690. 身に余る傲慢


 ルビーことシルヴィア・トラショーラス・ペドロ=カステホンの自宅は交流センターから徒歩十五分、商店街を少し離れた高層マンションの一角であった。バイトの帰り『でけえマンションだな』とぼんやり眺めていたアレが住処とは。



「まだ立てねえのかよ」

「んぅぅー……むりぃ……っ!」

「自力でさえ歩けないとは犬畜生以下やな」

「センパイが悪いんですよぉ! ばかっ、へんたい、きちく、ベッドヤクザ!」

「やめろ往来で」


 ただでさえ街中をおんぶしながら歩いているのに余計な注目を集めるな。俺だってこんなアットホームな商店街で惚気たくねえよ。嗚呼、悪目立ち。


 オイタが過ぎたのか、外に出てからもノノはこうしてダラダラ甘え続けている。

 体力は然るべきメニューをこなし地道に付けていくべきだ。これだけ生産性の無い運動も珍しい。いやまぁ、生産性しか無いか。逆に。本来は。



「ほら、着いたぞ。降りろ」

「……ヤです」

「なんのために来たんだよいよいよ」

「マジで揺らさないでください。お腹響くんで」

「コイツ……」

 

 これからはちゃんと時間があるときにしよう。次の予定に差し支え過ぎる。我慢出来なかった俺も大概だけど。猛省。


 スマホを取り出しルビーへ連絡を取る。すぐにエントランスのドアが開き彼女が現れた。

 休日を過ごすには少々野暮ったい恰好だ。どこか出掛けるつもりなのか。



『あら、今日は甘えん坊なのねナナ』

「なんでおんぶされてんだとよ」

「いやぁ、ちょっと刺激物を取り過ぎまして……下腹部にこう、ダイレクトで」

「カレー食い過ぎたってさ」

「違いますよ。ちゃんと訳してください」

「お断りやボケ」


 特に不審がることも無く『日本のカリーは美味しいものね』と見当違いなことを言うルビー。良くも悪くも純粋な奴だ。どうかそのままで居ろ。



『さっ、行きましょ』

『行くってどこに』

『せっかくヒロがいるんだから、家にいるよりどこか出掛けた方が楽しいでしょ? わたしの部屋なんて面白いものなんにも無いし。ダメだった?』

『んなこたねえけど……目的は?』

『んふふっ。ヒロの会いたい人♪』


 本当はノノを横にさせたかったんだけど、別に体調が悪いわけでもないし理由としてはちょっと弱い。素直に従おう。


 しかし、なるほど。やっぱりそうなるか。いやでも、言うほどだけどな。むしろ怒られそうで怖い。色んな理由で。



『だったら最初からこっち来させるなよ。交通費無駄になっちまうだろ』

『……え? なんで?』

『途中で降りたらその分加算されるやん』

『これ一枚あればどこでも行けるんじゃないの?』

『お前にとって電子マネーはブラックカードと同義なんだな。よう分かった』


 世間知らず極まれり。


 というわけで再び電車を乗り継ぎ市の北部へ。新幹線の通っている大きな駅を出て徒歩十分。覚えのある競技場が見えて来た。



「ここでも試合したことあるんですか?」

「いや、あっちの小さいサブグラウンドだけ。ああでも、代表戦は一回観に行ったことあるな。ちょうど関東遠征と被って」

「トラックさえ無ければ良いハコなんですけどね」

「それはそうといい加減降りろ」

「いやで~す♪」


 元気を取り戻したノノだがこれはこれで面倒だ、適当に放り投げよう。

 大雨振ると近辺一帯貯水池になるし。文字通りのノートルダムだ。うむ、つまらない。



 収容人数七万人超を誇る日本最大の陸上競技場だ。ワールドカップ決勝の舞台にもなった由緒あるスタジアム。

 陸上トラックのせいで選手もボールも豆粒ほどにしか見えないのは観戦者にはネックだが、芝生の美しさは国内有数。


 南雲が強化指定選手として在籍している横浜ブランコスのホームでもある。愛莉が子どもの頃応援していて、元サッカー部の林主将も下部組織でプレーしていた。なにかと縁のあるチームだ。


 全国トップレベルの下部組織を擁し、セレゾン時代は全国大会にU-18リーグと対戦する機会も非常に多かった。

 トップチームは伝統の守備的スタイルから一転し、近年の低迷から抜け出そうと改革の真っ最中。



『昨日は公式戦だったし、今はこっちのフィールドでサブ組の練習を見ていると思うわ。ピッチに居なかったらクラブハウスね。もうすぐ終わる筈よ』

『詳しいな』

『何度もお邪魔してるし』

『越権行為甚だしいぞ』


 その改革を担うべく今期より招聘されたのが、ルビーの父親である元セレゾン大阪監督、セルヒオ・トラショーラス氏だ。親しい間柄ではチェコと呼ばれ、サポーターからはイングレス英国人の異名で知られる名伯楽。


