644. ふわふわ
「無理ィ゛……死゛ぬ゛ゥ……ッ゛!!」
「あっははははは! 顔ヤバっ! きもッ!!」
食後の軽い運動とはいえ、男子顔負けのスピードと多彩なテクニックを兼ね備える瑞希だ。
普段の練習でも油断すれば簡単に抜かれてしまうのだから、迂闊に挑んでいい相手ではなかった。
絶望的に悪いコンディションの弊害か。舞洲で内海と対峙したときと同じような感覚でさえあった。
純粋にクイックネスで遅れを取ってしまうのだ。どうにか縦を切っても、軽快なフェイクでいとも容易く中へ侵入される。
「ほらっ、もっかい行くよっ!」
「待って待って無理っ、ホンマ無理゛ッ!!」
「この恨み晴らさで置くべきかァーっ!!」
「どの恨みやちゃんと説明しろッ!!」
ボールを回収し再び突っ込んで来る。フルコートで正規のゴールサイズを背に一人で守らなければならないのだから、彼女相手では相当な難題だ。
足裏を駆使し、ちょこちょこボールの位置を入れ替えながらスペースを探る。
これは足腰の疲労に関係なく厄介だ。どこでギアを上げるかまったく読めない。
だが癖はあるものだ。あのボールの晒し方なら、たぶんアレが来る筈。一回くらい止めないと格好が付かない。多少無理してでも最後は……。
「チッ、バレたか!」
両足でボールを挟み踵で蹴り上げる、十八番のヒールリフトだ。ふわりと頭上を越え綺麗に決められたが、予測はしていたから対処は出来る。身体さえ着いて来ればなんてことはない……!
「グっ……ッ゛!?」
「はい遅すぎッ!!」
やはりトップギアに入るまで時間が掛かってしまい、先にボールを触られる。右足アウトで中に切れ込み、もう一度縦へ。
予測はしていたが、縦の動きには反応出来なかった。身体が着いて来ない。情けなく転倒する俺を嘲笑うかのようだった。
左脚を振り抜きゴールネットが軽やかに揺れる。完敗だ。いくらコンディションが悪いとはいえ、ここまで好き勝手やられた記憶も無い。
「超劣化してんじゃん。どしたのハル」
「……腰痛゛い……死ぬ゛……ッ」
「サカりすぎた罰だな。まちがいねー」
ケラケラ笑いながら近付き、倒れ込んだ俺の頭にボールをぶつけて来る。腰にまで鈍く響いて結構なダメージだ。普通にやめてほしい。
「せっかくレベルアップして来たってのに。ハルがこんなんじゃ意味ねーし」
「……いや、見てるだけでも分かる。前より縦の意識が強くなったな。特訓の成果、ちゃんと出とるで」
「そーお? まー、ならいっか」
生半可に技術がある分、それに固執して『ドリブルで抜き切ってナンボ』みたいなところがあった瑞希。
故にフィニッシュへ至るまで力を使い果たし、ゴール前での精度が落ちてしまう。遠征でも見られた彼女の課題だった。
年始に指摘されて以来、しっかり課題解決に取り組んで来たようだ。俺が着いて来れないと見るやシンプルにシュートを打つシーンが目立つ。
単に上手いだけの選手から、より怖さのあるドリブラーになった印象。今の瑞希なら愛莉は勿論、あの栗宮胡桃にも引けを取らないだろう。
「あたしも休憩しよっと」
隣に座ってつま先だけで軽々とリフティングを始める。息をするように軽々と。難しいんだぞ座りながらって。
「なんか、久々だね。ハルとガチでやり合うの」
「悪かったなゴミみたいなコンディションで」
「まーそれはそれよ。みんながいると二人だけでってのもあんま無いからな」
有希と真琴が頻繁に参加するようになった直近の練習では、瑞希も教える側に回って余力を残したプレーが多い。
パスワークと守備連携に時間を割いてしまうから、瑞希のポテンシャルを最大限発揮する場面は限られてしまうのだ。
目前の青学館との練習試合に向けて良い調整になっただろう。もっとも瑞希だけ本調子で俺や愛莉がボロボロじゃ、なんの意味も無いけどな。試合までに体力と性欲が標準まで回復するか否か。
「んー……っ! いーカンジに涼しいわぁ……」
「寒くねちょっと」
「んな薄い格好してるからだよ。海近なんだから当たり前じゃん」
飯屋で服装について何か言い掛けたのはそれが理由か。この公園は海抜の低いところにあるようで、すぐ近くに海岸が見える。通りで寒いわけだ。
