657. 気になりますか
お盆に乗せた急須と菓子が今にも震え落ちそうだ。反射的に彼女へ近付くが、これは最悪の選択だった。逃げるように後退りをする琴音は足元に躓いてしまう。
「あっぶ、あっづ゛ッッッ゛ッ!゛!」
日記をベッドへ放り投げ、琴音の足元へヘッドスライディング。地面と衝突するギリギリのところで二つの湯呑を同時にキャッチ。
反動で零れた熱々のお茶が手の甲に掛かる。熱いというか痛い。しかし難は逃れた。
「怪我してないか……ッ!?」
「それはこちらの台詞かと……」
部屋の外に飛び出るような格好で尻餅を着く琴音。どうやら変なところを痛めたりということは無さそうだ。ホッと胸を撫で下ろす。
が、一難去ってまた一難。今日の琴音は。いや、今日も琴音は一丁前に短いスカートを履いている。そんな彼女がこちらに向かって尻餅を着いたら。
「……ふんっ!」
「いっでェ゛ッ!?」
お盆で思いっきり頭を殴られる。誤魔化しもせず純白パンツをガン見していた俺の非に違いは無いが、仮にも火傷寸前のピンチを救ったヒーローにはいささか厳し過ぎる制裁。
部屋と廊下の間でぶっ倒れる俺の脇をズカズカ通り過ぎて、ベッドに置いた日記を大事そうに抱える。
放置されたお盆に湯呑を乗せる。部屋の地面に置き直す。改めて彼女を見据える。なるほど、酷く羞恥に歪んだ申し分ない涙目だ。
ようやく本題に戻って来た。
すっごい遠回りした。
「……達筆だよな。羨ましいわ」
「お世辞は結構ですっ! どこまで読んだんですか!? というか、どうやって見つけたんですかっ! 勝手に触るなと忠告した筈では!?」
そこそこプンプン丸。
今の今まで日記の存在などまったく口にしなかったのだから、彼女にとって最高レベルの機密事項であることは聞かずとも明白。
よりによって内容のほとんどを占めている人物に読まれてしまったのだから、居ても立っても居られないだろう。首まで真っ赤に腫らしてグッと俺を睨み付ける。怖くはない。可愛い。
「分かっとる。お前が怒りに狂う理由はよう分かる。だがそれを踏まえて、敢えてこう聞きたい。どこまで読んだと思う?」
「喧嘩売ってるんですか!?」
おふざけモードでは乗り切れそうにない。
素直に真面目に謝るとしよう。
とはいえ、一度読んでしまった。知ってしまったからには、こちらとて思うところもある。
こんな八方塞がりの壊滅的な状況に陥って、俺がなにを言い出すか。彼女はとっくに気付いている筈だ。
「読んだよ。家出云々が終わった日の、最初の方まで。ホンマや。嘘は一つも無い……悪かったな」
「…………そう、ですか……ッ」
真っ赤な顔が見る見るうちに蒼白へ染まる。そのままベッドへ腰を下ろし、日記を胸に抱えたまま布団へ倒れ込んでしまう。
布団に顔を押し付け、なにやらブツブツ呟いている。比較するでも無いが、場所と相手こそ違えど妙に見覚えのある光景だった。
「おしまいです……これほどの生き恥、醜態を晒してしまったからには、もはや陽の当たる道を歩くことさえままなりません……!」
「言い過ぎやって。絶対」
「こんな思いをするくらいなら、いっそ草や木に生まれたほうがマシだったのです……ッ!!」
「えぇ……」
今日は随分と気の浮き沈みが激しい。
原因はすべて俺だけど、それにしたって。
困ったな。俺のせいでこうなっているのは百も承知として。彼女がこの調子では、せっかく部屋まで上げて貰った意味が無くなってしまう。
今まで見せてくれなかった、琴音のもっと深いところを知りたい。それだけの動機だった。これでは殻に籠ったまま。何も変わらない。
……仕方ない、か。
タイミングも悪かった。良かれと思ってやったことだけど、裏目に出た。琴音を困らせるだけで、適切なアプローチではなかったかもしれない。
俺も焦っていたんだ。他の三人と次々に関係が明確になって、琴音ともきっとそうなると思っていたが。
でも違う。彼女は他の奴らとはだいぶ違うペース、時間で生きているのだから。踏み込むにはまだ少し早かったのかも。