 娘に連れられての往訪とはいえ向こうは仕事場、こちらは練習を見学しに来た一般客。どこまで接近出来るかは分からないが、顔を合わせるとしたら約一年半ぶりの再会だ。普通に緊張していた。



『ほら、あそこ! Soy yo, papáこっちよ、パパ! 愛しの一人娘が迎えに来てあげたわよー!』


 練習は外壁の無いこのサブグラウンドで行われている。芝生の土手を降りると見学へ来ていた熱心なサポーターが数人。ピクニック替わりにもちょうど良い。


 ピッチに出ていたチェコへ手を振るルビー。当人には届かなかったようだが、選手の何人かが反応を示した。どうやら娘であることは既に認知されているらしい……って、やば。



「なんで隠れるんですか?」

「……南雲おったわ」

「堂々と構えましょうよ。女コマして見下しに来てやったぞって」

「どういう立場からモノを言ってんだ……ッ」


 慌ててノノを降ろし背後に隠れる。そうだ、強化指定選手ということは練習にも帯同していて当たり前じゃないか。すっかり油断していた。


 別に喧嘩しているわけでもなんでもないけど、俺がサッカーを続けていないことに南雲はまだ不満を持っている。

 両手に華でヘラヘラしている姿をアイツに見られるのはちょっと嫌だった。或いは良心の𠮟責。嫉妬の的。非モテへの嫌味。



「良いじゃないですか。南雲さんになに言われたか知らないですけど、サッカーやってないセンパイが南雲さんに劣るとか、そんなこと無いんですから」

「……まぁな」

「南雲さんはプロを目指していて、センパイはフットサル部で全力でプレーしている。貴賤などありゃしないのです。加えてセンパイの方がイケメンです」

「お気遣いどうも……」


 不思議な感覚だ。黒川と小田切さんがプロとしてプレーしている姿を間近で見てもこんな気分にはならなかったのに。すぐ近くにチェコがいるせいだろうか。


 そうだ。あれだけ俺に目を掛けてくれたチェコに申し訳が立たなくて、ちょっとばかし恥ずかしいというか、気後れしている。



 幼少期からずっと隣でサポートしてくれていた財部と違って、チェコはなんというか、本当に雲の上の人で。


 国内リーグの監督で最も実績のある人物と言っても過言ではないし、そもそもセレゾンで関わりを持ったのが不思議なくらいサッカー界では名の知れた大物。


 監督としてだけではない。現役時代は攻撃的MFとしてスペイン代表でプレーし、国際大会制覇にも貢献した国際的著名人。

 優れた戦術眼と威厳を兼ね備え、欧州の第一線を離れた今も尚バレンシア、いやスペインの英雄として語り継がれる、本物のレジェンドなのだ。



 きっかけを与えてくれたのがバッジョ、面白さを教えてくれたのが財部なら。奥深さ、難しさ、プロとしての在り方を叩き込んでくれたのがチェコ。当時から彼だけには頭が上がらなかった。


 そんな人物が『今まで見て来たなかで一番の才能』とまで言ってくれた俺だというのに、金髪美女両手に拵えてノコノコ挨拶にやって来ただと。しかも一人が娘て。


 どうしよう。完全に気を抜いていた。怒られるわ。絶対に説教されるわ。普段は優しいけど怒ったら超怖いんだもん。やだ帰りたい。



『今日は友達を連れて来たわよ! パパにとっては旧友ってところかしら?』


 トレーニングを切り上げこちらへ近付くチェコ。当時と変わらぬ際立った白髪と立派な髭、少しやつれた頬を携え、老紳士は不敵に笑みを溢した。



『ああ、そのようだね。話はルビーから聞いている。ピッチではなくスタンド越しの再会とは、心底残念だが』

『ご、ご無沙汰してます、ミスター……』

『そう畏まるな。前と同じように、気軽にチェコと呼んでくれ。旧友に遠慮は不要だ…………ナグモ、クールダウンは済ませたのか? ファンサービスよりも優先すべきものがあるようだが』


 少し離れたところでノノに絡もうとした南雲を一喝。俺に気付くことなく奴はクラブハウスへピューっと逃げていく。


 そう、これだ。表情に出さない分、声色だけで機嫌が良いのか怒っているのかすぐに分かる。快活なルビーの面影はまったく無い……親子とは思えん。というか年離れ過ぎ。



『ラウンジへ案内しよう。舞洲には到底及ばないがね……移転までもう数年掛かるそうだ。その頃にはキミを迎え入れるに相応しい環境が整う。もっとも、私が歳を取り過ぎていなければの話だが……まずは水杯で、いかがかな』

『……別れの儀式を執り行うと?』

『そうならないようこの一年半、ひと時も欠かさず祈り続けた。フットボールの神に背こうなどと身に余る傲慢だ。主の怒りは恐ろしい。覚えがあるだろう。ヒロ』




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