691. 素晴らしい慧眼


 クラブハウスと言っても間借りの小さな施設、日本語の読めないルビーでも先導出来るほど規模は小さい。かつて国内一と言われた素晴らしい社屋は維持費が嵩み撤退してしまったと記事で読んだ。


 だがチェコは、河川敷に本拠を構える現ブランコスの放牧的な雰囲気を偉く気に入っているらしい。むしろ舞洲の近代的な施設は肌に合わなかったのだそうだ。


 窓ガラスから地上を見下ろし満足げに顎髭を擦るチェコ。クラブ指定のジャージ姿なのが惜しい。スーツを着せればただのダンディーな英国紳士だ。スペイン人だけど。正確にはバレンシア人か。



『グラウンドの隣は小さな公園だ。公開練習に来るファンも家族連れが多い。実に微笑ましい光景だろう。100万ユーロの夜景と美しい海にも引けを取らない。こうしてファンの声や表情を一つひとつ確認出来るのも、また良いものだ』


 妙に喉かな雰囲気だが、プロクラブのクラブハウスであることに変わりは無い。

 さっきから選手が少ない人数とはいえ度々出入りしている。落ち着かない。よく知っている顔ばかりだ。迸るアウェーの洗礼。


 ノノとルビーはラウンジに置かれていたテーブルフットボールに熱中している。バーを捻って駒を動かすアレだ。久々に見た。ちょっとやりたい。


 ルビーが指揮官の愛娘であることは周知の事実だそうで、関係者以外立ち入り禁止のこの場所で二人がどれだけ騒ごうと咎める者も居ない。俺も俺で監督の客人ということで普通に招き入れられている。大丈夫かよセキュリティー。



『相変わらず口数が少ないな』

『そういうわけでは……いったいどんなお叱りを受け、どのような言い訳をしたものかと、必死に考え込んでいるところです』

『私の叱責を受けるような真似を?』

『……違うのですか?』


 てっきり『遊んでないでさっさとサッカーに戻れ』くらい言われると思ったが。説教をするつもりは無さそうだ。良かった。安心した。怖かった。



『ルビーに世話を焼いてくれたそうだな。感謝している。このような形でキミと縁が結ばれるとは』

『では、貴方を父と呼ぶよう説得をしにここへ連れて来たのですか?』

『それは興味深い。キミのような立派な男が伴侶となれば、このじゃじゃ馬も少しは落ち着いてくれるだろう……十年は早いがな。色を知ったか』

『まぁ、そんなところです』

『良い傾向だ。心身共に充実していると、背中を見ただけで分かる。次に会うときは手荷物が一つ増えそうだな』

『……十年早いのでは?』

『残念ながら両手は妻と娘で埋まっているのだよ、ヒロ』

『なるほど。溺愛してますね』

『老いぼれの特権だ。悪く思うな』


 微笑を浮かべ顎髭を摩る。相変わらずユーモアとボキャブラリーの宝箱みたいな男だ。なにを持ってユーモアかはもはや分かり兼ねる領域だが。


 一方チェコの言う通りこれが単なる旧友の再会であれば、クラブハウスでの密会は相応しくない。オンとオフはしっかり分ける男だ。他に要件があるのだろう。



『ちょこざい真似しやがって』

『なにっ!? 聞こえないわっ!』

「そのまま遊んでろじゃじゃ馬が」

『ちょっと、いま絶対に失礼なこと言ったでしょっ!? 雰囲気で分かるんだか……アーーーーッッ!?』

「イエェェス!! 五点目ェェェェ!!」


 目を離した隙にまたもゴールを奪われる。テーブルフットボールはノノの圧勝で終わりそうだ。因果応報。


 なんとなく足を運んだと見せ掛けて、最初から俺をチェコに会わせる気満々だったのだ。そのうち連れて来いと頻りに言われていたのだろう。嵌められた。



『さて、本題だ。タカラベから話は聞いている。フットボル・サラのプレーヤーとして再起を図っている最中だそうだな』

『ええ、まぁ……プロを目指そうなどと烏滸がましいような環境ですが。自分なりに、本気で取り組んではいます』

『ヒロの言う本気がどのようなものか、私もよく知っている。才能に溺れず真っ当な努力を重ねていることだろう。私は教職者ではない、サッカーへ戻れなどと傲慢染みたことを言うつもりは無いが。しかしヒロ』


 つま先から顔まで全身を舐め回すようジロジロと観察される。な、なんだ。やっぱり説教か。当時みたいにミーティングルームに半日軟禁されて負け試合のビデオを延々見せられるのか……ッ!?