仰向けでごろんと寝転んで、暢気に欠伸を噛ます瑞希。パーカーが捲れて真っ白なお腹がチラリ。
好きなだけ動いて身体も暖まって来た頃だろう、太陽も顔を出してお昼寝にはちょうど良い。瑞希にとっては。俺は寒いけど。
「シーワールドのときもさ、こんな感じだったよね」
「懐かしいな。もう半年以上も前か」
忘れもしない夏休みの思い出。SNS用の動画を撮るとかなんとか言って、二人きりで遊びに行ったんだ。芝生の広場で汗だくになってボールを蹴った。
互いに悪ノリが過ぎて、何故かキスしそうになって。子どもに騒がれて慌てて取り止めたんだよな。覚えてる覚えてる。
デートと称するには微妙な時間だったけれど、あれはあれで楽しかった。以来シーワールドはご無沙汰だ。また行ってみたい。土産のシロイルカも半年も一人でベッドにいて寂しそうだし。
「ネタばらししていい?」
「なんの?」
「あんときなんだよね。ハルのこと好きなんだって、ちゃんと気付いたの」
「…………急にどうした」
「んだよ、いーだろべつに」
特に恥ずかしがる様子も無く隣でヘラヘラ笑っている。男女の逢瀬にはなんとも不釣り合いな装いだが、転じて瑞希らしいというものだ。
「いやまぁ、ずっと気にはなってたんだけどな。でも気付かなかったんだよ。フットサル部でずーっと一緒にいて、男って感じでもなかったから。意識の内側に入ってたってゆーか?」
「ほーん……」
「きっかけはちんちん見せられたやつだけどな」
「酷い理由もあったもんや……」
今になって振り返ると、俺たちの距離感がバグり始めたのはあの夏合宿の事件が境だったようにも思う。
瑞希がなんの気なしにベタベタして来るものだから、なにが正常か分からないまま距離が縮まってしまったのだ。
フットサル部が閉じた集団で良かった。あの感覚でクラスの女子と接していたら社会的に終わってた。
「でもさ、やっぱダメだったんだよね」
「……なにが?」
「全然そんなつもり無いのにさ。気付いたらハルの後ろに、パパの顔が見えるんだよね。そんなことない、パパとハルは違うんだって、必死に言い聞かせても……やっぱり見えるんだわ。ずっと見えてた」
遠くスペインで暮らす父親。いや、元父親か。当時の瑞希はまだ、異国の地で過ごした幸せな幼少期の思い出をどこか引き摺ったままだった。
俺と父親の影がピッタリ重なってしまうことを、彼女はなによりも恐れていた。認められないまま悪戯に時間が過ぎ、比奈の一件を機に爆発した。
「まっ、終わったことなんだけどな。ぜんぶ。ごめん、別に今更悩んでるとかそーゆーのじゃないから。安心しやがれ」
「……ん。なら良かった」
誕生日パーティーのあと、俺に指摘されてようやく自覚することが出来たのだ。俺との関係が、愛情が。決して父親の埋め合わせでないこと。
「昔はさ、小っちゃい頃の思い出ばっか夢に出て来たけど。最近はほとんど無いんだ。ハルと一緒にいる夢ばっか見る。たまに長瀬イジメたりな」
「現実とさほど変わらんな」
「あははっ、マジで言えてる! あ、そう、こないだな! 大量のくすみんにモフモフされる夢見てさ、あれマジでヤバかった! 聞く? 聞いとく!?」
「超興味あるわ。話せ」
「なんかね、めっちゃ柔らかいとこにいんの。どこか分からんけどすっげえふわふわしてんの。色々。で、くすみんがブワァって出て来て『瑞希さん、瑞希さん』って言いながらギューってして来て、それがどんどん増えてさ……!」
嬉しそうに夢の内容を語る瑞希を、柄でもなく笑みを溢しジッと眺めていた。不思議なことは無い、中身の無い話で盛り上がるいつも通りの瑞希だ。
しかし、なんとなく腑に落ちない。
出会い頭に彼女が見せたどこか上の空な態度。本当にお腹が空いていただけだったのだろうか。単なる思い過ごしなのか?
いや、そんなことはない。
どれだけ近くでお前を見て来たと思っている。
裏がある筈だ。
というか、だいたい察しは付いている。
昔の話を掘り起こしたくらいなのだから。
お前、なんか誤魔化そうとしてるだろ。
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