658. 答え合わせ


「……12月、14日。快晴……っ」


 日記の真ん中辺りを開く。

 綴られた文面そのまま、彼女は語り出した。



「……サッカー部の試合を観戦する。あまり集中出来なかった。久しぶりに彼と話をしたせいだ。この二週間わざとらしいほどに距離を置いていた私へ、彼は呆れることも無く優しい言葉を掛けてくれた」


「週明けのことばかり考えている。彼が渡り廊下へ現れる瞬間。二人きりで過ごす時間が、今から待ち遠しい。これまでと変わらない、当たり前の日常が……こんなに、煌びやかに見えるなんて」


「12月21日、晴れのち曇り……終業式。冬休みを利用して、彼の地元へ赴くことになった。初めての対外試合。しっかりとプレー出来るだろうか」


「夏より上手くなった、成長したと、彼は褒めてくれるだろうか。この気持ちが不純だとは思わない。チームのために頑張ること。彼のために頑張ること。すべて繋がっている。私にしか出来ないことがある。彼は教えてくれた……」


 こちらの反応を窺いに一瞬だけ顔を上げて、すぐに視線を逸らす。逃げ道代わりの朗読が結局は同じ帰結を迎えると、聡明な彼女なら既に気付いているだろう。


 それでも、前へ進むのだ。

 自らの意志をもって、変化を求めるのだ。

 手助けは不要。ただ聞き入れるだけ。



「12月28日。晴れ…………大阪遠征が終わった。色々なことがあり過ぎて、一纏めにするのは出来ない。でも、これだけはハッキリとしている。彼が私を、私たちを必要としてくれたように。私の人生に、彼の存在は必要不可欠なのだ」


「試合後、彼が両親へ語った嘘偽り無い言葉に、私も強く共感した。もっと見て欲しい。関心を抱いて欲しい。分かりやすい何かが欲しい。甘えとは思わない。彼にとっても、そして私にとっても必要なことだから」


「順位や優劣の問題ではない。彼を想う気持ち、ただそれだけが重要だ。もっとも、世良さんのようなケースは今回限りにして欲しいものだが……」



 時系列に追うことで殊更に鮮明さが増す。漠然と抱いていた気持ちを理路整然と解説されるのは、聞いている側も中々の苦労だ。当事者たる彼女のソレとは当然比較にもならないだろうが。


 話は年明けから直近の出来事へ。どんどん話すペースが遅くなって行って、日記の内容より彼女の様子が心配だった。



「……1月10日。曇り。有希さんと真琴さんの受験対策に総出で付き合う。二人が羨ましい。彼に近づきたい、一緒にいたいという気持ちが、すべて良い方向へと進んでいる。肝心なところで勇気を出せない私とは大違いだ」


「1月13日、曇りのち晴れ……練習へ向かうと、陽翔さんが談話スペースで一人寝ていた。肩を揺すって起こすと、まだ寝惚けていたのか『可愛い』『良い子だな』なんて適当なことを呟く」


「半分寝ながらこんなことを言うのだから、きっと本心なのだろう。出逢った頃と比べて、すっかり無防備になった彼だ。人のことを言えないけれど」



「1月15日。快晴。彼の自宅で鍋をつつく。相変わらずキッチンには立たせてくれない。代わりに部屋の片づけをしていると、彼に『服の畳み方が綺麗』と変なところを褒められた」


「そんなこと今まで一度も気にしたことがなかった。皆も続々と集まって来て『確かにそうだ』と口々に褒めちぎる。大袈裟な人たちだ。でも、嬉しかった」


「比奈や両親は勿論、私自身でさえも知り得なかった事実を、彼は息を吐くように軽々と見出してしまう。そのうちの半分以上は認めたくもないことだけれど、でも、不思議と穏やかな気持ちになる」