『……ふむ。やはり細くなったな』

『そ、そうでしょうか……?』

『特に上半身だ。学生スポーツと言えどこの身体では苦労も多いだろう。ルビーが話していた。男女混合のチームを組み全国大会を目指しているそうだな』

『……仰る通りです』

『この細い身体は命取りとなる。フットボル・サラは小手先の技術だけでは勝ち抜けない、サッカー以上にハードでタフなスポーツだ。女性だけを相手取るならともかく、キミより背丈のあるプレーヤーへ如何にして立ち向かうか』


 右肩を掴み不敵に微笑むチェコ。

 普通に力が強い。肩外れちゃう。


 ……確かに彼の言う通りだ。ここ暫く女に囲まれてプレーして来たせいか頭から抜け落ちていたけれど、俺たちの相手はあくまで男女混合のチーム。


 日比野や栗宮胡桃は女性選手の中では抜けているというだけで、チームや俺にとって真の脅威となるのは男の選手だ。

 特にここ最近は同世代の男相手にボールを蹴る機会がめっきり減っているし……対人プレーの強度という点では不安が残る。


 瑞希の多彩なテクニックが表すように、フットサルは華々しいスキルの応酬である一方、狭いコートでボールを奪い合う肉弾戦の一面も併せ持つ。


 元より俺は攻撃的な選手で、フィクソのポジションで守備をメインにプレーしているのはチーム上の都合だ。

 強靭なフィジカルを持つ、例えるなら男性版愛莉のような選手が全国の舞台にいるとして……俺は太刀打ち出来るだろうか?



『ミスター・アレクを覚えているか?』

『コロラド通訳ですか? それは勿論、貴方の欠かせない右腕ですから。今日はどちらに?』

『彼は今年からブラオヴィーゼでコーチをしている。私の元を離れ独り立ちの準備をしているのだ』


 ため息を吐きやれやれと首を振るチェコ。


 話題のミスター・アレクとは、チェコの通訳として活動していたスペイン人、アレックス・コロラド氏のことだ。

 言葉の分かる俺は彼を必要としなかったが、チェコの言葉をチーム全体へ伝える隠れたキーマンだった。


 トップの練習に加わったとき、個人的にコロラドから手解きを受けたことが何回かある。非常に前衛的で面白い指導をする人物だった。


 気鋭のデザイナーにも見間違うスタイリッシュな男だ。俺より髪の癖が強い。純スペイン人だから日本語の癖はもっと強い。



『ブラオヴィーゼの試合なら先日観に行きました。黒川と小田切さんが出場していたので。しかし監督は日本人だったような……』

『不思議な縁もある。彼は元々、フットボル・サラの選手だった。ブラオヴィーゼのサッカーチームではない。フットボル・サラのコーチとして招聘されたのだ。二つ返事で私の元を去って行ったよ』

『……そうだったんですか』

『来シーズンから正式に監督となるそうだ。元々サッカー界に長く居座るつもりは無かったらしい』


 ということは、真琴と試合を観に行ったときは既にブラオヴィーゼのコーチだったのか。流石に気付かなかった。


 通訳が指導者に転身するというのは意外とよくある話だ。監督の言葉をより正確に伝えるのが仕事だから、専門的な勉強をするうちに『自分も指導者になれるのでは』と考えるらしい。


 かの有名なジョゼ・モウリーニョもこのパターンだ。通訳兼助監督して当時のボビー・ロブソン監督を支えた。もっとも彼にとって通訳の仕事はあくまで踏み台で、すぐにでも監督になる気満々だったらしいが……まぁそれはともかく。



『このメモに彼の連絡先が記されている。ヒロ、キミがフットボル・サラのプレーヤーとして更に高いレベルへ到達するために……なにが必要だと考える?』

『……その言い方はズルいですね』

『私自身のためでもあるのだ。数年後、キミが何色のユニフォームを纏うかは神のみぞ知る、が……脆弱なフィジカルを理由に獲得を見送るようなことが無いよう、最低限の布石は打っておきたいのだよ』

『……それはまぁ、素晴らしい慧眼をお持ちで』

『ほう。その気なのか?』

『娘さんを引き換えにというのは如何ですか?』

『興味深い提案だ。その黄金の左脚が彼女の人生を保証してくれるのなら、サッカーでもフットボル・サラでも大した違いは無い。もっとも、社会的地位と名誉を天秤に掛ければそう難しい悩みでは無いだろう』

『……お節介な爺さんだ。相変わらず』

『お褒めに預かり光栄だ。主もさぞお喜びだろう』


 春休み最終盤。

 とびきりの宿題が与えられてしまった。


 やはり感動の再会とは至らなかった。まったく、主とやらはどれだけ俺に試練を与えれば気が済むのだ。興奮して夜しか眠れそうにない。


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