これまでもゆっくりゆっくり、一つずつ丁寧に積み上げて来た関係。この程度の遅れは予定調和。許容範囲ということなのだろう……。
「……ごめんな、調子乗り過ぎたわ。反省する」
「当然ですっ。最初から素直に謝罪してください……!」
「このまま反省回や。今日は帰る。お家デートって気分でもねえだろ」
「…………へっ?」
「いやだから、帰る」
「えっ?」
「布団被ってるから聞こえねえんだよ、お引き取りになるから許してくれっつってんの……あぁ、ごめんなそんなこと言える立場ちゃうわ。ホンマごめん」
「いえ、そのっ……」
長い黒髪を波打たせスクっと顔を競り上げる。
少し乱れた前髪の奥から覗く、つぶらで大きな瞳。
なんだ。その、縋るような目は。
寂しそうな表情は。
この期に及んで分かりやすい顔を。
「……なに?」
「…………あっ、あの……そのっ……」
「どした。この際やしハッキリ言え。罵詈雑言なら幾らでも引き受けるで」
「いえ、ですから、そのっ……そっ、そういうわけではなくて……」
馬鹿に言い淀む。
息継ぎの仕方を忘れてしまったのか。
たどたどしい操りで綴られたその言葉は。
俺の予想を大きく裏切った。
「……怒っては、ないです……」
「えっ?」
「ただ読まれたのが恥ずかしいというだけで、それだけなんですっ……怒ってません……」
「……とてもそうは見えなかったが」
つまるところ何を言いたいのだ。別に怒っていようが怒っていなかろうが、琴音にとって不利で不条理な状況にあることに変わりは無い筈では。
汚れ一つ無い真っ新な純白の布団の裾を握り締め、琴音は更にこう続ける。
「…………だめ、です……っ」
「……なにが?」
「ゆ、許しませんっ。帰っちゃだめです……っ! だって、読んだんですよね……知ってしまったんですよね……っ!?」
酷く震える声色。激しい不安と焦燥に苛まれたグラつく眼差し。けれど、彼女はハッキリとそう言った。決して目を逸らさず、俺を見つめていた。
「分かってます……このままではいけないと、誰よりも自分が一番分かっているんです……! 今日という日を逃したら、私は……私は一人だけ……!」
「…………琴音?」
「もう逃げるのは、誤魔化すのは嫌なんです……っ! 貴方が今日、何を思い、何を考えてここへ来たのか……今日この日まで、比奈と……皆さんと何をして来たか……知ってるんです、私だって……っ!!」
今にも泣き出しそうだった。いや、前髪で隠れているだけで、本当はもう涙で溢れているのだろう。声を聞くだけでなんとなく察してしまった。
そうか。そういうことか。
ちょっと見くびり過ぎたんだな。
こんな可愛らしい恰好をして俺の前に現れたときから。いや、修学旅行で映画のチケットを渡したあの瞬間から。或いはそれよりも前から。
琴音だって、覚悟を決めていたんだ。俺たちの関係を一歩先へ進めるために、悩んで、悩んで、必死に藻掻いて、今日この場所まで。ここまで漕ぎ着けたんだ。なんとなく気付いていたじゃないか。
それをちょっとしたアクシデントで見過ごした気になって、無かったことにしようとして。そっちのほうがよっぽど裏切りだ。
変わろうとしているんだ。本当の意味で。
俺の手助け無しに。
大好きなゆるキャラに成り代わることさえせず。
自らの力で、殻を破ろうとしている。
琴音、お前も……。
「……そんなに日記が気になりますか」
「ああ。最後まで読みたい」
「…………なら、私が読みます。読んであげます。声に出して……ちゃんと、聞こえるように……何もかも、嘘偽り無く話します。だからっ……だから……っ!」
歯をグッと食い縛り、必死に涙を堪える。
想い入った決心を喉に詰め込んで。
馬鹿に恐ろしそうに。
でも妙に清々しい声で、こう言った。
「……聞いてください。私の気持ち……ぜんぶ、聞いてください……っ」
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