「空っぽだった私を、彼の言葉が、態度が、底抜けの愛情が埋め尽くしている。それが幸せという概念であることを、ようやく理解出来るようになった……」



 真っ赤に染まった顔を長い前髪と日記でひた隠す。でも、隙間からちゃんと俺のことを見ていてくれる。それだけで十分だった。


 恥ずかしいのは一緒。だからこそ、真正面から受け入れなければならない。今までと同じなのだ。俺が琴音に与えて来た、与えられて来たものと。この部屋で執り行われている珍妙滑稽な出来事は、なにもかも。



「2月2日。雪のち雨。噂に聞いた通り、アルバイトを始めたようだ。理由までは聞けていないが、フットサル部の活動に支障の無い程度に頑張って欲しい」


「なんて、書きながら気付いた。放課後に彼と一緒にいる時間が減ってしまう。私に限った話では無いが、彼は理解しているのだろうか……」



「……2月13日。曇り。こうして筆を執るのも気乗りしない。彼の考えていることが分からない。私たちのことが大切ではなかったのか? 明日のためにどれだけの準備と気苦労を重ねて来たか、少しも気付いていないのか?」


「このまま彼は、私から離れていってしまうのだろうか。どれだけ理由を並べて安心しようとも、恐ろしく肥大した焦燥を塞き止めるには事足りない」


「些細なことで比奈と喧嘩した小学生の記憶を思い出す。あの時も、こんな風にペンを握りながら泣いていた。早く本当のことを知りたいのに。酷い態度を取ってしまったことを謝りたいのに。どうして殻に籠ったまま、一人で泣いているのだろう。弱い自分が情けない……」



 少しだけ強まる語気に、当時の不安や怒りが濃縮されているようだ。該当するページは水気で萎れているようにも見える。


 彼女がどれだけ辛い思いをしたか、想像するだけでも胸が痛くなる。琴音にとって何よりも恐ろしいのは、自身の存在を忘れられてしまうことだ。ルビーに限らずノノと仲良くなり出した頃も、同様の悩みに苦しめられていたのだろう。


 とかなんとか言っておいて、心なしか嬉しい気持ちになってしまうのは。流石に不謹慎だろうか。だって、そんなにも俺のことを……。



「2月14日。曇りのち雪。想像していたよりも簡単に解決してしまった印象だ。これも私たちが時間を掛けて築いて来たモノのおかげなのだろうか。


「だが、すべてが丸く収まったわけではない。市川さんにも話した通り、これからもきっと似たような出来事は起こる。彼女は勿論、私自身も彼との関係性を見直さなければならない……」


「ずっと先延ばしにして来たことだ。心はとっくに決まっている。一番でなくても、彼にとっての特別になれれば、それで十分。でも、どうすれば良いのだろう。方法が分からない」


「2月17日。快晴。先の件について比奈と瑞希さんに相談してみる。答えは揃って単純明快『もっと素直になれ』というものだった。出来たら苦労はしない」


「一先ずアドバイス通り、身体的な距離感を縮めてみようと思う。その程度で何かが変わるとは思えないが、やれることをやるだけだ。とはいえ、彼に限っては多少の効果は見込めると思う。ここ最近、胸元ばかり見過ぎだ……っ」



 セクハラ紛いの視線がとっくにバレていたのは今更として。彼女もバレンタインの事件を機に、俺との関係性について悩み出したのだ。


 ノノと関係を持ったのはその後のこと。どうやら琴音も一連の流れに関与していたようだ。まるで答え合わせ。


 しかし、二人に相談、か。

 ということは直近の行動はやはり。



「……最近前にも増して警戒薄いと思ってたけど、わざとだったのか?」

「まだ途中ですっ、黙っててください……!」


 上手いこと躱したつもりか。

 それでは肯定も同然だ。


 参ったな。こっちが恥ずかしくなる。方法はともかく、琴音も自分なりのやり方でアプローチをしていたということだ。それも、わざわざ俺の気を惹くために?


