そういうわけでもないのだが。


 なにも起こっていないから問題なのだ。と、俺は問いたいし、彼女もきっと引っ掛かっている。お互い分かっている筈だった。



「おやすみ、文香」

「んにゃ。また暫くな」

「暫くって、あと二日の休みやろ」

「長いもんやで。幼馴染に会えない連休は」

「今までずっとそうだったろうに」

「…………せやなぁ。ホンマになぁ」


 曖昧な微笑を残し、文香は扉を閉め去っていった。タヌキ面には到底似合う筈もない、見る者を魅了するような、思わせぶりな笑顔。


 いや、どうだろう。今日に限ってはキツネ顔。或いは縄の切れっ端とヘビを見間違えるような、酷く軽率なものを予感させた。

 だが当の本人は猫キャラを目指しているらしく、一向に切れ端どころか答えも掴めそうにない。


 まぁ、でも。まだ、良いか。


 いつどんなときも文香は文香で、俺は俺。

 少なくとも『にぃに』ではない。一生。



「……寝るか」


 変な理由でもない。この胸騒ぎのワケは。さっきから鳴りっぱなしのスマホのせいで、身体ごと震えているだけだ。そうに違いない。


 次から次へと難題ばかり降り掛かる。今日は終わった。なら次は明日のことを考えよう。実はアイツの相手が一番面倒なんだ……。


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