 

「……3月4日。曇りのち晴れ。試験が終わった。特に問題は無い筈だ。放課後は修学旅行の準備と言いつつ、彼の誕生日プレゼントを選ぶのが中心だった。結局良いアイデアが浮かばず、またもドゲザねこに頼る」


「3月6日、曇り……明日から修学旅行。いつものことではあるが、愛莉さんが彼を遠巻きに眺めニヤニヤしている。それにしても露骨な態度だ。なにかあったのだろうか。気になる」


「当の彼は、瑞希さんのクラスメイトに過剰なほど警戒している。不埒な想像でもしているのだろう」



「……3月8日。初めてのスキーが惨憺たる成果に終わった点を除き、楽しい修学旅行だった。さて、それはともかく……」


「……この三日間分かったことが幾つかある。まず一つ。彼も同様に、これまでのあやふやな関係性の是非を問うつもりがあること。二つ。愛莉さんが先んじて行動を始めること。三つ。彼が意外と子ども好きだということ」


「愛莉さんの決断を否定するわけではない。だが、それが私の求めていた答えだとするのであれば、あまりにもハードルの高い代物だ。私のような気遣いの出来ない女が、彼をどうやって満足させられるのだろう……」


 

 例の約束について、愛莉は全員の前で話してしまったわけだ。勿論琴音も聞いていた。そして、故の悩みがまた生まれてしまうと。


 クソ。今すぐにでも日記を取り上げて、すべて終わらせたい。すべて解決させてしまいたい。もうやることなんてとっくに決まっているんだ。


 でもそれじゃ意味が無い。俺から動いちゃいけないんだ。琴音が自らの意志で、すべてを納得するまで。理解するまで。目的を遂行するまで。


 俺が出来るのは、全部聞くことだけ。

 たった一つの問いに答えるだけ。



「3月13日。晴れ…………瑞希さんと出掛ける。昨日の出来事について詳しく話してくれた。わざわざ言い触らすようなことでもあるまいに、律義な方である」


「……私も同じようなことをしなければならないのか、と尋ねると、先にやることがあると言われた。それが何なのか、分からなかった。帰ってから比奈にも聞いてみた…………確かに、その通りだった。私はまだ、彼に伝えていない」


「……焦っているわけではない。それが私にとって必要だから、そうするまでだ。一週間後、必ず伝える。どんなに不格好な形でも、必ず伝えなければ……っ」



 琴音が俺に伝えたいこと。

 いったいなんなのだろう。


 知らない振りは長く持ちそうにない。

 だから、頑張れ。頑張れ、琴音……っ。



「…………3月18日、晴れ。彼と、映画を観に行く……帰ってきたら、この続きを書こう。絶対に、絶対に……っ!」


 今日の日付だ。同時に日記を閉じて、琴音は大きく息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。口元がほのかに歪み始めた。


 ここから先は台本無し。完全アドリブ。

 日記の続きは、今この瞬間から綴られる。



「…………陽翔さん……っ」

「……おう。どした」

「い、言いたいことが、あります……どうしても、聞いて欲しいことがあります………っ!」

「……いつでもどうぞ」

「…………来て、ください……っ」


 言われたままベッドに腰掛けて、真っ白な右手を少しだけ強く握り締める。驚いたように目を見開く琴音。これ以上無い緊張が指先から伝う。


 出来るのは、してやれるのはこれだけだ。

 あとは琴音、お前自身の声で、力で。



 正直に。素直なままに伝えて欲しい。

 そしたら俺も同じこと言うから。

 お互いほんのちょっとだけ、背伸びをしよう。


 背丈が釣り合わなくても、視線は同じ。

 中身が全然違くても、考えることは同じ。


 一緒に辿り着こう。

 二人で繋げて来た、世界一難しい問題の答え。



 つらつらと零れる宝石みたいな雫が、重なった掌に落ちて。止まっていたようで、実はちょっとだけ進んでいた時計の針が。ゆっくりと動き出した。






「…………好き……です……陽翔さん……っ」


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